「へンくつ日記」

日常や社会全般の時事。
そして個人的思考のアレコレを
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出家

2017年02月12日 15時48分59秒 | Weblog

 最近、若い人に人気のある女優が〝職業〟である役者を辞めて「出家」、
つまり宗教活動に入るという報道が流れた。
 そもそも「出家」とは仏教用語で、「普通の家庭生活を捨て、世俗を離れ、
戒律を保ち、修行一筋に専念する」ことを言うらしい。「普通の生活」とは、
仕事をしたり趣味を持ったり、恋愛し結婚し、子供を設けて育児し、
友人や近隣と交流し、社会のために役立つ何か(例えば近所の掃除をしたり、
消防団に参加したり、町内会の世話をしたり、被災地でボランティアをしたり、
友人の悩みを聞いたり)をしたり、税金を納め、選挙で政治に参加し、
自身の向上の為に勉強を重ねたり、そして信仰を持ち清い人生を目指す
(特に欧米や中近東、南アジアでは)ことを言うのだが、そういう「普通の生活」と違う
「出家生活」とは、どういうものなのだろう。
 なるほど、「普通の生活」には、宗教界が定める「戒律」はない。しかし、
人に迷惑をかけてはいけないとか、嘘をついてはいけないとか、法律以前の
いわゆる〝戒律〟は普通の生活にも多くあり、普通の人々は当たり前のように
それを守って生きている。つまり、在家なりの〝戒〟を持っているのだ。
 戒律という視点から、特に日本の仏教界を見ると、殆どの坊さんは破戒僧だ。
なぜなら多くが妻帯している。つまり性行為をしているのだ。
 仏教には僧侶が当然保たなければならない十の戒があり、殺すな、盗むな、
性行為をするな、嘘を言うな、酒を飲むな、おしゃれをするな、娯楽を楽しむな、
フカフカの布団で寝るな、昼から翌朝まで食べるな、財産を作るな、というものがある。
高い位の僧侶には、更に百戒、五百戒というのがあるが(ユダヤ教並だ)、
それを守っている坊さんがいれば見てみたいものだ。そんな戒を保つ僧侶には、
他人にあげないことを条件に私の全財産をあげてもいい。(最も、それを受け取った時点で破戒だが…)
 
 さて、世俗を離れ出家し〝修行〟するというが、厳しい世俗を離れて、
どんな修行ができるというのか。世俗こそが「現実」であり、その厳しい現実の中で
戦い生きていくことのほうが、遙かに人間として成長でき〝修行〟になると思うがどうだろう。
実際、今まで私が関わった〝修行を重ねたという出家者〟は、強欲で酒好き、嘘くさて女好き、
煩悩の塊のような輩ばかりだった。その彼らがやってきた〝修行〟とは、オウムのような
カルト教のそれと変わらないものだ。暗くて狭い穴の中で何ヶ月も過ごしたからといって何になろう。
地球を何周分も山を歩いたからといって何になろう。彼らの最も尊敬する本尊たる釈尊は、
死ぬギリギリまでの断食の末「何の役にも立たないこと」と言って止めたではないか。
絶食や体力の限界に挑戦することで仏に近づけるなら。一流のアスリートは、皆「菩薩」だ。
最も菩薩は、婦女暴行をしたり、闇の賭け事をしたり、蓄財に執着はしないはずだが…。
 
 釈尊は自らが仏として自覚した時から、現実社会の中で暮らす人々の苦悩と
真っ正面から対峙し、同苦し、「正しい人として生きる」ことを説き、
「市井の人々を尊敬し生きる」ことを説き、「あなたたちこそ尊極の人」なのだと説いた。
その中で多くの人が蘇生していった。その「振る舞い」こそが〝仏の姿そのもの〟なのだ。
逆説的に言うと、人々の幸せの為に厳しい現実社会と格闘していく中で、やがて心の中に
釈尊と同じ〝仏〟を見いだすことが出来る。これが修行であると釈尊は言っているのだ。
釈尊の説く〝仏〟とは、知性の人であり理性の人であり慈悲の人だ。そして何より現実と戦う人だ。
その「目標」を間違えれば、どんなことも無意味だ。

僧は俗より出て俗よりも俗なり

 「出家」した全ての人の十年後、二十年後、そして最期を見てみたい。
果たして、「目標」を達成しているのかを…。
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