水の門

背景をながれるもの。ことば。音楽。スピリット。

『呼べば谺』より

2017-05-28 08:07:27 | 本に寄せて
木俣修の歌集『呼べば谺』を読了。目に留まった歌を引いておきます。


・幻聴は亡き母のこゑ夜明けがた几(つくゑ)の前にまどろまんとして
・くさぐさの資料を閲(けみ)しただ一句引きえたるのみ冬のひと日も暮れぬ
・叱られし位置にいつまでもゐる少年をまた見にたてりこころおそれて
・銀杏落葉よごるる港の辻黒人(ニグロ)の兵に道をきかれぬ
・クリスマスのころはいづくを航く船ぞ荷積終へて靄の港去りゆく

・文学語をさけてしるせる幾くだり推薦書類の前にくるしむ
・処罰者を出さぬちかひをせよといふ眼するどき五六人来て
・ヨルダンといふ国を地球儀に子は探るわれも幼き日知りしヨルダン
・労はりの言葉毒舌となりてゆく疲れしゆふべの埒もなくして
・おちゆかんとして胸に十字を切るものら無明の底ものぞきつくしぬ

・圧を加へんとするものはことば柔らかにわが書きものを閲(けみ)しゆきたり
・転身の頌歌かなでしもののなかいくたりははやく行方もわかず
・ゆくへわかぬ父恋ふる胸ゆりゆりて碧眼の子ら聖歌をうたふ
・祈り来し掌(て)もて汝が頬をつつみたり生(せい)の流れはかく速きかな
・ふしあはせに甘えるななどと言ひて来しが漠々としてうつろなる夜

・子らはすでに天使(エンゼル)ならずかたみに来て銭をせがむとわが扉をたたく
・死の刑を待つものの文字僧院の行者めきたる歌閲(けみ)しゆく
・その友の轢死をなげく幼子をなかにしづかなる夜の食卓
・寝呆けて闇に眼をあく少年を目守れり罪に問はるるおもひに
・湯気だてるうどんひとつをおごりとして創作サークルの五六人寄る

・機械のなかに書きたりといふ短篇のひとつをこよひ輪読しゆく
・みづからにあたふる鞭ともしるしたる文章一片もあやまり読まれぬ
・秋日のみちに手話交しつつくもりなき表情をして啞の学童たち
・涙の部分抹殺したる経歴をひとはいかにぞ読みとるらんか
・罪人のごときおもひに錆にほふ鍵さして梅雨のゆふべ書庫閉づ

・分派がまた分派を生みてゆきし過程語りつぐ低き老年のこゑ
・妄執のひと日終へぬと書庫いでて水にさらしぬ白き手のひら
・一冊を書架よりぬきぬ病経しもののちからをためすおもひに
・夜仕事をさけてやしなふいのちのゆゑまたくどくどとことわりをいふ
・背信ののちに来んものを待つ姿勢インク染みたる掌をみつめゐつ

・おほどかに人を許してかへしたるこの夜さくばくと孤独はおそふ
・はつかなる慈善とげきて自嘲ともつかぬわびしさぞ師走の街に
・食みきほふまどゐひそかに離(か)れてきぬ戒律まもる使徒のごとくに
・枝わたる小鳥も啼かず罪もてる児らもみな噤(つぐ)み冬の少年院
・壁も板もくろき明治の代(よ)の建物にひしめきて罪負へる戦後少年たち

・みづからの毀せし几の前に坐りなべてのことばこばむごとき貌
・ゆゑもなく不逞に笑へりかさね来し背信のことも思ふなきごと
・必死なる教師のこゑも聞こえぬがに木片(きぎれ)を削る混濁の眼に
・調子はずれが涙をさそふ罪もてる少年たちの合唱のこゑ
・反応を示すことなき表情にむけてこのやさしさ若き教母は

・その父の受刑のことも知ることなき児といふひとり薪を割りゐる
・虐げしものも眠りて安らぐか木かげくらきに苔さぶる塔
・逃亡は死につながれば黒暗の坑に鑿(たがね)をうちし流人ら
・囚徒らも江戸の無宿らもこの鉱山(やま)に世を呪ひつつ果てにけんかも
・長崎より脱れきたりし吉利支丹身をひそめしとこの金山に

・許しがたきひとりのうへを思ふことまれとなりつつ時は過ぎゆく
・憎みつつなほ許さんとするこころわが瞳(め)を読まぬ汝をあはれむ
・癖のある文字を憎みて破らんとしたる手紙をまた拾ひ読む
・死なせたるものへの禱り凍天の星にひととき幻たぎつ
・幻聴の琴の音追ひて冬日に佇つこの老人(おい)のひとりを知るものなけん

・かばふものかばはるるものの愛しみに生きぬ雪嶺を見放くる窓に
・ツアーラーストラー説来しひとよの余生さむくいますと聞けば訪ねゆくべし
・聞ゆるはチエロのエチユード教室に出ぬものはいまもかくあそぶらし
・ゑにしもつ一基の石に黙禱す波濤ひびく岬山(さきやま)の墓地
・負ひ目もてばおとがひ細く三人子の母となりたるひととまみえぬ

・記さざる日記の頁にうそうそと影絵のひとつうごく思ひぞ
・背の骨をのばしてしばし目守りゐつ教会の塔に昏るる寒空
・匙鳴らし食みゐし子らのみちたりて灯る聖樹をまためぐりゆく
・持病あるわがためおくりくれし護符ひととせを経て寒明けに焼く
・つくり笑ひするひとを前に説きてゆくうとましともかなしともいへぬ思ひに

・長話にあきあきとしてゐる貌を知らぬげに夜のこの訪問者
・あらがひて騒だつ胸をしづめよとわがためのごとき世田谷教会の鐘
・生業(せいげふ)はなにと問はれてたじろぎし敗戦の日の思ひ出ひとつ
・父母よりのたまはりものもがらくたとなれれば燃しぬためらひながら
・考証のことに執しき頼まれてする仕事ひとつなき日々にして

・生活の料(しろ)さきてわが買ひしこと子らは知るなくほしいままに読む
・血のにじむごとき銭もて兵の日にも集めき初刻著者署名本
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『捜神』より

2017-05-27 14:45:29 | 本に寄せて
前川佐美雄の歌集『捜神』を読了。目に留まった歌を引いておきます。


・はばかりて伝道のこといふひとを追ひ返しけり銭なき日にて
・用ありてある日は来りしその町の教会の前足はやに過ぐ
・またわれに立ちあらはれぬ神のごと何ほどか憎しき形せるらむ
・この真昼神われに助力するらしく庭の上の萩ひとりゆれうごく
・はばからず伝道のこと言ふひとの追ひ付きがたき白き額(ぬか)見ぬ

・雲低く暗くなりしが祈りけりその上の空縹色(はなだ)に透きつ
・不意に飛び立つ物あり神にあらざるやこの朝(あした)屋根は虹色にして
・こめかみをおさへて神を見むとせり深谷の青うづまくときに
・変節はたはやすかれど身にこもる神のなげきの一つこゑ聞く
・かにかくにわれは勤を持たずして一生(ひとよ)過ぐらん冬日茫茫

・神前に何祈りゐるわが妻ぞみたらしに紅葉流しつつ待つ
・若者のみだれを言ふな罪とがはおのれ一つにありと生くべき
・しばしばも己れを責めて罪なふもあはれはかなき罪なひにして
・われいまださんげの涙ながすあり懺悔の涙はああ言ひがたき
・何ひとつ清しきこともなし得ずてわが生(よ)の末の見え来(きた)るはや

・いくたびか¥豹変もせりあはれなるわが生きざまの今はゆるがぬ
・わかき日の悔しきことのかずかずは神にも言はねけだものどもよ
・背をむけて否むならねばしばしばも自由のくには面(おも)はゆきかも
・恥かしきしくじりごとを持ちながらわれは言問(ことと)ふをさな子に向き
・たはやすく膝折り頭を垂れきたる騙されてゐるとわれは知れども

・われつひに無為無業なるを尊びておのづからあれば人咎むらし
・起き出でて夜なかに祈るかなしみよ暗黒のなか身ひびき一つ
・おぼろおぼろの花の夜なれば憚りてむかしのごとく足洗ひゐき
・てのひらをあけて示せば愛なりき明るきかなや背信はなし
・その顔を七たび八たび踏みにじりこころ足りなば足る如くせよ

・碧眼の女らもまじりたたみの上梅雨(ばいう)の夜の日本流の祈り
・火鉢のなか灰うすく平(なら)し火を置けり霜暗き朝神のごとき火
・養老院の月の窓よりシベリヤの子の墓祈るその母の歌
・わが前に懺悔の涙ながしゐるすでにまぼろしのそのくびすぢ
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『この梅生ずべし』より

2017-05-27 14:10:04 | 本に寄せて
安立スハルの歌集『この梅生ずべし』を読了。目に留まった歌を引いておきます。


・体弱きカントが八十迄生きしこと節度を守りしことを今日知る
・神は無しと吾は言はねど若し有ると言へばもうそれでおしまひになる
・キリストとキリスト教とはちがふことわが言へり間の抜けし会話と思ふ
・生(いき)の上(へ)に無くても済まし得るがらくたを絶えず捨てをれど絶えずふえ来る
・病名を秘めて借りゐる部屋の中に雷の轟きを聞きをり今日は

・旧約聖書に挟み置くままに常に見るアンナ・パヴロワの写真一葉
・他の弟子の誰よりも優れてゐしならずやユダは自ら縊りて死ねり
・金にては幸福は齎(もたら)されぬといふならばその金をここに差し出し給へ
・ゆつくりと考へてみねばならぬことがあるやうに思ひ坐りてぞ居る
・バルザックの恋文の如くきびきびとせる文を一度も呉れしことなき

・病みこもる昼の部屋にふと洩らしたるわれの笑ひを知る人もなし
・癩を病む叔父のあること秘め抜きて勝気なりし樋口一葉かなし
・或時は恚(いか)りて硯をぶつけしとふ樋口一葉がよき仕事しぬ
・その通りに違ひなけれども亡き父を母が貶しいふこと疎ましき
・われに何を希みし父か歩き方が静かすぎると言ひて叱りき

・病み易き我を憎みし亡き父の心解せぬといふにもあらず
・生きるとは諦めぬこと樫の木に低く鳴る風を聞きて戻りつ
・隣人を愛さむとして傷つきしわれは籠りつつ鶏の骨煮る
・横目にてわが服を見る女の眼女の我に突きささりたり
・山鳩は不意に鳴きたりゆつくりとオリーヴ園に登りゆくとき

・やはらかく日のひかり沁む裏道にサンタ・クロースの立ちつつ憩ふ
・晩年のルオーのキリスト明るき黄に彩られつつ浄福堪ふ
・師と異なる道を歩みしデスピオの少女像ただに虔しきに会ふ
・「ノン・ド・ジュウ」とは呟きながら描きしとぞセザンヌに迫る老は悲しき
   ゴーガンの作品を見て
・神々のいまだ死なざる熱帯に烈しく惹かれゆきしを偲ぶ

・苦しみて逝きし被爆者が遺したる皮膚の一部を見よと陳(なら)べつ
・黒き雨の跡消ゆるなき被爆シャツも共にしづまれりケースの中に
・青き眼にヒロシマの何を見しならむただゆるやかに歩み去りたり
・何者ともえたいの知れぬ風体をかく曝さねば行き得ぬか兄は
・惨ましと兄を嘆くは眼の前に兄が居らざるときのことなり

・放浪せる兄の服破れ居りしとぞあまりにまことの話は悲しき
・破れたる翼ひきずるごとくして生きをらむさまのありありと見ゆ
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『紡錘』より

2017-05-27 13:23:47 | 本に寄せて
山中智恵子の歌集『紡錘』を読了。目に留まった歌を引いておきます。


・まなざしに堪ふることつひに罪のごと青蟬(せいせん)は涌く杜を帰らむ
・いづくより生れ降る雪運河ゆきわれらに薄きたましひの鞘
・木を植ゑて歌ふ捕囚の唯一神(ひとりがみ) その面貌をかくさるる神
・常闇(とこやみ)を織りしなぐさめ 人間(じんかん)に聖塔・天と地の基の家(ジツグラド・エ・テメ ン・アン・キ)
・人を殲(つく)さばわがこころかへりこむ麦の禾たちてはつかに距つ

・あきらかにこゑ過ぎゆくを唯一神(ひとりがみ) 死抗のうちに貌むけたまへ
・そのみ貌きらきらしきに借問す祈りてさらにわれら貧しき
・相撲(すまひ)する牡牛ときみと瞳(め)は澄みて言葉(ロゴス)の暗の隈なく映る
・ウルは夏、空の梯子を上り下りうつつの塔に奈落を積むと
・壺の絵のめぐれるごとくはろばろに思ひ放たずひとりを祈る

・まぼろしを語れるまでに心病みプラネタリウムに星祭るとぞ
・洪水後の鵙のこゑ幻夢影焔(げんむやうえん)の魂(たま)削る きみはかならず生きよ
・秋の霧とどまる丘をめぐりきて微塵のうちにわが綺語ひとつ
・火格子にガス蒼くもゆたまゆらをかなたのミサに流離のわれか
・杳き罪あるかたより雁のこゑわたりまなうらのあかるみねむる

・わきかへる湯の白き繭浮き沈み煮られつつ、まだ女の天使
・はやりつつ脛かむ馬の群離りこよひ生くるもののためにピエタある
・菜殻火もえ いくその時継がむわがこころつたなくて押す楽鐘器(カリヨン)
・夕なづみ鳴くなるけさに眼を洗ふ経文歌(モテツト)ひぐらしのこゑ絶え
・花ややすらふ 禱りふかきにすきとほりつつ頭部欠く地母神

・絵のなかの笞刑(ちけい)のつづきわれらになく見るための眼の役割にがし
・陽とともに沈む水辺の〈夏の家〉クレエは描きし 対話の家よ
・清めらることなく今日過ぎむわがうちにプシュケゐて蒼茫の崖
・影めぐる樹のまはりにて渝(か)らざるアリアありぼくらふたりで
・バルトークの絃はひびきて切られたる木の年輪に小鳥降りゆく

・波頭きらめきよせて砂しみゆく 聖痕の頸はたてて歩まむ
・無防備の肩もてる知慧あかつきの緋色のなかにただよひあゆむ
・証すことなき言葉あり朝の虹たてば白き歯牙もち砂地をゆきぬ
・礎石掘る真上にとべる鳩の群 たぐひなき没落はわが神の春
・レモンの黄のかたち虹彩に閉ぢられてグレゴリオ聖歌樹樹に鳴る
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#inutanka(じわじわ追加中)

2017-05-20 11:11:50 | 言葉に寄せて
来年の年賀状作りの参考にするためにTwitterにメモしている「犬」にまつわる短歌が既にかなり溜まってきたため、気が早いようですがここら辺で #inutanka としてとりあえず公開します。また折々に追加もしていきます。


しろじろと毛深き犬が十字路を這うまたの世の日暮れのごとく/大森静佳
わが犬のドヂな次郎が溝に落ちわれはころびて下駄を落せり/河野裕子
豆腐屋の前の溝から吹いている湯気の匂いを犬もかいでる/竹内亮
自動車の鍵はかけない壱岐という島の空港犬が見送る/竹内亮
店先の自転車のそば飼い主を待つ灰色の犬の落ち着き/竹内亮
夏休みの最初の朝に眠ってる犬を起こして霧を吸い込む/竹内亮
眠る犬のしづかな夢を横切りて世界を覆ふ翼の話/石川美南
二十代遠のくことを対岸の犬の散歩のごとくかなしむ/永田紅
耳垂れし犬ゆっくりと石段を上まで嗅ぎて道にもどりつ/永田紅
色うすき柴犬あわく過ぎゆくをパンのようだと言えば頷く/永田紅
春だねと言えば名前を呼ばれたと思った犬が近寄ってくる/服部真里子
大きな犬のやうに眠つてゐるだらう月に真白く耀(て)りつつ家は/澤村斉美
犬は地に鼻さしよせて歩めりき光り天よりひたさしにけり/尾山篤二郎
銃の音木魂はしばし谷伝ふあとにうつろにさびし犬の鳴きて/土屋文明
いつも君は犬に好かれき見知らざる犬さへ千切れんばかり尾振りき/尾崎左永子
冬山の遠き木靈にのどそらせ臟腑枯らして吠ゆる犬あり/多田智滿子
雪解けを待ちつつブラシかけやれば盲導犬の背に春陽あり/吉村保
喫茶店の床にごろりと寝転んだ犬のかたちに呼吸(いき)はふくらむ/飯田彩乃
右肩上がりの雲の段々あれはギザの夢を見ている狛犬のせい/井辻朱美
人界に親しみたれば飼犬は素裸なるを恥ぢ入りて吠ゆ/斎藤寛
飼主と飼犬なれど指揮命令系統ぐじやぐじやしてゐる愉快/斎藤寛
人のをらぬ住戸と住戸の壁へだてべうべうと呼びかはす犬たち/真中朋久
黒い犬を見た記憶あらず低きより幼児を見上げてゐたのは かすか/真中朋久
くさむらに鼻さし入れてゐる犬を思へばただにものぐるほしき/真中朋久
砂粒がわずかに混じるハンバーガーくわえて犬は微笑みかえす/佐藤りえ
少年と大きな犬がわあわあとわれを追い抜き波蹴りあげる/佐藤りえ
雨上り 回転木馬 昇る月 黒い風船 つながれた犬/筒井富栄
凍死した犬のかたわら降誕祭 真紅のイエスの空にむいた瞳/筒井富栄
保護色をもつ者だけが住む街に今朝猟犬は放たれてゆく/筒井富栄
まひる 泣き出す前の沈黙の領域をよぎる黄金(きん)の山犬(ジャツカル)/筒井富栄
ムチならし犬連れた人がゆきすぎるその背の高さほどの日没/筒井富栄
野犬狩りの夢のつづきは野の彼方月光の中を影がとびかう/筒井富栄
犬はチエホフのきれぎれの鎖ひきずって春のはじめを遠のくばかり/筒井富栄
遠吠えの犬に凍った赤い月ダイスあそびに落ちてきた恋/筒井富栄
わが泣くを少女等(をとめら)きかば/病犬(やまいぬ)の/月に吠ゆるに似たりといふらむ〔石川啄木〕
愛犬の耳斬りてみむ/あはれこれも/物に倦みたる心にかあらむ〔石川啄木〕
路傍(みちばた)に犬ながながと呿呻(あくび)しぬ/われも真似しぬ/うらやましさに〔石川啄木〕
真剣になりて竹もて犬を撃つ/小児の顔を/よしと思へり〔石川啄木〕
われ饑(う)ゑてある日に/細き尾を掉(ふ)りて/饑ゑて我を見る犬の面(つら)よし〔石川啄木〕
庭のそとを白き犬ゆけり。/ ふりむきて、/ 犬を飼はむと妻にはかれる。〔石川啄木〕
従きて来し犬は日本の犬なればひそと車座の傍らに座す/稲葉京子
犬は花を見ずとも花を見し人の心の機微を味はひてゐむ/稲葉京子
あのやうな人になりたかつた私を人間になりたかつた犬が見てをり/稲葉京子
信号に吾は停まれども余念なき老犬が来て渡りはじめき/三枝昂之
ならぬことはならぬものです霜月の犬しやんとして死んでゐたるよ/吉田隼人
激震に飛び出して来し人の抱く小犬の瞳濡れてふるへる/山口明子
父が逝きし日のゆふぐれの屋上に黒き犬ゐて吾を見おろす/松平修文
十年を人の目となり働きて老いたる犬は我が家に遊ぶ/野田孝夫
麻薬犬災害救助犬警察犬帰りに一杯やることもなし/香川ヒサ
死の自由われにもありて翳のごと初夏(はつなつ)の町ゆく犬殺し/塚本邦雄
心きほふ日は犬鋸(のこ)の目を立てて吸はるるごとく山蔭に入る/葛原妙子
犬を呼ぶ男(を)の子の低音(バス)のこもりつつ雨あがる庭にこもれる溫氣(うんき)/葛原妙子
人の耳にきこえざる音聽きてゐる犬を繫げる鎖地に曳く/葛原妙子
坂の町犬を曳きゆく一人(いちにん)とあゆめる犬の間の默契/葛原妙子
骨折せし犬がギプスを嵌めてゐる後脚を上げてあゆめり/葛原妙子
薄やみに犬繫がれてゐる夕べ猫はほしいままに食卓に飛ぶ/葛原妙子
甕作る古代の筵に耳立ちし大いなる犬うづくまりゐざりしや/葛原妙子
頭蓋低く差しのべたる野の犬は人間の手に愛撫されけむ/葛原妙子
通行のあらざる夜明石道に犬出でて遊ぶ一尾二尾ならず/葛原妙子
犬の尾の渦巻きしあり垂れしあり巴となりて朝辻にゐる/葛原妙子
遠く立ちてわれを眺むる犬をりきあさあけの犬人を襲はず/葛原妙子
あけがたの路面濡れつつさわさわと浮浪の犬はわれにしたがふ/葛原妙子
曉星(あけぼし)はふたたびいづることなきや犬ゆく石の朝街暗む/葛原妙子
 (アルブレヒト・デューラーに)
放心の天使をりつつ足元に犬うづくまる「メランコリア」/葛原妙子
膝の上にあごを乘せくるわが犬をしづかにはらひわれは立ちたり/葛原妙子
犬猫の目あまたひそむ路地をゆくべつちんの足袋あたたかからむ/葛原妙子
ここあいろの乳房を垂れし犬步み既知にいそげるもののごとしも/葛原妙子
夜のあけぬをちかたにして犬吠ゆるそこのみ寒き空氣搖れゐき/葛原妙子
赤き犬群れゐる部落過ぎにしがわがめぐりなる雪の圓周/葛原妙子
雪踏みて耳ほてりゐる束の間のわが聲透る犬を呼びつつ/葛原妙子
蛾のごとくもの憂き斑(はん)犬セッター種立ちあがるとき薄陽差したり/葛原妙子
犬吠ゆる闇の近きに洋菓子のごとき聖壇ともりてゐたり/葛原妙子
犬の毛皮つけたる農夫ありありと夜の教會の椅子にねむりぬ/葛原妙子
散らばりしぎんなんを見し かちかちとわれは犬歯の鳴るをしづめし/葛原妙子
月の夜は球となりつつ犬の尾のゆたかなる總(ふさ)過ぎむとすなり/葛原妙子
炎天に砂あれば砂によこたはる黑犬は漆黑乳房もろとも/葛原妙子
さわさわと野犬の遊步つらなりあかつきに石の街角はありし/葛原妙子
高層に人のめさめのたゆたへるときあらはるる野の犬の群/葛原妙子
犬の耳雫垂りつつゆききせりさびしくもあるかしづく垂るること/葛原妙子
くひちがひて嚙みし犬齒をおそれたりわが飼猫を埋めむとして/葛原妙子
雪の道のへ消毒藥の匂ひして犬屋の白き犬は放たる/葛原妙子
われをよぎる豫感のしづか猛犬を飼ひて山家に老ゆる日あらん/葛原妙子
病む少女臥床(ふしど)にふかく目醒めつつあまたの犬の怒れる時間/葛原妙子
霧はひくく道を這ひをり黑き犬步める短き足ともろとも/葛原妙子
草の上にゆるやかに犬を引き廻し與へむとする堅きビスケット/葛原妙子
ゆるき坂そこにありつつめぐすりを差してもらひし仔犬を連れゆく/葛原妙子
白き靄充つる街ゆきわが連れし犬も鎖もふとうしなはる/葛原妙子
草枯れの見知らぬとほき町のはづれわがうしなひし犬が走るなり/葛原妙子
わが手より葡萄を食へる犬をりてガラスの扉とほく透きとほる/葛原妙子
マルタ島原産の犬が葡萄を啖(く)ふ灰色の毛を深く垂れながら/葛原妙子
光源の眞下に毛長き犬あそぶときふと犬のうしなはれたり/葛原妙子
走りても走りても汗の出づるなき犬をかなしみ暑(しよ)をかなしめり/葛原妙子
ひかりなき家竝の彼方たまたま犬はひとりに步道をわたる/葛原妙子
山上の耳にしきこゆわが家の暗きに小さき犬は吠えむか/葛原妙子
ゆくりなく振り向きしときわがみたり飼犬が階段をのぼりつつあるを/葛原妙子
犬などがことことと階段をのぼりゆくひたすらなるにわれは微笑す/葛原妙子
長き毛を垂りて敷物の上を步く飼犬は室内を薄明となす/葛原妙子
降雪のやみたる雪原をかへりくる犬の腹毛の暗きゆふぐれ/葛原妙子
ワイパーの拭へる雨の小微明よぎりし黑き犬の尾みえず/葛原妙子
山屋(さんをく)の土間によこたはりゐる犬はをりをりにして端坐をせり/葛原妙子
おろかなる犬といへどもわが投げし青草を咥へ走ることあり/葛原妙子
下半身影なる犬よ窓の邊にひとみを張りてしばしゐる犬/葛原妙子
水番の飼へる一尾の銀ぎつね犬よりもやや嗄れて鳴く/葛原妙子
ひとりゐるわが良夜(あたらよ)飼猫はすでに死にたれ犬失踪す/葛原妙子
まさめにしつぶさにみれば犬の目の奥をしみれば鈍き知惠の火/葛原妙子
坂下に暗い夕燒の立つ時間繫ぎし犬を先立ててゆく/葛原妙子
天空より暗き地上をまさぐるに白き塊なんぢは犬/葛原妙子
薄ら陽の差しそめにける雪の上犬先づ走り人次に走る/葛原妙子
もらひたる仔犬育ちてけふみるに馬のやうなる顏となりゆく/葛原妙子
赤き林に赤き木ありてさむき朝嬉しき犬は走りゆきたり/葛原妙子
幻のおほ犬なればグレート・デーン影なる一家婦を衞りゐき/葛原妙子
犬店に大犬をりき 懶(ものう)げに坐りゐしセント・バーナード犬/葛原妙子
憂犬眺むるものにさはなれや舗道(いしみち)をゆく人の半身/葛原妙子
犬憂へ曳かれたりけりアルプスの斑おほいぬ市街を曳かる/葛原妙子
犬の足渡る二、三步雪積める橋はみじかきときに悲しも/葛原妙子
すわりゐる老犬をりきしろ睫毛白犬なれば瞬かんとす/葛原妙子
犬ちひさくちひさくなりゆき おもむろに犬の原型失せにき/葛原妙子
石疊たひらなりせば思ひいで小さき犬の遊ぶことある/葛原妙子
わがみたる風景にしてうらかなし極月の空白犬に晴る/葛原妙子
漆黑のくちびるをもつ幼獸西藏犬に椀より食はす/葛原妙子
十二時半遠耳に啼く犬をりてガラス室のまだら木の影/葛原妙子
猫と犬ちひさき池のほとりにて出あへる星の夜をあやしまず/葛原妙子
腹熱き仔犬を抱きし少年はまどろむわれを迂回しゆくも/葛原妙子
愛なんて、と言いかけてごわごわの服を着ている犬と目があう/虫武一俊
ただ独り留守居してあればさ庭ゆくまぐれ犬さえなつかしきかな/武田寅雄
つれづれのかかる寂しさ冬日(ふゆひ)さす道のとほくに犬がねて居る/佐藤佐太郎
血に染(そ)みて伏しゐし犬がまだ生きて水すする音暫(しばし)ののちに/宮柊二
夜に呼べば懈(たゆ)げに立ちて寄りて來(き)ぬ人の愛撫に狎れざる犬か/宮柊二
梅雨の夜の居間の片隅ねそべれる犬は起たずて目を上ぐるのみ/宮柊二
われに來よと言ふにやあらん吠えやまぬ犬を撫づべくペン置きて立つ/宮柊二
ポンペイの廃墟の昼を寝そべりて吠ゆることなき犬ら病みおり/小川玲
花びらの転がってゆく朝の道犬との距離を保つ正しく/吉野裕之
悲しげな声で鳴いてる犬がいた塀の向こうの昨日の夜に/工藤吉生
透明に一瞬見える紐なので一瞬自由な犬の散歩だ/工藤吉生
鳴き声が省略形のこの犬を ゥ ゥ 真似したくなる ゥ ゥ/工藤吉生
犬吠える・自動車がくる・自動車はそのまま走り去る・犬吠える/工藤吉生
こそこそと家を回って人の目と犬を怖がる初ポスティング/工藤吉生
写メでしか見てないけれどきみの犬はきみを残して死なないでほしい /岡野大嗣
飼い犬にパン齧らせる夕方のこれ以上ないなめらかなこころ /岡野大嗣
犬が風かんじてるのを盗み見てたらこっちにも来てくれた風/岡野大嗣
写ってる犬はとっくに居なくって抱いてる僕はほんとうに僕? /岡野大嗣
偉くなくすごくなくとも夏風に犬は笑ったような顔する /小川佳世子
巨(おほ)いなる白毛の犬 顎の下に幼児は神のごとくに笑ふ/山本かね子
ピアノ消え明るき部屋のティータイム隣りの犬の遠吠え聞こゆ/徳高博子
悲しみて二月の海に來て見れば浪うち際を犬の歩ける/萩原朔太郎
座りいる大型犬の美しき骨格透けるような六月/小島なお
菜の花はこちらを向いていなくても私に気がつく子犬のようだ/正岡豊
停電の夜に着せたる赤い服あらたな犬に着せて歩めり/斎藤雅也
守護天使喪ひたりしわがかたへふさふさと白き仔犬寄りくる/雨宮雅子
里親といえば犬猫の飼い主を指す世となりぬ何かが違う/松村由利子
犬を洗ひ枇杷を洗ひて一日(ひとひ)過ぎゆふぐれに子の指を拭へり/木下こう
衣着けし犬がひかれてゆく土手に野良犬が首をあげて見てゐる/志垣澄幸
犬に寄りてなにかもの言ふ男あり犬も人間のやうに聞きゐる/志垣澄幸
星に名を/犬に眠りを/コーカサス地方に雨を/ワインに栓を〔佐藤りえ〕
魚の香の乏しくなりし港町犬ゐてどこ迄も吾に従きくる/雁部貞夫
たましいの堕落などなき犬を連れ野牡丹の咲く庭にたたずむ/藤村学
さびしくてわがかひ撫づるけだものの犬のあたまはほのあたたかし/岡本かの子
わが胸の恐怖(おそれ)の声の我を出て響くとばかり犬の長鳴く/高村光太郎
獅子の仔も犬の仔のごと母親にふざけかゝるところがされけり/中島敦
フーセー犬ヤング犬ミンコウスキー犬みな実験糖尿病に寄与せりき/上田三四二
犬の目に涙のごときひかるもの低丘のうへに来しときみたり/上田三四二
病舎裏の原に赤土の堆積あり実験済みし犬を葬る/上田三四二
雨まじり吹雪となりてあす屠る実験犬は濡れつつありや/上田三四二
梅雨のあめこめたる闇に犬の仔がくぐもり啼けり倦みて淋しき/上田三四二
夕ごとにとほる部落よ庭ひろき農家の犬もいつよりか吠えず/上田三四二
となり家に犬のこほしく鳴くきこゆきさらぎ寒く雪つもる夜を/上田三四二
わが寄るは動物店なれば狭くゐて檻なる犬は値をつけてあり/上田三四二
放たれて道にのどけき犬にあふ奥之院にても金剛峯寺にても/上田三四二
放たれていづくの犬か信号まで随き来てともに信号を待つ/上田三四二犬の夢いるかの夢のいかならん木洩日の斑(ふ)のうごく鋪(しき)みち/上田三四二
小屋にゐて吠ゆるなかりし老犬は雪の日すぎて身と屋(をく)と亡し/上田三四二
用もたぬ歩みはいづくゆくとなく犬吠えぬこの小路のやすし/上田三四二
曳かれつつ人に先立つ犬にして空みることもなくて歩める/上田三四二
犬を牽く人はのどけし若葉道ゆきてうれひの雲もとどめず/上田三四二
道にみて犬曳く人はおしなべて人よりも切にもの言ひて行く/上田三四二
背丈おなじき幼きものに尾を振りて保育所の犬はたのしからんか/上田三四二
うらさぶる夕べの道に耳ひらけ地にたえまなく犬の鳴くこゑ/上田三四二
さつきからついてくる犬 ちひさな犬 吠えるくせについてくる犬/目黒哲朗
真夜中の散歩のたびに教えても犬には星は見えないらしい/入谷いずみ
雨に濡れし褐色の犬のあとを行けりこのごろ寂かなる一日だにあらず/安立スハル
初めて来し姫路を茫と歩み居てさきほど逢ひし犬にまた逢ふ/安立スハル
犬ならぬひとをわらひて手はたきぬ三遍廻つてわんといふゆゑ/前川佐美雄
またしてもわが痩せ胸の骨あさる老犬の如きこころ叱りぬ/前川佐美雄
野良犬を追ひ返すべく棒投げぬ棒かんと藪の竹に鳴りたり/前川佐美雄
小半日われに従き来し野良犬がいま野良犬の伴(とも)を見つけぬ/前川佐美雄
あとになり前(さき)になりしてわが犬のある時は外(そ)れて萩むらに入る/前川佐美雄
萩むらに外(そ)れゆきし犬に道くさをすなと叱るもあとに従きゆく/前川佐美雄
わが犬の何思へるかふとふいに曼珠沙華道ひたかへり行く/前川佐美雄
どろんどろんと朝太鼓鳴る犬の皮たるみたる如き天にあらずや/前川佐美雄
飼犬の口あけさせてその荒くながき舌見けり人に呉るる前/前川佐美雄
捕られたる犬を探ねて三里ほど隔たれる荒き村に入りゆく/前川佐美雄
みづからの分を知れるは快し野良犬野良猫の類とてよし/前川佐美雄
犬猫にあらぬ親子がしやぶりをる鰤の頭なり涙もよほす/前川佐美雄
幾万の星は夜空にかがやけど落ちて来ざれば犬ら安けし/前川佐美雄
どの家の犬でもありどの家の犬でもない小泉八雲の犬が来てゐる/前川佐美雄
春先のあらし吹きしく日に見つるわれの赭犬も大きくなりぬ/前川佐美雄
花すぎてほこり風立つ街のなか汚れゐるあか犬を見つつ唇(くち)拭く/前川佐美雄
貰はれてゆきし仔犬を気づかふや折折吾子はその家訪ふらし/前川佐美雄
わが家のくらしの中もさびしけれ赭犬急にゐずなりしかば/前川佐美雄
犬に吠えられ草原駈けり跳びこえて鹿はいづれもしんけんに逃ぐ/前川佐美雄
恥多き日にありぬらしわが犬のわが家の門に向きて吠えしは/前川佐美雄
腹すりて地(つち)にしぢかに臥す犬をひた憎む彼がざまに似つれば/前川佐美雄
街中の犬ことごとく鳴きたちて夜半に没りゆく月を恐れず/前川佐美雄
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