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殴り合う貴族たち -平安朝裏源氏物語

2006-05-18 21:36:34 | BOOKS
繁田 信一 「殴り合う貴族たち -平安朝裏源氏物語」 柏書房 2005.09.25.

『源氏物語』の主人公である光源氏の人物造形に影響を与えた実在の人物の一人が藤原道長であった。しかしながら、王朝時代に実在した藤原道長という貴公子には、およそ光源氏の所業としては考えられないような、貴公子らしからぬ不適切なふるまいが少なくない。試験官を拉致して宮人採用試験の結果を改竄させようとした件、また、長和2年(1013)8月15日には、前摂津守藤原方正および前出雲守紀忠道の2人を自邸の小屋に監禁するという挙に出ている。この「貴族」が監禁されたのは、道長の妻の外出の準備を手際よく進めることができなかったためであった。 
藤原道長の素行の悪さを伝えてくれているのは、道長と同じ時代を生きた藤原実資という人物の日記『小右記』である。藤原実資の『小右記』には道長の理不尽な暴力が幾度も登場する。「庶民」に属する人々もしばしば道長の暴力に泣かされた。長和2年6月、祇園御霊会の行列に参加していた散楽人たちが、道長の従者たちから衣装が破損してしまうほどの暴行を受けている。庶民層の人々が心待ちにしていた祭礼が、道長の指図する暴力によって台無しにされてしまったのである。 
道長の「御堂関白」という号は、彼の臨終の場となった法成寺に由来する。道長一門が総力を挙げて建立した法成寺は、平安京という都市を破壊することと引き替えに完遂された、当時としては最も大規模で最も罪作りな事業であった。治安3年(1023)の6月8日、平安京に隣接した賀茂川の河川敷の広大な一郭を占める法成寺の境内に、数多くの岩石が運び込まれた。 
御堂関白家の御曹司たちの指揮のもと、平安京内のさまざまな建造物を支えていた数多の礎石が、法成寺に新堂を造立するという目的で、次々と奪い去られていった。平安京の正門である羅城門・御苑である神泉苑の門・離宮である乾臨閣といった平安京内の大型施設の他、左右京職・穀倉院などの京中に点在する宮司や、さらには、大内裏の中にあるいくつかの宮司までが、礎石を持ち去られた。 
羅城門・神泉苑・乾臨閣などに止めを刺したのは、間違いなく道長一門の暴挙であった。 
万寿元年(1024)3月27日、またしても関白頼通をはじめとする道長一門の貴公子たちの指揮で数多くの岩石が法成寺に運び込まれていった。道長一門にしてみれば、平安京内の施設や宮司には、もはや礎石の採掘場としての意味しかなかったのだろう。 
だが、道長一門が平安京を破壊したのは、寺院を建立するためばかりではなかった。法成寺の建立を開始する以前から平安京を壊しはじめていた。 
寛仁2年(1018)6月26日、平安京は騒然としていた。京中を通行する多くの人々が、次々と駆り集められては、大きな岩石を運ぶ重労働を強いられていた。さらに、岩石が運ばれる道筋に立ち並ぶ民家は、容赦なく解体され、岩石を運ぶ道具とするため、その柱やら戸やら壁板やらが無数に掠奪されていった。 
京中を往還する人々を強制労働に駆り立てたのも、沿道の民家を破壊して建材を強制徴用したのも、道長やその息子たちに仕えるごろつきのような従者たちであった。 彼らの目的は道長の所有する邸宅の庭の造営であった。道長が所有していた大邸宅、南北140m×東西120mほどの広大な敷地を持つ土御門第には、巨大な庭が附属していた。そして、道長の御曹司たちは、その大きな邸宅の大きな庭を整備するため、平安京を破壊し、いくつもの大きな岩石を土御門第へと運んだのであった。『源氏物語』の主人公である光源氏も、「六条院」と呼ばれる巨大な邸宅を造営するが、物語世界では、その大邸宅を造るために光源氏が平安京を破壊することはなかった。しかし、現実世界の光源氏たちは、そんなことを平然とやっていたのである。

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