巣窟日誌

お仕事と研究と私的出来事

バッジョの名を出して、年齢ばれ

2010-06-30 23:01:31 | 日記・エッセイ・コラム
サッカーワールドカップ南アフリカ大会のパラグアイ―日本戦で、駒野がPKを外したことに対して、即座に「仕方がないよ。すごいプレッシャーだったんだよ。あのバッジョだって、PKで外したんだから」となにも考えずに言ってしまった。一斉に「バッジョ?」「バッジョって、誰?」の反応が返ってきた。

はい、バッジョが活躍していたのは昔の話でございますよ。

ロベルト・バッジョが、PKを外したのは1994年のワールドカップのアメリカ大会。決勝戦のブラジル―イタリア戦。

バッジョは、、もちろん彼のサッカーもすごかったのだが、それに加えて、本当に哀愁のある麗しい男だった。日頃サッカーなどに興味がない極東のこの国の女性のたちの間でも、人気があった。そしてまさかあのバッジョが、あのバッジョが、あんなに大きくPKを外すとは思わなかった。

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ちなみに当時の雑誌には、バッジョのことをが「敬虔な仏教徒」と紹介されていた。創価学会のことであったらしい。


「病院の子」

2010-06-27 15:29:00 | 日記・エッセイ・コラム
大昔の話だ。

◆ ◆ ◆


M子ちゃんは、「病院の子」だった。わたしが母にそう説明したらしい。「M子ちゃんはねぇ、『病院の子』なんだって。」

わたしが重症の気管支喘息のために入院したその病院で、M子ちゃんは生まれた時からそのときまでずっと過ごしてきたのだった。わたしと同い年で、だから本当だったら4歳のわたしと同じ病室にいるはずだったが、わたしたちの病室のとなりにある、もっと小さい子どもたちのための病室に入っていた。なんでも、ずっとその病室にいたからだということだった。

M子ちゃんの病気がどんなものだったのか、わたしは知らない。知っているのは、M子ちゃんの体の片側全体が、ゆがんでいたことだ。入院中のわが子の見舞いに訪れM子ちゃんを初めて見たおとなたちは、皆ぎょっとして顔をしかめ、あるいは目をそむけた。「ああいう子をいつまでも置いといても良いものでしょうかねぇ」とささやく声もあった。

が、入院している子供たちにとって、M子ちゃんの外見は単なる事実のひとつでしかなかった。「M子ちゃんはねぇ、生まれつきああなのよ。だから病院にいるんだって。看護婦さんがそういってたのよ。」見舞いに来た母や叔母たちに、わたしは「そんなの当たり前でしょ」といった表情で、そう説明したらしい。結局のところ、わたしたちは皆、どこか具合が悪いからそこにいるのだった。しかも、たいていの子の病状は、自分たちが住んでいる地元の病院ではなくわざわざ都内にある国立病院に入院させなければならないほど、深刻だった。

M子ちゃんは、いつもは自分の病室にいた。けれど、面会日におとなたちがわが子の見舞いに訪れるたびに、子どもたちが入院しているいくつかの病室を、出たり入ったりするのだった。

長く入院している他の子どもの母親からわたしの母が聞いたところによると、M子ちゃん自身の家族がM子ちゃんのもとを訪れたことは、いまだかつてなかった。そんなM子ちゃんを不憫に思い、M子ちゃんをかわいがっている看護婦さんもいた。が、小児病棟の看護婦さんは入院している子ども全員の面倒を見なければならず、自分の子どもにだけ愛を注ぐ親の代わりにはなれないのだった。あのぐらいの子どもは、自分を他の子供より優先してくれて、自分が独占できるおとなの存在が必要なのだろう。面会日のたびに、M子ちゃんは親恋しさに、小児病棟の複数の病室をうろうろするのだった。それで時には、じゃまもの扱いされたり、ちょっとしたトラブルになったこともあったらしい。

ある面会日のことだった。その日は台風の影響で天気が悪く、子どもたちも看護婦さんたちも朝から「今日はだれも来ないかもかもしれないね」と言っていた。しかし、ほかの子どもの親たちが台風で諦めたなか、唯一23区内住んでいたわたしの母だけがやって来ることができた。

あのとき母とわたしがどんな話をしていたのかは覚えていない。覚えているのは、母とわたしがわたしのベッドの近くで話をしていた時に、隣の病室のM子ちゃんが、いつのまにかわたしたちの病室の中にいてじっと立っていたことだ。そこに立って、黙って、母とわたしの話をじっと聞いていた。

「こっちを見ないで」とは言えなかった。なぜならばM子ちゃんは母もわたしも見ずに、うつむいていたのだから。「こっちに来ないで」とか「近づかないで」とも言えなかった。M子ちゃんが立っているところは、それほどわたしたちから近い距離ではなかったからだ。とはいえ、無視できるほど離れた距離でもなかった。

M子ちゃんがそこに立っていることに対して、どうしたらいいのかわからなったわたしは、黙ってしまった。母も同じような気持ちだったらしい。母とわたしは、しばらくその場でしゃべることも動くこともできずに呆然としていた。

結局、その様子を看護婦さんの一人が見て、「M子ちゃん、こっちへいらっしゃい」とM子ちゃんをわたしたちの部屋から連れ出すまで、わたしたちは黙ったままだった。

◆ ◆ ◆


わたしの数回にわたる長期の入院は、その後は頻繁な通院になり、さらには数週間に一度の定期的な通院に変わった。通院中に、小児科病棟の待合室で、入院中に知り合った子どもたちのうちの二人に会うことができた。お互いに退院できたことを相手の親御さんともども喜びあったが、おそらく自分たちだけが健康になりつつあったことに対する後ろめたさもあったのだと思う。いまだ退院できない子どもたちのことは、だれも話題にしなかった。だから、その後、M子ちゃんがどうなったのかは知らない。

おとなになってから、全く別の病気でこの病院にお世話になったことがあった。小児科の入院病棟があったあの薄暗い古い建物はすでに取り壊されて、新しい外来棟になっており、子どものわたしが入院していた当時の病院の面影はもはや残ってはいなかった。

そこでわたしは、当時のことをできる限り思い出そうとした。戦前は陸軍病院だったその病院の病棟の作りはどうなっていたのか。どの子がどのような病気で入院していたのか。病室にはどのような本が置かれていたのか。食事には何が出たのか、など、いろいろと思い出そうと努力し、母にも当時のことをいろいろ聞いてみた。そうした中で、面会日に他の子どもたちが、「なんで見てるんだよ」とか「あたしのおかあさんなんだから」と、M子ちゃんに言っていたことがあったことを思い出した。

では、あの台風の面会日に、まさにあの位置にあんな風にM子ちゃんが立っていたのは、子供ながらに精一杯の知恵を働かせた結果だったに違いない。「みるな」と言われたことがあるので、こちらを見ないようにしていたのだろう。「近づくな」と言われたことがあるので、あまり近づきすぎないようにしていたのだろう。面会日のたびにM子ちゃんがどんな思いをしていたのか。それを考えると今でも胸が痛くなる。面会日に無邪気に母に甘えていたわたしは、知らないうちにM子ちゃんには残酷なことをしてしまっていたのに違いない。

◆ ◆ ◆


いまでも、あの病棟の夢を見ることがある。

夢の中では、わたしはすでに今のわたしだ。とっくに取り壊されていたはずのあの重厚なつくりの病棟は、使われてはいないが取り壊されずにそのまま残っている。

無人の廃墟と化した薄暗い病棟を歩き回り、わたしはM子ちゃんともう一人気になっている子どものその後の手がかりを、なんでもよいから探そうとしている。入院していたことがわかるものはないか、カルテの切れ端は残っていないか、もしやM子ちゃんが壁に落書きかなにかを残していっていないか。

なぜM子ちゃんたちを探さなければいけないのかはわからないが、夢の中ではとにかく探さなければいけないのだと思っている。だが、結局はなにもみつからず焦っている。どうしたらよいのかわからなくなって、泣きたい気分になっているところで、わたしは目を覚ます。目覚めたときに、わたしはたいてい涙を流している。

◆ ◆ ◆


今朝がたもこの夢を見たので、記しておく。

ちなみにその病院では、小児科の入院病棟の後に建てられた外来棟もすでに取り壊されており、その位置には今は新棟を建設中らしい。

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ちょっとした切り傷でパニックになる(手術前と同じというわけにはいかない)

2010-06-24 22:03:06 | 美容と健康
朝、出がけに瀬戸物の鉢皿を割ってしまった。遅刻してはいけないとあわてていたので、割れた破片を手でさわってしまい、うっかり小指のつけ根を傷つけてしまった。傷の長さはわずか1 mmぐらいなのだが、結構深く切ってしまったようで血がダラダラとでた。

切った指のつけ根は、乳がんの手術をした側のほうだった。おかげでわたしはほとんどパニックになった。「リンパ浮腫(リンパふしゅ)」と「蜂窩織炎(ほうかしきえん)」が頭の中に浮かんだのである。(この2つについての詳しい説明は、こちらから→

リンパ節(リンパせつ)とは哺乳類の免疫器官のひとつである。全身から組織液を回収して静脈に戻すリンパ管系の途中に位置し組織内に進入、あるいは生じた非自己異物が血管系に入り込んで全身に循環してしまう前にチェックし免疫応答を発動して食い止める関所のような機能を持つ。卵形(または腎臓形)をした1-25mmの大きさの被膜に包まれた小体で周囲から多くのリンパ管が入り、一部の凹んだリンパ門からリンパ管が出る構造をしている。

[中略]

腋窩リンパ節…腋窩にある20~30個のリンパ節群を指す。乳癌転移を起こしやすい場所。転移を認めると、リンパ節郭清を行う。
(Wikipedia日本版「リンパ節」より)

わたしは乳がんの手術のときに、センチネルリンパ節生検を受け、腋窩リンパ節を3個取った。(センチネルリンパ節生検については、こちらから→

かつて乳がんの手術は、腋窩リンパ節郭清、すなわちリンパ節群すべてを取るのが普通だだった。が、リンパ節郭清をしたのち、リンパ液のうっ滞がひどくなってリンパ浮腫に悩まされる人が多かった。

そこで現在では、患者のQOLを保つためにセンチネルリンパ節のみを取り出して生検を行い、このセンチネルリンパ節にがんが転移していなければ、それ以上腋窩リンパ節は取らずに残しておく。これで多くの人が乳がんの手術後のリンパ浮腫の悩みから解放されることになる。

が、しかしセンチネルリンパ節生検であっても、やはりむくみが出る人がいる。(詳しくは「センチネルリンパ節生検でも3割以上でリンパ浮腫が発生、予防が重要に」を参照)

リンパ節を取ったあとにはバイパスができるのだというのだけれど、バイパスは正規のリンパの流れとは違い、突貫工事でもろいらしく、いろいろなトラブルに見舞われやすいのだ。

20~30個あるリンパ節をたった3つ取ったおかげで、患側の腕には注射の針をさせないし、血圧もきちんと測れない。こちらの腋の下では体温も測れない。

患側の腕は傷、やけど、虫刺され、ささくれ、日焼け、皮膚の乾燥その他は厳禁だ。腋の下にカミソリをあててもだめ。(ジレット ヴィーナスとかシック クアトロ4などは使用不可で、「電気シェーバーにしろ」といわれて、パナソニックのサラシェを買った。)そして重いものを持ってはいけない。ずっと腕を下げていてはいけない。寝る時も患側を下にして寝てはいけない。

「手術前と同じってわけにはいかないことを、自覚してください」

は、病院で乳がん看護認定看護師さんから言われたことばだ。とにかく気をつけろということらしい。

だが気をつけていても、普通の生活をしていれば、腕や手にはけっこう傷がつくものだ。調理をしていれば、切り傷ややけどはどうしても作ってしまうし、事務系の仕事をしていればコピー用紙で指を切ってしまう。患側を上にして寝たつもりでも、朝になれば下になっていたりする。

「重いものを持つな」というも無理だ。商売柄、重い荷物が多いわたしだが、さすがに通勤ラッシュにビジネスカートは顰蹙もの。そこで健側の肩に大きなトートをかけてだけれど、健側はなんと五十肩。その肩で持つわけだ。もう、肩が痛くて涙がでる。腕が上がらないので網棚に荷物も載せられないことが多いし、何とか網棚にあげたら、今度はそれが取れなくなってしまったことが一度ならずある。(電車の中で大荷物を肩にかけて立っているのも迷惑だろうと、普段はなるべく車両と車両の連結部分に立つようにしている。)

しかもわたしはアレルギー体質でアトピー体質だ。夏になれば慢性じんましんに悩まされ、ときにはアトピー性皮膚炎にも悩まされ、そして汗疱(かんぽう)も汗疹(あせも)も。もちろんこれは腕にも手にも出る。

そんなわけで、どこへ行くにも消毒薬と虫刺され・じんましんの薬と日焼け止めとハンドクリーム(乾燥対策)がいっしょだ。これでまた荷物が増えていく。

いやいや、わかってるって。これでもわたしは乳がん体験者としては、きわめて幸運な部類だということは。それはわかってはいるんだけどさ… これが一生続くというのは、ちょっと、いや、かなりうっとおしいな。


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追記:この記事を書いた4日後、患側の手の甲を2か所も蚊に刺され、しかも上腕部をひどくぶつけて青あざを作ってしまい、再び真っ青に。なにやってんだか。

SPF50+・PA+++

2010-06-20 20:09:00 | 美容と健康
タイトルはサンスクリーン剤(日焼け止め)の紫外線を防ぐ効果の指標。ご存知のように― 大ざっぱにいってしまえば ― SPFはサンバーン(赤くなる)のもとになる紫外線のB波を防ぐ数値、PAサンタン(黒くなる)のもとになる紫外線のA波を防ぐ指標である。

SPF値のほうは数値が大きければそれだけB波を防ぐ効果が高いのだが、現在の日本では50を超える値については、すべてまとめて「50+」と表示される。

PAについては、プラスの数は最大3個までで、数が多いほどA波を防ぐ機能が高いということになる。

(ちなみに測定法についての詳しいことは、こちらで→

すなわち、強力な日焼け止めはすべて「SPF50+・PA+++」になる。そうなるのだが…
実は、「SPF50+・PA+++」という値は、紫外線の影響を極力受けたくない日焼け止め使用者の多くとっては、夏に使用する日焼け止めの最低限の数値の指標にしかならなっていないようだ。

使用者の使い方やもともとの日に焼けやすさといった問題もあるのだが、同じ人間が「SPF50+・PA+++」を使っても、かなり日に焼けるものとあまり日に焼けないものとの、製品のばらつきがでてくる。というわけで、実際に使ってみたり、ネットで他の使用者の口コミを読んだりと、日に焼けたくない使用者たちは常に「自分にとっての、より良い日焼け止め」探しに余念がない。ポイントとしては「強力に紫外線を防ぎ」「落とすときは専用のクレンジング剤を使わなくてもきれいに落ち」「肌に負担をかけずにやさしい」ものだろう。おっと、できれば「お財布にもやさしい」ものであってほしいし、プラスアルファ(たとえば「肌がきれいになる」「化粧崩れがしにくくなる」)の効果もあれば完璧だ。

下の写真のものは、紫外線を浴びるのは主に朝と夕方の通勤時のみというわたしが、今年の3月中旬以降使用している and /or 使用していたものである。いずれも「SPF50+・PA+++」で顔にも使用できるものだが、わたしはもっぱらボディ部分に使用している。(顔は資生堂エリクシールホワイトのホワイト&プロテクター UV)

Sunscreens

左は、資生堂はアネッサのパーフェクトエッセンスサンスクリーン。高い紫外線防止効果と使用感の両立というのが売りである。現在使用中。

真ん中のコーセーの薬用 雪肌精サンプロテクターは、「美白しながら紫外線を防ぐ」のが売り。首回りとか手足に使っているんじゃ、美白効果はあんまりわからないか…

ニベアサン プロテクトマイルドミルクは紫外線吸収剤無配合が売り。実は紫外線吸収剤なしでこの数値を出すのはとてもすごいことだと思うのだけれど、いくらアレルギー体質とはいえ紫外線吸収剤無配合ではちと不安。というわけでわたしが実際に使ったのは4月の下旬まで。しかし4月の下旬でも紫外線はかなり強い。

ただし「夏の屋外活動」を求められた場合は、上記の3つのいずれも使わないだろう。お同じアネッサでもパーフェクトVUサンスクリーンか資生堂サンケアの製品を使うつもりだ。

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わたしがかなり若いころ(20代の前半ぐらいまで)は、紫外線A波を防ぐ日焼け止めは存在しなかった。

いずれにしろ夏は肌を焼くものであったので、皮膚科から常々「絶対に肌を焼くな」と言われていた身としては、大学卒業後の最初の会社で最初の数日間の夏休み(不動産業につき、夏休みは結構長期だった)が終わって出社したとき、皆が一様にサンバーンとサンタンが混在した赤黒い肌をしているのに圧倒され、肩身が狭かった。

なにしろ当時のわたしは、普段から色白だった(嗚呼、今思えば過去の栄光よ!)。それなのに一人だけ日に焼けていないので、会う人ごとに同僚も上司も「あれ、福島さん。どうして焼けてないの?」と質問してくるのだ。

一応折り畳みの日傘なんてものが当時でもちゃんと存在したのだけれど、それを持ってエスカレーターに乗ると「え? 今、外は雨が降っているんですか?」なんて、聞かれた時代だ。

日本では、資生堂が1986年に販売を開始したインターセプトというブランドが、少なくとも国内の大手の化粧品会社でA波のブロックを打ち出した最初のものじゃないかと思う。それまで、「こんどスイスで、紫外線A波も防ぐ日焼け止めが発売されたらしいよ」なんて噂を聞いて、かなりうらやましかった思い出がある。当時は、海外旅行はそんなに行けない時代だったから海外化粧品を買うために海外に行くなんてことはなかったし、一般人が個人輸入なんてことも思いつかない時代だった。わたしは発売とともにインターセプトに飛びついたんだけれど、この日焼け止めは時間が経つとオレンジ色っぽく変化するので、服の襟やそで口の周りは、みんなオレンジ色に染まってしまった。
(資生堂のUV関連製品の歴史は、こちらで→

詳しい話は省略するけれど、紫外線のB派を防ぐSPFの測定方法には、大きく分けてヨーロッパ方式と米国方式がある。測定方法が異なるので、米同じ日焼止めでも国方式のほうが数値が高く出る。日本は1990年代の初めに、一斉に米国方式のSPF測定方法による数値を採用することにきめたため、ある時を基準に数値の重さがガラリと変わった。

それまで「SPF 15」という数値はかなり強力に紫外線ブロックする数値だったのだけれど、現在の基準で「SPF 15」なんていう日焼け止めは、「まぁ、真冬の使用にはいいかも」というところだろう。わたしが今年の真冬から春先まで使っていたのは、「SPF 27・PA++」だ。センチネルリンパ節生検を受けた側の腕(すなわち、腋窩リンパ節が通常よりも少ないほうの腕)は、絶対に日焼けは禁止である。片腕だけ紫外線を防ぐわけにはいかないので、紫外線の影響を受けるところにはすべて塗っておいた。

ハチワレ

2010-06-20 18:54:07 | ノラネコ
はちわれ【鉢割れ】
犬・猫の班毛が顔の真ん中で左右に分かれ、鼻筋の白く通ったもの。飼うことを忌む地方が多い。(『広辞苑』より)


はちわれ【鉢割】
3. 犬・猫の班毛が顔の真ん中で左右に分かれ、鼻筋の白く通ったもの。飼うことを忌む地方が多く、特に山で働く人はこのような犬を嫌う。(『精選版 日本国語大辞典』より)


つまりはこれ(頭に蜘蛛の巣付)↓

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ハチワレの独白

こんちは。ボク、ハチワレです。若い男の子です。ふくしまさんちの、庭の主の座を狙っています。

ボクのタクエツしたリサーチ力に基づけば、ふくしまさんちの庭の女主人はハナグロおばさまです。なので、とりあえず取り入っておいたほうがいいと思って、毎晩おばさまに感じよくあいさつしているんですが、ハナグロおばさまはいつも「フー!」とか「シャー!」とか言って、ネコパンチをくらわすんです。ボク、嫌われているんでしょうか? それともおばさまはツンデレなのでしょうか?

ハナグロおばさまのマブダチのシロサバおばさんは、夜だけ来ることが多いんですが、はっきりいって、ハナグロおばさまには、中年女同士でつるむより、若いボクのほうがいいと思うんです。そして、ハナグロおばさまに取り入って気に入られた暁には、時期をみてボクがこの家の主に(メラメラ)…

そこで、まずはシロサバおばさんの追い出しにかかっているんですが、そのたびにニンゲンに怒られています。なぜでしょうか。ボクは、若くてかわいくて、ジャンプ力だってあるのに…

ヒトによるコメント

2~3週間前から、庭に現れるようになった、ハチワレの若いオスネコである。それ以前は、近所の別の家の庭をテリトリーにしていた。以前のテリトリーから考えて、母猫の想像は大体つく。ハナグロの姉または妹である。すると、このオスネコはハナグロの親戚ということになる。

最近ではわたしや母を見ると、大声で「ヒャーン」と鳴きながら尻尾を立てて近寄ってくるようになった。ただし人間に対しては常に警戒心を怠らず、こちらが近づいていくと逃げる。こちらを見る目は緊張しきっているが、なぜか「ボクは緊張していません。リラックスしていますよ」のポーズをわざと取ることがある。この「リラックスしているふり」というのは、わたしが知っている限りではオスネコに多いようだ。

Hachiware_2
(↑ リラックス感を醸し出すために、わざと目の前で寝そべってみたりする)

シロサバを目の敵にして追い回すため、シロサバは庭に入ってこられないことが多くなった。いろいろあってもハナグロとシロサバは仲が良く、ハナグロはシロサバの姿が見えないと、探すような動作をする。そのシロサバを追い出そうとしているハチワレは、ハナグロからはたいそう嫌われている。

Hanaguro_and_shirosaba
(↑ 結局、仲の良い2匹)

オスということで、いずれ庭から穏便にご退去いただくか、それとも捕まえて去勢手術を受けさせるしかないだろう。(ハナグロとシロサバはボランティアさんが避妊手術を受けさせたようである。)目下のところは触ることもできない状態だが。

体はすでにハナグロより大きい。