パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

再読したい二冊、「孤独な群衆」と「道徳と宗教の二源泉」

2017年11月09日 08時30分14秒 | 

今更ながら自分の興味があることに気づいた
それは読んだ本にも現れている
具体的には、「大衆」というものについて
「官僚(職員)という人たちの思考パターン」について
「個人の判断」について
そして「メディア」について

読んだ本と言えば(直近ではないが明らかに影響を受けているもの)
「大衆の反逆」(オルテガ)
「責任と判断」「全体主義の起源」(ハンナ・アーレント)「権力と支配」(マックス・ウェーバー)
「自由からの逃走」(フロム)「責任と判断」(ハンナ・アーレント)
「選択の科学」(シーナ・アイエンガー)「ファスト&ロー」(ダニエル・カーネマン)
「意識は傍観者である」(デイヴィット・イーグルマン)
「太平洋戦争と新聞」(前坂俊之)「戦争と新聞」(鈴木健二)「安倍政権にひれ伏す日本のメディア」(マーティン・ファクラー)

それぞれが絡み合い自分の頭の中で再構成される(いや、それは実力的に無理か)
ただ、人々が簡単に口にしてしまう「民意」みたいなものが
実は無責任な「大衆」という存在の数の多さで正当化される怖さをつくづく感じてしまう
(全体主義の起源の中にも書かれていた)
「人権」というものが当たり前に存在しないこと
異質な存在(人々)を目の前にしたとき、人はつい優劣の判断をしてしまいそうなこと
そしてその折り合いの困難なこと
ある環境下では人は「思考停止」に陥り、法的な命令に従っているに過ぎない行動をおこすこと
(その時の個人の判断は、何に従うか)
すべての責任を自ら負うのだとしたら、それほどの自由は重荷になるかもしれないということ
物事の判断の前提となる情報の認識の仕方がかなり直感に左右されること
熟慮されて間違いのなさそうな理性的な判断ですらある思い込みからなかなか抜け出せないこと
またメディアの果たす役割と、それ自体が経済的な要因に左右される存在であること
ざっと挙げてみたが、実は頭の中に存在しているのは、この様なものではなく
もっとごちゃごちゃしたやりきれない人の業のようなもので
何かしらこうして書き出したものとはちょっと違うようなところもある
 

その他にも「戦争まで」(加藤陽子)「天皇機関説事件」(山崎雅弘)等が
最近の気分に影響を与えている
ただ、あまり楽しくなさそうな本ばかりが並ぶことに驚く

昔夢中になったフリーマントルのスパイ小説やミステリーは最近ずっとご無沙汰している
読書にブレーキがかかった時は軽いミステリーが良い食前酒となるが
今はその助けはいらない感じで、読書欲は幸い旺盛だ
昔読んで、内容は覚えていないが面白かったという印象の残っている「孤独な群衆」(リースマン)
なんだかあったかい気分で読み終えられた「道徳と宗教の2源泉」(ベルクソン)
この2つは、再読したい気分だが、文字が小さくて、、困る、、

でも、挑戦してみるか、、、
途中で投げ出したら、その時は、その時、、

 

コメント
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