河童の歌声

歌声喫茶&キャンプ&ハイキング&写真&艦船

私の動画の最高ヒット数が8万回になりました

2017-06-14 19:41:20 | 歌声喫茶
ちょっとHな替え歌


私のユーチューブ動画は、
以前は(AKTAIZAN)のアドレスだったのですが、
理由は何だかよく分からない内に観られなくなってしまい、
仕方なく新しいアドレス(赤川泰山)での登録で再発行となりました。

その両方を通じて最もヒット数の多かったのが、この動画です。
2009年7月11日~12日に行った、歌声バス旅行、
さくらんぼ狩りで八ヶ岳山荘に泊り、歌声をやった時の映像ですが、
それが今日、たまたま観たらピッタリ80000回になっていました。

この時はやっぱり凄く楽しかった事を覚えています。
また、皆がそろそろ寝静まる頃、
私を含めて数組のカップルがいつまでも、薄暗いロビーで、
語り明かしていたという印象的な旅行でした。

11.11.13.ベンセレモス・新宿ともしび・労働歌・革命歌だけの歌声喫茶


2番目のヒットは、17237回の「ベンセレモス」です。
これは2011年11月13日の新宿ともしび。
(革命歌・労働歌だけの歌声喫茶)でした。

11.11.26.希望のささやき・唐土久美子


3番目が「希望のささやき」
これは銀座・月夜の仔猫で、唐土久美子さんのミニコンサートです。
2011年11月26日と、「ベンセレモス」と同じくらいの時期です。
ヒット数は13481回です。

10.6.5.仙台にバラライカあり


ヒット数は3047回なれど、
私が皆さんに観て欲しいのが、「仙台にバラライカあり」です。
この時の仙台バラライカの盛り上がりは凄かった。
こういった動画を撮ると、
その瞬間を記録しておいて本当に良かったと感じます。

これからも、良き記録を残すんだという思いで、
カメラを回す所存ですので、皆様方の理解とご協力をお願いする次第です。

よろしくお願い致します。・・河童





コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

初恋物語

2017-06-14 17:28:04 | 日記



先日、歌声喫茶会場である女性と話をしていたら、
彼女が中学校時代にブラスバンドでクラリネットを吹いていた事を知りました。

それで思い出すのは・・・
実は、私の初恋の女性は、
中学校の時にブラスバンドでクラリネットを吹いていた女生徒だったのです。



私の学校の、女生徒のセーラー服は、
いわゆる紺サージで、スカーフの色は、赤色でした。
私の指定校の東海中学は一般的な紺サージに白色のスカーフでした。
しかしその中学はあまり評判が良くないという母親の意向で、
私達、姉弟は越境入学で城南中学に入学したのでした。

その中学でその初恋の彼女に巡り合ったのですが、
彼女のセーラー服は、学校指定の紺サージではなく、
真っ黒な色のセーラー服を着ていました。
きっと何処かの学校から転校してきたみたいでした。

一年生の時に彼女を見染めた私は、
以後、卒業に至るまでずっと彼女だけが好きだったのです。
それこそが私の(初恋)でした。

私の学校は年毎にクラス替えがありましたが、
彼女を好きになった私は、2年生になったら彼女と一緒になりたいと願っていたのですが、
その願いは空しく空振りとなり、ひどくガッカリしました。

そして、3年生になる時・・
つまり、これが最後のチャンスですが、
どうしてなんでしょうね~。
まるで宝くじと同じで、こういった願いって、成就しないんですね~。

ラストチャンスも外れで、私の青春に汚点を記したのでした。
2年の時に仲の良かった奴が、3年生で彼女と同クラスになったので、
私は彼に打ち明け、
「俺、彼女が好きなんだ。彼女の写真が欲しい」と頼み、
遠足などの集合写真を何枚か貰った時は嬉しかったな~。

その写真を見ながら、彼女の絵を何枚も何枚も描いたものです。
今でも思い出しながら、その絵を描けるくらいです。
私は結構、絵心はあったのです。

当時、流行っていたコニー・フランシスの「夢のデート」
この曲は、頭の中だけの私と彼女とのデートでした。
「♪ウォーウォウォー、ウォー、イェイェイェエ」といった、
その頃の流行っていた意味不明の音というか声というか、
それをラジオで聴いては切なく彼女に恋をしていたという、
まさに、(純情)を絵に描いた様な中学生を、やっていたのです。
きっと現在の私を知っている人達は信じられないでしょうけど、
私にだって、純情可憐な中学時代は、一応あったんですよ。

今じゃ単なるスケベおやじのイメージしかない俺だって、
乙女を純粋に恋する清らかな中学生だったんです。
俺を誰だと思ってやがんだッ、なめるんじゃね~ぞッ!

そんなに好きならブラスバンド部に入れば良かったのに、
何でそうしなかったんでしょうね?
それは私にも判らないのです。
きっと度胸が無かったんじゃないのかな?

卒業まで、純情をやっていた私は、遂に彼女とひと言も言葉を交わす事はありませんでした。
私の親しい友達は、一年年下の女生徒を好きになり、
彼女に「俺と付き合って欲しい」と一対一で申し込みをしたんですが、
「私はまだそんな気持ちにはなれません」と言って断られてしまいました。
でも、「俺、今から彼女に申し込みに行く」と宣言して、
突撃して、ものの見事に撃沈した彼を見ながら、
私はその男らしさに憧れ、尊敬の念すら感じました。

それに比べて俺は・・・
情けなく時は無情に過ぎゆくのみ。
とうとう卒業式の日が来てしまいました。
誰が何をしてくれるはずもなくの「蛍の光」合唱。
後ろ髪引かれる思いだけが、いつまでもいつまでも心に残るだけの時間。
その切ない思いは、今思い出しても・・・
そうなんです、今でも思い出す事が出来るのです。
それだけ切なかっんでしょうね・・きっと。

49歳の時に中学の同期会がありました。
港区の高輪のホテルでした。
私は、卒業後引っ越しをしたりで幹事さんとの連絡も途絶えていたので、
そういった会に出席した事は一度も無かったのですが、
遂に25年ぶりの中学校時代の友人たちとの再会でした。

しかし、初恋の彼女はそこには来なかったのです。
神田・神保町に嫁いだという情報は得たのですが、それだけでした。
逆に「貴方は私の初恋でした」という想いを打ち明けてきた女性も居ましたが、
私の心は晴れないままでの同期会だったのです。
それが最後で、もう二度と彼等と会う事は無い筈です。

そういった事があったので、
高校生になった時に私がブラスバンドに入る原因だった事は間違いありません。
楽器を始める要因なんて、所詮そんな単純というか不純というか、
そんな事なんですね。
それが、ブラスバンド部期待の新人に私がなろうなんて・・・
私に楽器演奏の才能があるなんて知らなかった。
こんな事なら中学の時にやってりゃ良かったんんだよ。

男であれ女であれ、人として生まれてきたからには、
絶対にある(初恋)
人が人を好きになるって事くらい、素敵な事ってないですね。
その人に好かれたい気持ちで、自分を磨き、進歩し、
そういう事は、好きになる気持ちが失せてしまっては、もうあり得ないんですからね。



原日出子、やっぱりこのタイプに俺は弱いんだ。
初恋の彼女もこのタイプでした。
男って、いつまで経っても好みのタイプは変わらないんだよね。








コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オート三輪

2017-06-14 07:58:33 | 自動車
ダイハツオート三輪 良いエンジン音で動きます。


子供の頃は、当たり前の様に見ていたオート三輪の姿を、
全く見なくなってからどのくらい経ったのでしょう?
あの姿を思い出すと、とても懐かしい感覚が甦ります。

私が子供の頃は、まだ道路もあまり舗装されてなく、
ガタガタの砂利道などが多かった時代でした。
そんなガタガタ道でよく見かけたのが、オート三輪でした。





元々、オート三輪はオートバイを基本に発展した車でした。
ですから最初のタイプを見ると、
オートバイの後部に4輪車の荷台を無理無理取り付けた形をしていました。
ハンドルは、いわゆるバーハンドルという、
オートバイと同じ形をしていました。

エンジンの始動には、現在の様なセルモーターなどは無く、
右足でキックペダルを踏む(蹴飛ばす)キック始動でした。
エンジンがかかると、その反動でペダルが跳ね返ってくる(ケッチン)があり、
もたついていると足を骨折するなんて事故もあったそうです。
これを、「ケッチンを喰らう」とか言ってましたね。



その内にハンドルが、丸ハンドル(現在の自動車と同じ)になり、
大きさも大きくなって始動もセルモーターとなり、
助手席も当然出来て、人間二人が快適に乗れる様になりました。
これはダイハツの三輪車ですが、



それのライバルだったのが、マツダのオート三輪車でした。
三大メーカーと言われたのが、
ダイハツ・マツダ・くろがねでした。



くろがね。



オリエント。

その他にもオリエントやジャイアントなど、
もう思い出す事も出来ない色々な車があった様な記憶があります。
最初に丸ハンドルを導入したのは、
オリエントじゃなかったかな~?

その内に軽自動車(排気量360CC)の車が登場する様になりました。
きっと何かの規格が変わったのだと思います。



ダイハツはミゼットを発売します。



ミゼットは、バーハンドルのタイプから、
丸ハンドルのタイプと発表し、それはブームになりました。
私が一番最後に見たオート3輪は、このダイハツ・ミゼットだと思います。
それは西暦2000年頃だったか・・・



ミゼットのライバルだったのが、マツダB-360でした。
この2台はちまたでよく見ましたね。

しかし、そういったオート三輪の時代は1970年後半くらいだったか、
急速に衰退していき、その内に死滅して行ったのです。

その原因は、オート三輪の致命的欠陥かも知れません。

オート三輪は、日本の道路事情によく適合していて、
小回りが利き、狭い場所ではとても便利だったのですが、
その反面、横転しやすいという危険性と背中合わせだったのです。



車を前から眺めると、そんな感じはしないのですが、
斜め後方から眺めると、その不安定さは一目瞭然。

若い頃、私は車を走らせていたら、
道路右側のガソリンスタンドから、オート三輪が道路に出てきました。
それは右にハンドルを切って私の前に入る形だったのですが、
いきなり前輪だけで逆立ちを始めたのです。
私は「エッ!」と驚いて見ていたら、
その車はスローモーションの様に、横倒しになってしまいました。

ビックリした私は車を停め、運転席のドアを開けると、
乗っていた二人の男たちは折り重なって身動きできない状態。
上から彼等を引っ張り上げたのですが、
そうなんです、オート三輪車の不安定さは致命的なんですね。
私は、こんな車など乗りたくもありませんね。

現代の様に高速道路時代になると、
もうこんな不安定な車など危なくて乗れたものではありません。





その頃、外車では、こんな3輪車もありました。
西ドイツ製のメッサーシュミット。
その頃のドイツは東と西とが分かれていた時代でした。
この車は3輪車ではありますが、
日本式のと違って、前輪がダブル、後輪がシングルだったので、
安定性は日本のオート三輪よりずっと優れていたのだと思います。

そして、この車にはスポーツタイプがあり、
後のタイヤが二つ並んだ形で、一応は4輪車だったのです。
ですから、かなりなスピードが出せたのではないのでしょうか。
とは言っても時代が時代ですからね・・・



これは、セブンイレブンの店の前に置いてある、宅配専用の車ですが、
メッサーシュミットに比べて、こっちの方がよほど乗りやすいと思います。
時代という差は、歴然と凄いのです。

しかし、何と言いましょうか・・・

もう二度とは出現しないと思われる、その時代の車よ。
あまりにも、君たちは懐かしい。
その姿は、私達ロートルの姿と、ある意味合致している所が、
何と言うか涙を誘うみたいなものがあって、いいんですよね。



コメント (1)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする