水の門

背景をながれるもの。ことば。音楽。スピリット。

一首鑑賞(44):小川玲「残菜を食みて生くるは」

2017-05-17 14:43:18 | 一首鑑賞
飽食の人ら捨てたる残菜を食みて生くるは神かも知れず
小川玲『ことぶれ』


 トルストイの民話を元にした『くつやのマルチン』という絵本がある。夜毎の日課に聖書を読んでいたマルチン。ある晩寝入りばなのマルチンに「あした、おまえのところへいくよ」と囁く声が。しかし翌日現れたのは、雪かきをしていた老人、赤ちゃんを抱いて寒そうにしていた女性、お腹がへってリンゴを盗んでしまった少年と、その少年を叱りつけるリンゴ売りのおばあさんだった。その夜、あの声は何だったのか…と考えていたマルチンに再び「わたしがわかったかね」という声が聞こえ、日中マルチンと会話した四人の姿がつと現れては消えていった。マルチンが聖書を開くと「わたしのきょうだいであるちいさいもののひとりにしたことは わたしにしたことである」(マタイによる福音書25章40節)の御言葉が目に留まる。知らずに神様をもてなしていたことに気づいて心から満たされたマルチンだった——。
 この聖句を少し遡って見てみよう。25章35〜36節に「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」と王は正しい人達に呼びかける。王をお世話した覚えがなく戸惑う彼らに告げられたのが、先の「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」という言葉だ。このように神は私達一人一人を慈しみ、その痛みを共に痛み、私達の慰めを無上の喜びとして感じて下さるお方なのである。
 さて、掲出歌の歌意は曇りがない。食べ残され捨てられた食事を漁って糊口を凌ぐ人達に、私達は大抵無関心で、冷ややかでさえあるだろう。しかし、私達が奢りのゆえに出した残飯を、干からびた心で頬張っているのは神ではないのか——。真摯な眼差しである。この歌は、あるいは『くつやのマルチン』の深意を逆側から照射したものと言えるかもしれない。残菜を無心に食する人、貧困で喘ぐ人——神は常にその人達の側にいるのである。
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