ガラパゴス通信リターンズ

3文社会学者の駄文サイト。故あってお引越しです。今後ともよろしく。

佐々木賢他著「商品化された教育 先生も生徒も困っている」 青土社(本のメルマガ12月25日号掲載分)

2009-12-29 07:23:56 | Weblog
 教育とは、人を育てる営みです。ものを作って売るビジネスとは本来相容れ
ないもののはずです。しかし近年では教育もまた、ビジネスの論理に飲み込
まれてしまいました。

教育のビジネス=商品化は、世界的な趨勢といえます。アメリカとイギリス
が先頭を走り、日本がその後を追う展開がみられます。著者の一人佐々木賢
さんは、長年定時制高校の先生を務めた方です。近年は新自由主義的な教育
改革を批判する論陣を張っておられます。本書は英米の新聞記事を素材とし
て、教育の商品化の実態を紹介したユニークな仕事です。

 教育がビジネスになれば、すべてを会計のことば(アカウンタビリティ)
で語らなければなりません。学校経営でも、子どもの学習到達度でも、すべ
てを数値化して公表することが求められます。当然その数値は年々改善され
なければならないのです。

イギリスでも日本と同様、全国一斉の学力テストが行われているようです。
テストの出来不出来が予算配分等その学校の処遇をきめてしまいます。です
から学校は、テストの点を上げるために血眼になります。大人の都合で点取
り競争に追い立てられるのです。まさに理不尽の極み。

 日米英の3カ国は主要国中、教育予算の対GDP比率が低い国として知られ
ています。国がお金を出さないのだから、教師の給与はどんどんと削られて
いきます。しかも、子どもの荒れや「モンスターペアレンツ」の存在もいま
や世界的な現象なので、先生たちの負担は増える一方です。

労働党政権が行った新自由主義的な教育改革の結果、イギリスで教師は、お
よそ人気のない職種になってしまいました。ブレア前首相が議会での演説で
同国の重要課題は、「教育、教育、そして教育」であると叫んだことを思え
ば何とも皮肉な話です。

 学歴インフレが起こり、高卒が欠損学歴になってしまいました。しかも高
校大学の学費がほぼ無償の大陸ヨーロッパ諸国に比べて英米日の学費は高額
です。低い階層に生まれた子どもたちは、大学に行けない。正規雇用の仕事
に就く機会を最初から奪われしまうことになります。

その結果この3つの国の階層の移動率は、主要国のなかでも低い部類になっ
てしまいました。一生懸命勉強をしてもまともな仕事に就けないのだから、
子どもたちは勉学の意欲がわきません。かくして教師の仕事は、ますます大
変なものになっていきます。

 教育の商品化を推し進めた結果、子どもの学力は低下し、教師は疲弊し、
学校は荒廃してしまった。著者たちは、新自由主義的教育改革路線の破綻を
宣言しています。強い説得力を感じますが、残念ながら「出口なし」の読後
感しか残りませんでした。

本当に希望はないのでしょうか。日本の少年犯罪はとても少ない。「ヨーロッ
パの10分の1、アメリカの100分の1」(本書)程度です。文教行政は
英米と変わらぬ愚かな方向を目指しながら、子どもの荒れは世界でもっとも
小さい。これは日本の親と教師の努力の賜物だと思います。

ナルシシズムの時代

2009-12-26 00:00:00 | Weblog
 クリストファー・ラッシュは、エゴチストとナルシシストという興味深い区分をたてている。エゴチストは、は自己の拡大を目指す人たちで、金銭や地位や権力に執着する。他方、ナルシシストの名は、水面に映った自分の姿にみとれて水仙になったギリシャ神話の美少年に由来すしている。ナルシシストが執着するのは、外在する対象ではなく自己の幻影である。

 エゴチストは「尊大な自我」の持ち主だが、ナルシシストは「小さな自我」(ミニマルセルフ)であるとラッシュは言う。幻想の繭にくるまることによって、巨大な世界から卑小な自己を守ろうとするのが、ナルシシストだ。現代人の多くは、ラッシュによればナルシシストである。

 田中角栄はまさにエゴチストであった。金と権力にあくなき執着を示した。巨大な御殿を築き、ロッキード事件で失脚した後も死ぬまで「闇将軍」として君臨して、政界を支配したのである。外在的な対象に執着し、自我の拡大を目指すというエゴチストの定義に角栄は見事に合致する。

 ナルシシストの大成功者は小泉純一郎だ。彼のワンフレーズ・ポリティクスは、一世を風靡した。05年の総選挙では、「小泉劇場」の座長を見事に演じ、自民党を歴史的大勝に導いたのである。小泉は角栄のような巨大な御殿を築くことはなかった。「4代目」を指名するとあっさり引退してしまった。彼が求めたものは、「かっこいい指導者」という自己の幻影だった。郵政民営化も、靖国参拝もそれを得るためになされたのである。

 「豪腕」小沢一郎は、いまどき珍しいエゴチストである。水面下に潜んでいる時、彼は凄まじい指導力と調整力とを発揮する。しかし彼が表に出ると、バッシングの嵐が巻き起こる。それは彼の存在の反時代性によるものだと思う。ナルシシズムの時代の真正エゴチスト。多くの日本人にとって小沢は、いまに生きる恐竜のように映っているに違いない。

クレタ人の逆理

2009-12-23 00:00:00 | Weblog
 今年TBSテレビが、「官僚たちの夏」という城山三郎さんの小説をドラマ化して放映していました。このドラマのなかで、佐藤浩一らが演じた当時の通産官僚たちは、アメリカの市場開放要求に頑強な抵抗を示しています。官僚たちが「国益」を第一義に行動していた時代へのオマージュとして、この小説を城山さん書きました。日本の官僚は有能かつ清廉だから、天下りのような弊害があったとしても、腐敗し、堕落した政治家などより信用できる。80年代あたりまではまだそう考えられていたのです。

 時代は変わりました。官僚は悪いことばかりして信用できない。だから「政治家主導」だ。民主党の指導者たちは声高にそう叫んでいます。転機となったのは90年代です。官僚たちが「ノーパンしゃぶしゃぶ」店で接待を受けたり、厚生事務次官のマダムが夫の地位を利用した「おねだり」をしていた事実が発覚した時代です。

 そしてこの時代に日本の経済成長路線が破綻したことも、官僚の権威失墜の一因となりました。城山三郎の描いた通産官僚たちは、強力な「行政指導」によって日本の製造業の国際競争力を高め、経済成長路線に大きく寄与していきました。官僚たちは、経済成長マシーンを作動させる達人です。しかし90年代には、このマシーンが作動する余地はなくなっていたのですから、辣腕のふるいようもありません。利権にむらがる醜悪な姿ばかりがクローズアップされていきます。

 首相の「故人献金」問題などをみていても、とても政治家が清廉であるとは思えません。「政治家主導」は、官僚の権威失墜のドサクサにつけこんだ、火事場泥棒という印象をもちます。そして片山前鳥取県知事が、さかんに「官僚はうそつきで信用できない」と言っているのをみると不思議な気持ちになります。この人ももとは官僚だったはずです。官僚がうそつきならば片山氏だって…。まるで「クレタ人の逆理」です。

明日の記憶(みたかった。白川静のイナバウアー・声に出して読みたい傑作選98)

2009-12-20 10:19:59 | Weblog
あれは骨髄移植の治療が終わって退院した直後のことだったか。大学病院で診察が終わって会計の順番をまっていた時のことである。こんなアナウンスがあったのでびっくりした。「はらさん、はらせつこさん、4番の窓口へどうぞ」。おお、あの絶世の美女が!と思って4番の窓口の方をみると、そこに向かっていたのはごく普通の農家のおばあさんという感じの人だった。きっとこの「せつこ」さんは、偶然「はら」という家に嫁にいったためにかの大女優と同姓同名になったのだと思う。

 昨年の3月頃、太郎が腕を骨折した。ドッジボールで転んだのだ。整形外科で順番をまっていると、「あらかわさん。あらかわしずかさん」という呼び出しがあった。待合室がどよめいて、荒川静さんは、恥ずかしそうに診察室に入っていった。普通の若いOL風の人だった。トリノオリンピックで荒川選手が金メダルをとった直後のことである。この1年前までなら彼女の名前が呼ばれても何の反応も起きなかっただろう。そしてあと1,2年もすれば「あらかわしずか」が何者か、覚えている人はほとんどいなくなっていることだろう。

よるとしなみで記憶力がものすごく減退している。学生さんの名前がなかなか覚えられない。ぼくの3年生のゼミに「わかおあやこ」さんという学生がいる。こんな印象的な学生さんの名前でさえなかなか出てこないのだ。末期的である。ある時、苦労してようやく下の名前だけを思い出し、「あ、あやこ…」と言ったところで力つきてしまった。これではキモいおやじである。

 これにこりて「往年の大女優と同じ名前のわかおあやこさん、往年の大女優と同じ名前のわかおあやこさん」と自分の頭のなかで何度も彼女の名前を反芻し、記憶に焼き付ける努力をした。次のゼミの時間がきた。わかおさんがレポーターの日だ。あれだけ頑張って彼女の名前を覚えたのである。今日は大丈夫だ。ぼくは自信をもってこういった。「では、『やまもとふじこ』さん。報告をお願いします」。



『ザ・コールデストウインター 朝鮮戦争』

2009-12-17 06:00:19 | Weblog
本書は、アメリカの大ジャーナリスト、デービットハルバースタムの遺作となった大著である。まだ上巻を読み終えたところだが、いくつか発見があったので記しておきたい。

 ①朝鮮戦争勃発当時のアメリカ軍は装備と兵員の質においてひどく劣化していたという記述には、はっとさせられた。厳しい戦争が終わったのは5年も前のことである。大量の軍人が復員し、平和な時代になれば当然軍事予算は削減されていく。兵士の能力も士気も第二次大戦当時とは比べ物にならないほど落ちていた。

 ②アメリカ軍の士気が上がらなかったことにはもうひとつ理由がある。アメリカにとって軍事的重要性の高い国であり、戦後一転して親米的になった日本の価値を多くのアメリカ人は認めていた。そして宣教師を熱烈に歓迎したかつての中国に対しても、アメリカ人は深いシンパシーを抱いていた。ところが韓国とアメリカはそれまで何のつながりもなかった。韓国のために戦うモチベーションが上がらぬ道理である。

 ③マッカーサーという人は、歴史に名を留める偉人たらんとする欲望に取りつかれていた。アメリカ国内政治においては、極度の保守派で徹底したニューディル嫌いであったにも関わらず、日本の戦後改革においてはニューディラーを重用したのも、より革新的な改革を行い、劇的な変化を日本社会にもたらせば、自らの名を不朽のものとすることができるという計算に基づくものであった。

 ④マッカーサーは、朝鮮戦争においても戦略的戦術的合理性より、自らの名声を高める劇的効果という観点から作戦を採用していった。そのために戦局は混迷を極めていく。そして、マッカーサーだけではなく、この戦争に関わった共産側の指導者ー金日成、毛沢東、スターリン―たちは、みな狂気にとりつかれた人たちであった。。人格に異常性をもつ人たちが、歴史を動かす判断を下していたかと思うと恐ろしい。
 

陳謝

2009-12-14 00:00:00 | Weblog
恵まれた四季をもつ日本がいかに勉学に適さない国であるかについては、先日の日記で完膚なきまでに論証した。そして驚くべきことには、一日の上で勉学に適する時間もまた皆無なのである。

 朝早い時間が勉学に適さないことはいうまでもない。早朝は夜の続き。まだ眠いのである。村上春樹は朝の4時に起きて机に向かっているという見習いたいものだ。しかし早朝は睡魔より、もっと恐ろしい魔が住んでいる。朝の4時から8時までの間は人間のバイオリズムは最低の状態にある。この時間帯に死ぬ人がもっとも多いのだ。「早起き生活」を称揚することも考えものだ。

 昼が近づけば、お腹がすいてくる。空腹時に人間は覚醒すると考えるものたちよ。おのが人生経験の乏しさを恥じよ。私が骨髄移植で入院中、6人部屋で仔細に観察した結果次のような知見に到達した。朝10時半から正午までの間にうつらうつらしている人がもっとも多いのだ。

 昼食後は魔の時間帯だ。私はかつて午後1時から始まる3限にゼミを開いたことがある。これが大きな間違いであった。気がつくとレポーターと余以外のすべての参加者が居眠りをしている。そのうちレポーターも居眠りを始めた。そこで余の記憶は途絶える。余も終了のチャイムが鳴るまでの時間、深い眠りに落ちてしまったからである。学生たちのレベルにあわない本をテキストに選んだのがよくなかったとも思っている。わけのわからない本はお経みたいなもの。お経ほど強力な子守唄は思いつくこともできない。

 夕方は疲れて眠い。当然頭は働かない。夜に勉強をしてはいけない。頭が冴えて眠れなくなる。手塚治虫は睡眠をおろそかにしたから早逝したと水木しげる大先生は言っておられた。1日24時間、常に睡魔に立ちはだかれるのである。しかし、書かねばならない原稿は山とある。原稿を落として「すいません」ですむほど、世の中は甘くはない。

ロストジェネレーション

2009-12-11 06:51:04 | Weblog
  恒例の合同ゼミが、今年も終った。H大のあるゼミは、担当の先生がかつて教えていた大学の30代OBのインタビュー結果を報告していた。「ロストジェネレーション」と呼ばれる世代だが、なるほど、みな非常に苦労している。

 数名の男女にインタビューをしていたが、みな一様に解雇されたり、会社が潰れたりした経験をもっている。しかし現在、正規雇用の仕事に就いている人が多かった。ある仕事がだめになっても、仕事の上での知り合いから誘われて、次の仕事が見つかることが多いのだという。流行りの「社会関係資本論」の用語でいえば「ウイークタイズ」に救われたといったところか。

 彼らは「団塊ジュニア」でもある。寄らば大樹の陰。彼らにとって親の世代は、教員や公務員など「官」に連なる安定した仕事に就くことを子どもに勧める、「昭和な価値観」の体現者だ。そうした親世代の価値観と時には対立しながらも、うまく折り合いをつけて彼らはここまで生きてきた。基本的に彼らと親世代との関係は良好で、経済的に苦しい時には家族に支えてもらっている。

 失業中の人もいたが、過去にも何度かそうした経験があるので「そのうちなんとかなるだろう」と鷹揚に構えていたという。「自分なら自殺を考えるかも知れない状況なのに…」とH大の学生さんは驚いていた。

 いま社会学者たちは、「個人化」ということをいう。国家や企業や家族でさえ個人のセーフティネットにはならない。個人は膨大なリスクを背負って一人で巨大な社会をわたっていかなければならない。現代とはそうした時代だという言説が流布している。しかし家族は窮境に置かれた彼らのセーフティネットとなっていた。そして、「わたる世間に鬼はない」・「義理と人情」・「捨てる神あれば拾う神あり」といったことばも死語になってはいない。「しゅうかつ」と直面している学生たちは力づけられたと思う。

♪赤いお鼻のトナカイさんは♪(恐慌下に果たしてクリスマスは?・声に出して読みたい傑作選97)

2009-12-08 06:56:59 | Weblog
 サンタクロースの原型となったのが、セント・ニコラウス。もともとはローマ正教の聖者で、トルコのあたりで活躍していた人のようです。セント・ニコラウスのお祭りはキリストの生誕ではなく冬至を祝うものでした。二コラウスが貧しい子どもの靴下にコインをめぐんだという逸話がサンタクロースのプレゼントの起源だとか。二コラウスは、悪い子どもを罰するなまはげのようなところもあって、子どもミをンチにして食べたという、恐ろしい伝説も語られています。

 セント・二コラウス祭のもう一つの特徴は、その夜には若者たちの性的放縦が許されていたことです。靴や靴下といった小道具が登場することも、それと無関係ではありません。フロイトを持ち出すまでもなく、これらは性的なもののメタファーであるからです。

 中世のヨーロッパでセント・二コラウス祭は共同体の祭りでした。それが、子ども中心の近代家族が築かれた17世紀のオランダで、家族の祭りに変貌を遂げます。そしてオランダ移民とともに海を渡ったクリスマスは、アメリカで商業主義のお祭りへとさらなる変貌を重ねます。日本でも高度経済成長期以降、クリスマスは大衆化していきました。そして80年代以降、日本のクリスマスは若者のお祭りの様相を呈していきます。

 キリスト教信者が全人口の1%しかいない日本で、クリスマスの狂騒が繰り広げられているのは不思議な話です。しかし、若者のお祭りとしてのクリスマスが、セント・ニコラウス祭の精神に忠実なところもあります。それは性的放縦の習慣を受け継いだところです。バブルの時代のイブの夜、東京のシティ・ホテルの部屋は、一年前から予約で一杯でした。他大との合同ゼミの時、ぼくのゼミ生たちが当時の若い男の子むけ雑誌の記事を紹介しながら、「彼らは、一夜の快楽を手に入れるためにあらゆる手段を尽くしていたのです」と報告した時、バブル世代に属する教授たちが顔を赤らめて下を向いてしまった場面が印象に残ります。

ベーシックインカムの方へ(日本海新聞コラム潮流・11月30日掲載分)

2009-12-05 08:21:10 | Weblog
ベーシックインカム(所得保障)ということばをよく耳にするようになりました。最低限生活に必要なお金を所得の多寡に関わりなく、個人単位で保障する政策がベーシックインカムです。こうした議論は一昔前までは、「共産主義だ」とか「働かざる者食うべからず」という反論に出会ったはずです。もちろんいまでもそうした反応を示す人は少なくありません。しかし銀行系のエコノミストから、左翼の論客に至るまでの幅広い層の識者たちがベーシックインカムを肯定的に論じています。この変化は、やはり注目に値するものです

 いつの間にか日本は、貧困率が先進諸国の中で高い国になってしまいました。日本の最低賃金は先進国のなかで最低の部類。自給700円程度ではフルタイムに近く働いても家族で暮らしていくだけの収入を得ることはできません。「働かざる者食うべからず」といいますが、いくら働いても「食えない」現実があることは明らかです。所得とは勤労に対する報酬ではなく、社会に参加していくための基本的な権利であると考えて、生計を満たすにたるだけの所得を無条件ですべての人に保障しなければ貧困の問題は解決しないでしょう。

 「失われた10年」の若者たちは、「ロストジェネレーション」と呼ばれています。他方、2005年前後からは大学生の就職状況は好転し、バブル期以来という空前の売り手市場が続きました。しかしその間も非正規雇用の仕事に就く若者の数は増加していたのです。このデータは「空前の売り手市場」の恩恵を受けたのが大学生に限られており、学歴の低い若者の就職機会が狭まってきていることを示しています。不安定就労の若者たちが増加の一途をたどっているのです。若者の貧困は、今後ますます深刻化していくことでしょう。

若い世代は将来、膨大な数の高齢者を支えなければなりません。そして、正規雇用の仕事に就くことのできなかった若者たちは将来的に生活保護の受給者となる可能性が高い。正規雇用の仕事に就くことができた若者たちは、この両者を支えていかなければなりません。彼らが担う税や社会保障の負担率は途方もないものになってしまいます。消費が冷え込み、経済は停滞し続けるに違いありません。恐慌が常態化してしまうでしょう。貧しい若者たちのためだけではなく将来の中間層のためにもベーシックインカムは必要なのです。

ベーシックインカムの恩恵を受けるのは若者たちばかりではありません。厳しい経済状況におかれた鳥取のような地方にとっても福音となるはずです。しかしどこにベーシックインカムの財源を求めるのか。これは難題です。ベーシックインカムを実現するためには、消費税率を50パーセントにする必要があるという論者もいます。これでは耐乏生活を強いられます。経済の活性化には、到底結びつきません。ベーシックインカムの財源問題をクリアするためにも、政府紙幣発行の可能性を真剣に検討する必要があると私は考えます。

ぼくは勉強ができない

2009-12-02 00:00:00 | Weblog
私は勉学を生業とする身である。しかし正直に言おう。子どものころからいまに至るまで身を入れて勉強をした記憶がほとんどない。これは一重に自身の怠惰によるものである。だが、日本の風土がそこに影を落としていることは否定できない。50有余年を生きてきてつくづく思う。日本は勉学に適さない国であると。多彩な四季があることが、日本人が勉学に集中することを困難たらしめているのである。

 うららかな春。まさに春眠暁を覚えずの季節である。眠くて眠くて勉強などできたものではない。尋常な神経の持ち主であれば、桜の季節に家にこもって勉強する人間の気がしえrない。そうした輩に限って5月病を発症するのだ。落第坊主は、そんなものとは無縁である。

 そして夏。熱帯も顔負けのあの暑さで勉強などできるものか。しかも気候温暖化の影響でますます酷暑の猛威は増すばかりである。そのうち埼玉の熊谷あたりで、ギネスブックの酷暑記録を更新するのではないか。いまはエアコンがあるだろうって?そんなものを使うから夏の暑さがひどくなる。暑い夏はひたすら暑苦しく、汗まみれの身体を畳に横たえてごろごろしているのにしくはない。

 秋。それは、黄金の季節。気候の良いこの時期に勉強するのは愚か者である。秋の素晴らしさを享受する能力を欠いた人間は不幸と言う他はない。若人よ、秋には書を捨てよ!そして野山に出よう!!たらふく御飯を食べて、あとは呆けたように眠りこけるのだ。

 冬。熊のような猛獣も冬眠をする厳しい日本の冬に勉強などできたものではない。熊よりも体力の劣る人間がどうして冬眠をしないのか不思議でならない。日本政府は法律で国民に冬眠を義務付けるべきなのである。いや、冬といわず年がら年中寝ていればよい。これ以上CO2削減に有効な方法も他にないだろう。勉強は環境の敵であるというのが今回の無理やりな結論でありますまる