水の門

背景をながれるもの。ことば。音楽。スピリット。

独我論。

2018年01月19日 18時00分15秒 | 人(またはその作品)に寄せて
音質の良し悪し分かち合えないと君の唱えている独我論
(とど)

2016年6月4日 作歌。
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履き続けてみて分かること。

2018年01月16日 17時48分18秒 | 気分・体調にあわせて
くるぶしの高さの靴に押し込めるたびに中指(ちゅうし)の甘皮剥けて
(とど)

2014年2月20日 作歌、2017年11月初旬 改訂。
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一首鑑賞(53):斎藤寛「呪文だつたぜ〈シュワキマセリ〉は」

2018年01月11日 15時00分47秒 | 一首鑑賞
めぐみ幼稚園ばら組のおいらには呪文だつたぜ〈シュワキマセリ〉は
斎藤寛『アルゴン』


 昨年の12月初旬、わが教会で【0才からのおやこコンサート〜えほんでクリスマス音楽会】を開催した。大型絵本の読み聞かせと音楽を取り合わせたクリスマスの催しで、実は元々の企画者は私だった。N教会では初めての試みで、絵本の読み手や演奏者の招聘から、近隣の保育園などでのチラシ配り、クリスマスらしいお菓子のお土産の用意まで、今までのコンサートとはかなり勝手が違い、それなりに苦労もあった。演奏したのは二組で、一つは教会とゆかりの深いDこども園のお母さん方のグループ。もう一つは私がネットで探してきたフルートとピアノのデュオだった。
 何しろ場はクリスマスコンサートだから、曲目の重複が起きないよう密に連絡を取った。最後に一曲、会場のみんなで歌える歌があるといいよね、と委員会で決まって、私からデュオのピアノ担当の方にその旨伝えたが、曲の選定は難航したようだ。キリスト教主義のこども園に通っているお子さん達は普段からクリスマス讃美歌にも親しみがあるが、それ以外のところからお越しの方には全くピンと来ないだろう。周りが皆歌えているのに自分だけ歌えなくて、疎外感を味わわせてしまっては申し訳ない。デュオの方から(となりのトトロの)「さんぽ」はどうですか、と提案もあったが、委員会で「やはりクリスマス曲がいいよね」という意見でまとまった。クリスマスソングの有名どころはデュオの演るメドレーに既に含まれている。初めこども園のお母さん方で演目に数えていた「もろびとこぞりて」が、調整の上トリの曲に決まったのはコンサートの四ヶ月前だった。
 メロディは聴いたことがあっても歌詞を覚えている人はまず殆どいないだろうからということで、全てひらがなで表記した「もろびとこぞりて」の歌詞原稿を準備した。当日、牧師先生から「もろびとこぞりて」の4番まで歌いきった後に「メリークリスマス!」と皆さんで言いましょうと発案があった。そして「もろびとこぞりて」を歌う直前、フルートの方の音頭で何度か掛け声の練習をしている間に、歌詞プリントを配布。大きな声で「もろびとこぞりて」が歌われ、「メリークリスマス!」もバッチリ決まった。その瞬間、ある男の子が「Thank you!」と発声。大笑いで幕切れとなった。
 首掲の斎藤の歌を読んだ時、全くそうだよなぁ、と思わず吹き出してしまった。私自身、公立小学校の2年生の頃、クラスで「もろびとこぞりて」を歌う機会があったが、意味も分からず〈シュワキマセリ、シュワキマセリ…♪〉と歌っていたのを思い出す。そう言えば、何だかウルトラマンの決め台詞「シュワッチ!」に似ていなくもない。くだんの男の子にも〈シュワキマセリ〉は呪文めいていたことだろう。でも、「そう、主はいらっしゃったのです!」と讃美した後、「Thank you!」と言い放った男の子に、イエス様もニッコリ笑って一緒に喜んでくださったのではないかと思うと、私も微笑まずにはいられない。
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一首鑑賞(52):根本亮子「目に見えぬ罪負うは誰」

2018年01月10日 09時37分53秒 | 一首鑑賞
流れくる葦の十字架目に見えぬ罪負うは誰橋くぐりゆく
根本亮子『葦の十字架』


 歌集を読み通すと、根本が特に信仰を持ち合わせていたわけではないことが分かる。それだけに標題となった一首は唐突にも見えなくもない。だが、老母の介護を長く続けての鬱積を吐露した次の歌からも、自らの「目に見えぬ罪」が意識にふと上ってくる瞬間があったことが窺える。

  母の病やっと癒えればわが精神(こころ)バランス崩し禁句を吐きぬ

 憶測であからさまな言い回しを限定することは少し躊躇われるが、おそらくは「散々わずらわせて…!」とか「早く逝けば良かったのに…!」とかいった類の言葉であったのだろう。口から出てしまった自分の本音に驚き、後悔に苛まれる根本の姿が浮かぶ。
 詩編19編13節にこういう祈りの言葉がある。「知らずに犯した過ち、隠れた罪から どうかわたしを清めてください。
 私が大学の卒論でお世話になった教授が、卒業前にぽつりと仰った言葉が記憶に残っている。「君ははっきりしているから。」私はそれまで人にそう言われたことはなかったし、自分で意識したこともなかった。でもそれから四半世紀が過ぎ、先生の仰ったことは本当だったなとつくづく思う。最近、20歳ばかり年下の作業所メンバーが会話の中でおどおどしていた挙動が他のメンバーの仕草に似ていたのを、あまり考えなしに身振りを交えつつ指摘してしまったのだ。似ているとされた当人は穏やかな人柄で何の抗弁もしなかった。しかし、彼の仕草は不随意のもの。帰宅後に振り返った私は、どれほど無神経な発言をしてしまったか一頻り悔いたのだった。詩編19編の祈りは時折私自身も裡に叫ぶものだが、もしかしたら根本も似たような呻きを心に抱いたかもしれない。
 根本の掲出歌は、眼前に川があり、葦がたまたま十字架のような形に組み合わさって流れていったのを詠んだと思われる。根本は、自分の気づいていない罪も負ってくれる誰かがいるのだろうかと思いを巡らす。勿論、根本も知識としてイエスが全ての人の罪を負って十字架に架かったことは知っていた筈だ。けれど、確信のないまま葦の十字架を見つめていた彼女を、イエスご自身も見つめてくださっていたと私は思う。ルカによる福音書23章に、イエスが十字架につけられる経緯が詳述されている。そして十字架に架けられたまさにその時、イエスは「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と言った(34節)。イエスは、彼を信じる者の目に見えぬ罪も、また信じていない人の目に見えぬ罪についても、神がお赦しくださるように執り成してくださる。その愛は計り知れない。
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干支短歌に関して。

2018年01月03日 13時56分56秒 | 季節にあわせて
歌風にも口出されるを疎んじて師へは出さずにいた年賀状
(とど)

2013年3月12日 作歌、2018年1月3日 改訂。
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