こんばんは。
最近ツイッターで文体をつぶやくのがどうにも性分に合わず…カタカナを羅列しまくっています。
活字で「うまい事言う主義」とか「言ってやった主義」みたいなツイッターの空気感のがとても苦手で…
それなら平等にカタカナだなあ。うむ。とか思って呪文のようにうわ言のように羅列しています。
一見、非常に不気味で申し訳ない次第です…
ただ自分としてはまさしく「つぶやく事」にはこれが一番楽しくそして正直な感じがしてて、やっとツイッターが苦ではなくなってきました。
その時の気分次第でその事物について知っていて尚かつ語感が好きな言葉をできるだけ出所が斑ランダムになるよう選んでいると、
その日その時の感情図が朧げに見えてくるのが面白いです。
一応そのカタカナは何かを指し示す「名前」であるものに限定しているのですが、思い返してみるとカタカナ以上に「名前」というものが私はとても好きなようなのです。
幼い頃から何かの特徴的な名前を覚えるのが好きでした。
怪獣の名前、妖怪の名前、熱帯魚の名前、洋蘭の名前。
そんな中でもどんなに複雑な名前でも覚えられるものと、
どんなに簡単な名前でも覚えにくいものがある事に気がつきました。
それは語感だけではなくて字面も含めての名前の感触。
文体、文章になってしまうと端的に指し示すにはあまりに意味的で語感と字面の感触からは少し遠くなるような感じがします。
そしてもう一つ重要な要素は、発音する事によって発生するほんの僅かな時間。
例えば…「テスカトリポカ」とか読みますよね。
この中の音声的な要素を見ると…
子音の種類の多さ、サ行の破擦音、さらに半濁音のコミカルさ等々がリズミックに並んでいて、とても音楽的な一句になっている気がするわけです。
「何で用例がアステカの神様なんすか?」みたいな突っ込みにはお応えできず申し訳ないのですが…この名前好きなんですよね。
そう。その名を発音する時に魅力的な音時間が発生している事というのは中々大きな要素なのではないかと思うのです。
つまり何か名をつけるという事は事物に極小音楽を付帯するという事の意味に近いのではないかという事です。
そしてその極小音楽が指し示す事物と結びつきやすいかどうかで覚えやすさが大分変わるわけですね。
熱帯魚の名前(学名の方)は驚く程にその語感と見た目が合致するものが多くてびっくりします。
先ほど「字面」という言葉でも示しましたが、発音をしなくても名前から極小音楽は発生し得る可能性があります。
それは字を目で追い、字を目で捉え、更に字を脳内で変換する際の時間が発生していて、その時間は発音する以上に自由なイマジネーションの時間であるわけなのです。
なので漢字、ひらがな、カタカナ、アルファベット等々における差異の感覚もかなり大きいでしょう。
つまり文字を認識する時間には本来かなりの嗜好性が知らない内に働いていて、好きか嫌いかを無意識に決める以上にその発音する名前が指し示す事物と結びつきやすいかどうか、そして記憶に残すかどうかを本能的に判断する時間になっているような気がします。
古来からある「言霊」は持っている意味性以上に発音と脳内捕捉自体のとても大きな影響力そのものではないでしょうか。
更に頭の中ではそれを反芻する事もできますしね。
そう考えると呪文というのはまさしくその反芻。エロイムエッサイム。
特に我は求め訴えたりしたいものがあるわけではないのですが…
それならば尚の事、記号でしかないような扱いを受けているような「名前」に小さな音楽を感じつつ、
指し示す事物との繋がりを楽しみたいですね。
だから音楽に名前をつけるというのは二重音楽のような感じがして面白いです。
そう考えると純音楽的な「弦楽四重奏曲第ニ番」とかもすごく歯ごたえのある名前で良いですよね。
昔はこういう名前が少し苦手だったのですが、最近純音楽的な名前は美味しそうな感じがして好きになってきました。
ちなみにテスカトリポカさんはいかにも「テスカトリポカ」って感じの姿をしていらっしゃいます。
人間と望みと命を懸けた相撲を取る事もあるらしいです。
待ったなしですね。
最近ツイッターで文体をつぶやくのがどうにも性分に合わず…カタカナを羅列しまくっています。
活字で「うまい事言う主義」とか「言ってやった主義」みたいなツイッターの空気感のがとても苦手で…
それなら平等にカタカナだなあ。うむ。とか思って呪文のようにうわ言のように羅列しています。
一見、非常に不気味で申し訳ない次第です…
ただ自分としてはまさしく「つぶやく事」にはこれが一番楽しくそして正直な感じがしてて、やっとツイッターが苦ではなくなってきました。
その時の気分次第でその事物について知っていて尚かつ語感が好きな言葉をできるだけ出所が斑ランダムになるよう選んでいると、
その日その時の感情図が朧げに見えてくるのが面白いです。
一応そのカタカナは何かを指し示す「名前」であるものに限定しているのですが、思い返してみるとカタカナ以上に「名前」というものが私はとても好きなようなのです。
幼い頃から何かの特徴的な名前を覚えるのが好きでした。
怪獣の名前、妖怪の名前、熱帯魚の名前、洋蘭の名前。
そんな中でもどんなに複雑な名前でも覚えられるものと、
どんなに簡単な名前でも覚えにくいものがある事に気がつきました。
それは語感だけではなくて字面も含めての名前の感触。
文体、文章になってしまうと端的に指し示すにはあまりに意味的で語感と字面の感触からは少し遠くなるような感じがします。
そしてもう一つ重要な要素は、発音する事によって発生するほんの僅かな時間。
例えば…「テスカトリポカ」とか読みますよね。
この中の音声的な要素を見ると…
子音の種類の多さ、サ行の破擦音、さらに半濁音のコミカルさ等々がリズミックに並んでいて、とても音楽的な一句になっている気がするわけです。
「何で用例がアステカの神様なんすか?」みたいな突っ込みにはお応えできず申し訳ないのですが…この名前好きなんですよね。
そう。その名を発音する時に魅力的な音時間が発生している事というのは中々大きな要素なのではないかと思うのです。
つまり何か名をつけるという事は事物に極小音楽を付帯するという事の意味に近いのではないかという事です。
そしてその極小音楽が指し示す事物と結びつきやすいかどうかで覚えやすさが大分変わるわけですね。
熱帯魚の名前(学名の方)は驚く程にその語感と見た目が合致するものが多くてびっくりします。
先ほど「字面」という言葉でも示しましたが、発音をしなくても名前から極小音楽は発生し得る可能性があります。
それは字を目で追い、字を目で捉え、更に字を脳内で変換する際の時間が発生していて、その時間は発音する以上に自由なイマジネーションの時間であるわけなのです。
なので漢字、ひらがな、カタカナ、アルファベット等々における差異の感覚もかなり大きいでしょう。
つまり文字を認識する時間には本来かなりの嗜好性が知らない内に働いていて、好きか嫌いかを無意識に決める以上にその発音する名前が指し示す事物と結びつきやすいかどうか、そして記憶に残すかどうかを本能的に判断する時間になっているような気がします。
古来からある「言霊」は持っている意味性以上に発音と脳内捕捉自体のとても大きな影響力そのものではないでしょうか。
更に頭の中ではそれを反芻する事もできますしね。
そう考えると呪文というのはまさしくその反芻。エロイムエッサイム。
特に我は求め訴えたりしたいものがあるわけではないのですが…
それならば尚の事、記号でしかないような扱いを受けているような「名前」に小さな音楽を感じつつ、
指し示す事物との繋がりを楽しみたいですね。
だから音楽に名前をつけるというのは二重音楽のような感じがして面白いです。
そう考えると純音楽的な「弦楽四重奏曲第ニ番」とかもすごく歯ごたえのある名前で良いですよね。
昔はこういう名前が少し苦手だったのですが、最近純音楽的な名前は美味しそうな感じがして好きになってきました。
ちなみにテスカトリポカさんはいかにも「テスカトリポカ」って感じの姿をしていらっしゃいます。
人間と望みと命を懸けた相撲を取る事もあるらしいです。
待ったなしですね。