パンセ(みたいなものを目指して)

サッカー・音楽・本・旅・それから市民生活に関すること、普通の庶民が思いつく偏見と独断に満ちた省察(?)

4部作 第一弾「春の雪」

2017年05月06日 07時51分03秒 | 

夜になると目は情けないくらいかすみ目でしょぼいが
先日の宗次ホールまでの往復の時間つぶしにトライした
三島由紀夫の「春の海」は思いの外電車の中でページが進んだ

記憶に自信がなくなっている現在は、こうした一気読みが良いのかもしれない
近々の記憶が怪しいとは言え、さすがに読書を再スタートしても
しばらくすると(とりあえず)思い出すことができる

約半世紀ぶりの再読
こんな内容だったのか、、と思うところもあれば
僅かに覚えている部分もあるが
これなら覚えていないはずだ、、、と勝手に納得したりもする

やはり若い時に感じた人工的な作り物の様な感覚
それはこの作品が「金閣寺」の作者だということを再認識させる
「金閣寺」はその本の世界の相性が悪くて最後まで読めなかった

感情移入ということが熱中には必要になるが、およそこの本の登場人物の誰にも
感情移入はできなかった
自分の平凡な感覚からすればここに登場する人物は、みんな変な人たちだ
変な人たちだから物語になるのかもしれないが 、
生活環境とか育ち方が違ってきているとはいえ、(その生活ぶりは興味はあるが)
ずっと違和感だけが残った

語り手、登場人物、文体、、、そうしたものに個性はにじみ出る
確かに三島由紀夫は独特の美意識とかイメージするものの描写は流麗で
そこまでの描写が必要なのかと思われるほど雄弁だ

覚えていないはずだ、、
との思いを持ったのは、半世紀前の自分では余りにも経験値が少なすぎた
ストーリーを追ったとしても、その背後にある移ろゆく気分とか意識、
また肉体的な欲望などは、そのときには想像の世界でしかなかったのかもしれない

この本を読んでいる時に思い出したのがヴァーグナーの「トリスタンとイゾルデ」
聡子と清顕の状況は、なんとなくそれに似ている
許されるべきではない、という状況だからこそ後先を考えることなく進んでいく情熱
また夏目漱石の「それから」も思い浮かんだ

しかし、何かがこれらとは違う
それはヴァーグナーの「トリスタンとイゾルデ」も漱石の「それから」も
全人格的な闘いを(作品の中で)行っている
それは個人的な美の感覚の中で収まるものではなくて、もっと一般化できるもので
それ故に普遍的な意味合いを持つ
しかし、この作品「春の雪」はある一部の世界のこと、、、物語に終止している
(他の人はどうかわからないが、少なくとも自分にとっては)

全人格的な闘い、、などと大げさな言葉を思いついたものだから
考えはあらぬ方向に飛んで村上春樹のことを考えた
この人も相性が良いとはいえなくて読んだのは「ノルウェーの森」と「1Q84」くらいなもの
独特の一種詩的な幻想の世界が醸し出される技術・筆力はずば抜けているかもしれない
しかし、ある批評家が彼の小説を「中間小説」と評価したのはなんとなく分かる
そこには前時代的かもしれないが身を削って、何かに向かう激しさが足りない
(と自分には思えてしまう)

今回たまたま勢いで「春の雪」を読むことになって、文句を言いつつも
それなりに楽しむことが出来たのも事実
この機会だから残りの「奔馬」「暁の寺」「天人五衰」も一気読みもいいかもしれない
全人格的な闘いが有るか無いかは、最後まで読んでから判断すべきものかもしれない

ところで、このヴァーグナーの「ニーベルングの指環」みたいな4部作
昔から気に入っていたのは本の内容ではなくて、その装丁


本当にこれは無条件に好きだな
それだけで手元に置いておきたい 

P.S.本のタイトルが「春の雪」とあるのは、作品中のあるエピソードから来ているが
このタイトルを選んだ理由は、なんとなく分かるな、、 

GW、のどかな時間の過ごし方、、、 

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