パンセ(みたいなものを目指して)

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官僚に関する本(一部抜き出し読んでみた)

2017年03月15日 20時16分41秒 | あれこれ考えること

官僚、あるいは職員の考え方なり行動様式が気になっている
そこで官僚に関する本(官僚の反逆・権力と支配)を読んでいたら
付箋を付けたい部分が見つかった

まずは「官僚の反逆」中野剛志著から

まず官僚は規則の拘束の下で職務を遂行し、「非人格的な没主観的目的」----つまり「だれかれの区別をせず」----に奉仕する義務を負う。こうした官僚のあり方は、封建社会における主従関係と対比すると、その近代的社会に固有の性格がよりはっきりする。

封建制度では家来が領主などある特定の一支配者との間に主従関係を結んでいたのである。これに対して官僚の忠誠心が向けられるのは、特定の人格ではなく「国家」あるいは「企業」といった非人格的で客観的な対象である。官僚は、特定の人格に仕える家来とは違って、「だれかれの区別をせずに」仕えることができる。したがってもっとも純粋な官僚とは自動化されたマシンのようなものなのである。

規則に従って事務処理をする官僚制の特徴は、その作業の迅速さと精確さである。かつては名望家が行政事務を兼務していたり、会議によって行われていたりしたために、事務処理には時間がかかり、また精確さを欠いていた。しかし近代社会では専門的に訓練された官僚が、一律の規則に従いつつ作業を分割して処理するために、事務処理は効率的で迅速に遂行される。

官僚は没主観的目的に向けて(だれかれの区別をせずに)事務作業を自動処理する。これは「計算可能な規則」に従って事務処理を行うことを意味する。この計算可能性こそ官僚制化現象の重要な特質である。さらには近代社会を支配する価値観としてウェーバーが抽出したものである。

だれかれの区別をせずに、主観的な判断を入れずに迅速に物事を処理するには客観的な判断基準が必要になる。そのためには、判断基準を定量化・数値化することである。物事を数字で判断とするということは官僚個人の主観的価値判断や感情が排除されるということである。なぜなら主観や感情は定量化できず計算可能ではないからだ。まさに官僚の採用自体が、計算可能な規則に従っている。官僚は、属人的なコネや人事担当者の好き嫌いではなく、試験の成績という定量化された中立的な判断基準に従って、公平に作業されているのである。

なるほど、分かる気がする
まだまだ気になる部分が続く 

非人間化こそが美徳

官僚が中立的で公平な判断基準に従っているということは一般的には望ましいものと考えられている。確かに行政が特定の政治家や政治家集団の利益追求に偏向せず国民全体の利益を考慮するという意味での中立性や公平性は、望ましいものである。しかし、もしこの公平性あるいは中立性が、官僚が一切の主観や感情を交えずに、定量的な規則に従って淡々と事務を処理することだと理解された場合には、どうか。それは官僚を「非人間化」するという意味になってしまう。ウェーバーが官僚制を論じた時に問題としたのは、このことだった。 

官僚制が「非人間化」されればされるほど、それだけより完全に、官僚制は資本主義に好都合なその独特な特質を発展させることになる。ここでより完全にというのは、官僚制が、愛や憎しみ、およびいっさいの純個人的な、総じて非合理的な、計算できない感情的要素を、公務の処理から締め出すのに成功するということなのであって、それは官僚制の特性として賞賛される固有の特質なのである。まことに近代文化が複雑化と専門家の度をくわえるにつれて、それは個人的な同情、恩寵、恩恵、感謝の念に動かされる古い秩序の首長のかわりに、人間的に中立・公平な、それ故厳密に、「没主観的」な専門家を、それ「近代文化」を支える外部的装置のために必要とするのである。

面倒な事を考える人もいるものだと思いつつ、更に付箋の部分は続く

大衆民主政治において、「民主主義」とはいうものの、大衆は実際には政治に能動的に参加しているとはいえず、自治が実現しているわけではない。大衆民主政治とは、人々の政治参加による自治のことではなく、多数派が形成する世論によって支配されるような政治なのである。大衆民主政治とは、オルテガの区分を借りれば、「古い民主主義」ではなく「超民主主義」である。この「超民主主義」に随伴する現象が、官僚制なのである・オルテガもまた大衆社会においては「生はすべて官僚化される」と述べている。

自治という言葉まで出てきた、この手の思考になれていないので気分だけわかった気が、、
次に「権力と支配」マックス・ウェーバーから付箋部分の抜き出し

官僚制的行政は、知識による支配を意味する。これこそは、官僚制に特有な合理的根本特徴なのである。

専門知識に由来する強大な権力的地位に止まらず、官僚制(または、それを利用する首長)は、職務上の知識、すなわち、職務上の交渉をつうじて獲得されるか、「文書に精通した」実務知識によって、その精力をいっそう増大させようとする傾向がある。

「職務上の秘密」ーーーその専門知識に対する関係は、技術的知識にたいする商業経営上の秘密に、ほぼ匹敵するーーーと言う概念は、唯一とはいえないまでも、とにかく官僚制に特有な概念であるが、それは、このような勢力をえようとする努力に由来するのである。 

専門知識、文書に精通した実務知識、、、これぞ官僚というところか
官僚にも苦手な人達がいる(みたい)

 

知識、つまり専門知識が実務知識の点で官僚制より勝っているのは、自己の利害に関する範囲内では、おおむね私的な利害関係を持つ人、したがって資本主義的企業者だけであるにすぎない。

 

彼こそは官僚制的・合理的な知識の支配の不可避性にたいして、実際上(少なくとも相対的に)免疫性を持った唯一の機関なのである。それ以外の人々はすべて、大量成員団体のなかでは、官僚制的な支配に所属することを余儀なくされるのであって、それはちょうど、財貨の大量生産において、没主観的な精密機械の支配に従属することを余儀なくされるのと、まったくことなることはない。

官僚という人々はここまで抽象化された人間なのだろうかと少し疑問を覚える
官僚個人の出世欲・名誉欲・闘争心・妬み・やりがい、、など数値化されない人間的なものが
行動のエネルギーとなっていることもありそうな気がするが、、

これらの非人間的な行動様式とハンナ・アーレントの「思考停止」と
フロムの「自由からの逃走」との関係はどうなんだろう
どうでもいいことだが、何故か気になる、、、
(ほんと、どうでもいいことだけど) 

 

 

 

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