「へンくつ日記」

日常や社会全般の時事。
そして個人的思考のアレコレを
笑える話に…なるべく

タトゥーは個性?

2012年06月01日 14時52分41秒 | Weblog

タトゥー論議が繰り広げられている。先日も、毎日新聞
茨城支局の杣谷健太記者が、自らもタトゥーを入れてい
ると告白し、日本にはそれを嫌う人が多いと前置きした
後で「(嫌いなものを排除する)社会を望むのならば、ロ
ボットの社会を作ればいい」「日本には四季がある。春夏
秋冬、違う表情を見せる。人間も、それぞれが違うからこ
そ面白い」と、持論を展開している

さて、一見正論に見える彼の「人間四季論」「タトゥー個
性論」だが、それは本当に正しいのだろうか…


もとより、タトゥーを入れる入れないは自由だ。そんな個
人の嗜好に文句を言うべきではないし、言うつもりもない
(但し公務員とヤクザのタトゥー・刺青は別次元だ)
ただ、先の杣谷記者に対して物申したいのだ


個人的に、刺青は大嫌いだ。遠い昔、世間を恨み、誰彼と
無く衝突していた頃、刺青(紋々)を背負った若い任侠と
渡り合ったことがある。彼は背中から肩に掛けて彫られた
「登龍」を僕に見せて凄んだのだ。腕力では負けない自信
があったし、いつ死んでも構わないと思っていた当時の僕
は、そんなものに怯む感情も無くなっていた
僕は彼にわざと近づき、目で龍を追うように刺青を見渡し
てから「なんだこれは、肥満の蛇か?紋々なんざ怖くねぇ
んだ」「皮はいで露天で売ってやろうか?」と逆に凄んでみ
せたのだ。結局、第三者が割って入って最悪の事態は避け
られたが、その時の彼の打ちひしがれた姿は忘れられない
刺青は彼の精一杯の虚勢で、それを真っ二つに叩き切られ
たのだ。全人格を否定されたように肩を落とす彼を見て
刺青を彫らざるを得なかった彼の人生の愚かさを気の毒に
思ったのだが、同時に、その愚かさに強い怒りを覚えた


「強い自分になりたい」「自分以外の者になりたい」「自分
が思う“本当の自分”になりたい」「変化・脱皮したい」
老若男女…とは言わないが、特に若者はこういう思いは強
いはずだ。自分も若者だったから判るし、中年になった今
でも、「強く、より善き人間に変わりたい」と思っている

「変わりたい」思いには二通りあるように思う
ひとつは、自分とは全く異なる「変身願望」
もう一つは、本来の理想的な自分になる「変化・脱皮」だ

自分を変えるために、ある人は目の前の試練と真正面から
取り組む。ある人は肉体的鍛錬に没頭し、ある人は資格試
験に挑戦する。それによって、過去とは異なる自分となる

そういう「変化・脱皮」と異なるのが、外面の“変装”だ
化粧、タトゥー、整形などだが、それらは所詮、借り物の
“自分”。個性というには、あまりに紛(まが)い物過ぎ
る。整形して美しくなった女性が産むのは、過去の自分の
顔とソックリな子供だ。その子も整形させる気か?
前述の若い任侠のように、弱い自分を隠そうと龍の刺青を
入れてみても、弱い自分は変わらない。そして、自分より
強い修羅の前では萎縮し、木っ端微塵に砕かれる。その時
背中の龍は助けてはくれず、逆に虚勢を際立たせ惨めさが
増幅されるだけ。強い自分に変身しようと彫った龍は、役
に立たない、見せ掛けだけの“虚”に他ならなかったのだ


先の茨城の記者は、刺青排除の社会を否定していたが、市
井の人々が刺青・タトゥーを嫌うには意味があるのだ。つ
まり、意識的に、または無意識に、刺青・タトゥーという
紛い物の“虚”を見透かし、その“虚”に頼る嘘くさい生
き方、刺青で人を威圧しようという畜生の心を嫌うのだ

個性とは見せ掛けではない、その個人のみが持っている強
烈なモノ。結局は“人格”だ。見た目は枝葉、二の次三の
次なのだ。だから“虚”の紛い物のタトゥーは、本当の個
性とはいえない。少なくとも公に記事を書く記者ならば
タトゥーを例に、上っ面で底の浅い見た目を取り上げ
「個性の多様」云々を論じてほしくない

「春夏秋冬」を例にとり、人間もそれぞれ違うからいいの
だと記者は書いていたが、少なくとも、自然の四季折々の
花に、人工はない。自らの本来の“色”と“形”と“匂い”
なのだ。紛(まが)い物は一切ない
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