霞食怪獣

川上作曲動物園

トテリスポカカ

2011-02-16 22:45:39 | Weblog
こんばんは。

最近ツイッターで文体をつぶやくのがどうにも性分に合わず…カタカナを羅列しまくっています。
活字で「うまい事言う主義」とか「言ってやった主義」みたいなツイッターの空気感のがとても苦手で…
それなら平等にカタカナだなあ。うむ。とか思って呪文のようにうわ言のように羅列しています。
一見、非常に不気味で申し訳ない次第です…

ただ自分としてはまさしく「つぶやく事」にはこれが一番楽しくそして正直な感じがしてて、やっとツイッターが苦ではなくなってきました。
その時の気分次第でその事物について知っていて尚かつ語感が好きな言葉をできるだけ出所が斑ランダムになるよう選んでいると、
その日その時の感情図が朧げに見えてくるのが面白いです。
一応そのカタカナは何かを指し示す「名前」であるものに限定しているのですが、思い返してみるとカタカナ以上に「名前」というものが私はとても好きなようなのです。

幼い頃から何かの特徴的な名前を覚えるのが好きでした。
怪獣の名前、妖怪の名前、熱帯魚の名前、洋蘭の名前。
そんな中でもどんなに複雑な名前でも覚えられるものと、
どんなに簡単な名前でも覚えにくいものがある事に気がつきました。

それは語感だけではなくて字面も含めての名前の感触。
文体、文章になってしまうと端的に指し示すにはあまりに意味的で語感と字面の感触からは少し遠くなるような感じがします。
そしてもう一つ重要な要素は、発音する事によって発生するほんの僅かな時間。

例えば…「テスカトリポカ」とか読みますよね。

この中の音声的な要素を見ると…
子音の種類の多さ、サ行の破擦音、さらに半濁音のコミカルさ等々がリズミックに並んでいて、とても音楽的な一句になっている気がするわけです。
「何で用例がアステカの神様なんすか?」みたいな突っ込みにはお応えできず申し訳ないのですが…この名前好きなんですよね。
そう。その名を発音する時に魅力的な音時間が発生している事というのは中々大きな要素なのではないかと思うのです。
つまり何か名をつけるという事は事物に極小音楽を付帯するという事の意味に近いのではないかという事です。
そしてその極小音楽が指し示す事物と結びつきやすいかどうかで覚えやすさが大分変わるわけですね。
熱帯魚の名前(学名の方)は驚く程にその語感と見た目が合致するものが多くてびっくりします。

先ほど「字面」という言葉でも示しましたが、発音をしなくても名前から極小音楽は発生し得る可能性があります。
それは字を目で追い、字を目で捉え、更に字を脳内で変換する際の時間が発生していて、その時間は発音する以上に自由なイマジネーションの時間であるわけなのです。
なので漢字、ひらがな、カタカナ、アルファベット等々における差異の感覚もかなり大きいでしょう。
つまり文字を認識する時間には本来かなりの嗜好性が知らない内に働いていて、好きか嫌いかを無意識に決める以上にその発音する名前が指し示す事物と結びつきやすいかどうか、そして記憶に残すかどうかを本能的に判断する時間になっているような気がします。
古来からある「言霊」は持っている意味性以上に発音と脳内捕捉自体のとても大きな影響力そのものではないでしょうか。
更に頭の中ではそれを反芻する事もできますしね。
そう考えると呪文というのはまさしくその反芻。エロイムエッサイム。

特に我は求め訴えたりしたいものがあるわけではないのですが…
それならば尚の事、記号でしかないような扱いを受けているような「名前」に小さな音楽を感じつつ、
指し示す事物との繋がりを楽しみたいですね。
だから音楽に名前をつけるというのは二重音楽のような感じがして面白いです。
そう考えると純音楽的な「弦楽四重奏曲第ニ番」とかもすごく歯ごたえのある名前で良いですよね。
昔はこういう名前が少し苦手だったのですが、最近純音楽的な名前は美味しそうな感じがして好きになってきました。

ちなみにテスカトリポカさんはいかにも「テスカトリポカ」って感じの姿をしていらっしゃいます。
人間と望みと命を懸けた相撲を取る事もあるらしいです。
待ったなしですね。

works up date vol.23

2011-02-11 15:49:40 | 作曲
                  Das Atem Des König

久々に室内楽曲のアップデートです。
2006年に「本歌取りプロジェクトvol1」にて初演した曲「Das Atem Des König」です。
コントラバス奏者で大学時代から交流のある内山和重氏主催の本歌取りプロジェクトはこの時が最初でした。
作曲家や音楽における和歌の本歌取りをするというこの企画、いつもかなり熱い演奏会になります。
そして何よりも作曲そのもののアプローチを試されるような非常に鋭い企画でもあります。
サイトはこちらに。
http://web.mac.com/warisoverifyouwantit/iWeb/Site/about%20HONKADORI%20PROJECT.html


この曲を作った初回はモーツァルトがテーマでした。
モーツァルトの本歌取り…と考えた時、まず彼の作品の中でも最も好きな曲であり最も記憶の原点である曲を思い出しました。
クラリネット五重奏曲です。

これを書いていて最近考えていた事とリンクした事が一つあります。
それは私が「感情が記憶している事は感情そのものとして忘れない」という体質のようだという事です。
随分ややこしい言い方になってしまったのですが…最近よく起こる出来事が事物の記憶を忘れていても、
それに付帯していた感情はかなり如実に覚えているという事なのです。
だから最近は事物がポロポロと頭から抜け落ちていって、感情だけが記憶に取り残される。
この事についてとても不安に思う事が多いのです。

さてそんな時にこの曲の事をふと思い出しました。
この曲の原点は「不眠症の小学生時代」です。

小学5~6年生の時分に何だか不眠でした。夜3時まで眠れない事もしばしば。
眠れない時というのは次の日が苦しいの勿論の事、何より夜の不安感と寂しさが凄いのです。
そんな時に眠れない寂しさを紛らわし安心を得る為によく聞いていたのがこのクラリネット五重奏でした。
この時期ワーグナーやブルックナーも同じく安眠ミュージックでした。変な小学生ですね。
ちなみに聞いていたCDはこの曲の後にブラームスのクラ5も入っていて、こちらの物悲しさには小学生ながら寂寥感と焦燥感を掻き立てられました。
この曲も好きではあるのですけどね…(第3楽章が好きです)
なのでモーツァルトが鳴っている内に何とか眠りたい!という急く思いにも駆られ、聞いていると今でもとても複雑な気持ちになります。

そういえば、モーツァルトの他の曲を聞いてもあまり安心は出来ませんでした。
この曲を聞いていたシチュエーションもあるのかもしれません…
でも随一の目まぐるしさと穏やかさと品があるように感じませんか?
そんな落ち着き無さをしっかりつつみこむような落ち着く流れに王様感を感じたのです。
そう。モーツァルトは王様なのだなあ、と、この曲を書くに当たった当時にやっと出会えたとっかかりがこれだったのです。

落ち着きの無い王様の目まぐるしくも落ち着きのある呼吸感を思い「Das Atem Des König(王の呼吸)」
と名付けました。

今でも結構気に入っている曲です。
小さな4楽章に分かれている作品でして、特に4分30秒位から始まる3楽章が楽しいです。
何よりとても良い感じにモーツァルト感を引き出して下さった演奏家の皆様に感謝しております。

どうぞ下記のリンクからお聞き下さいませ。


Das Atem Des König





追記:
当の本歌取りプロジェクト、今年もあります!
2011年7月3日昼公演
本歌取りプロジェクトvol.5「ベートーヴェン」
場所:明日館講堂

また詳しい事はお知らせ致しますね。
それでは。

ぼんやりヴォルカニック

2011-02-06 22:28:43 | Weblog
如月に入りました。
いつもこの月になると四週間ぴったりしかない事に四週目に気づいて暗鬱とした気分になります。
頼みの閏年も先年去ったばかり。口惜しや。
なので今のうちから暗鬱とした事ばかりを考えて、四週目になっても泣かないぞ。

暗鬱となりやすいのはどうも一月を抜けると日が途端に長くなって、それでも寒くて、月の日数は少なくて、豆投げて、明らかに許容オーバーの海苔巻きを日本全国で丸かじりして、受験で、たまに雪降って、実に心地の悪いシャーベットな積もり方をして、そして梅が咲いて…そんなこの月に入ると心身ともにすこぶるぼんやりとしてしまうのです。

これを書いていて思い出したのが、自分が中学受験をダイナミックに大失敗した事です。
最近まで物忘れの激しさで忘れていました。
6回(4校と内2次試験2回含む)を受けてことごとく名前のない掲示板を寒空の中見上げる二月でした。
こう書くと物凄い悲壮感があるのですが、当の自分は本当に頭の悪い少年だったのでかなりあっけらかんとしておりました。それよりも受験1日目から豪雪になるし地震もあるし…なかなか忘れ難いシチュエーションだった事は今も何とか忘れずにおります。

日能研少年でもありました。N字鞄は誇りの印。
学校の友達とは思いっきり遊ぶ事が出来なかった小学生末期でしたが、今思えば非常に楽しかったです。
忘れもしない…六年生の夏期講習におけるAM9~PM8時という若干トチ狂ったカリキュラム。
太陽ではなく蛍光灯の下で殆どの時間を過ごす夏休み。
厭味ではなく本当に楽しかったです。
今になって先生の労働時間を思うと本当に大変だったのですね…
詰め込みタカ派世代の誇りです。
何だか全然忘れてないみたいですね。誇りは忘れないものです。ああうぃ。

何というか…勉強もそうなのですが、受験をこの時期にやるという名残がことある毎にインプットされていて、どうもこの時期になると頭が自動的に混沌としてくるようです。
何とも言えない緊張状態にも陥りやすい。

恐ら緊張状態と自動混沌に反発する我が大脳も小脳も「ぼんやりしたいのだよー」とゴネているのでしょう。

ぼんやりを解消するには更なるぼんやりで制するしかありません。
最近編み出したぼんやり解消法は首都圏の温泉・スーパー銭湯です。
あまりに普通の回答で吐き気がする程申し訳ない次第です…

吐く程でははないのですが、私にとっては最高にぼんやりできるのは本当です。
私の乱視・色弱付きの激近視眼は湯煙燻る広い湯場に於いては、もう見るもの全てがもやもや。
さながら癒しのサイレントヒルです。
そんな中で身体も熱気でもやもや。
極めつけはサウナ⇔水風呂のハイパーローテーション×3セット
湯加減のもやもやには順応してしまう時間があるので水と空気熱でリセットします。
そしてリセットした身体にその都度本格的に身体へと染み込む温泉成分にはこれまたぼんやりとした恐怖感を感じます。水風呂後は尚凄いです。
こういう湯場はとにかく独りで乗り込むのが良いですね。
殺伐としたラーメン名店に乗り込む感覚に似ています。

首都圏には最近本当に温泉が増えたので、色んなぼんやり感を楽しめるのは良い時代になったものだなあと思います。
今度出向く時はあの受験の事を思い出してぼんやりしてみよう。

そして二月は重要イベントもぼんやりの最中で見逃してしまいます。
またしてもワンダーフェスティバル…今度こそ梅祭り。

以上です。







嘘です。

少し真面目な話をすると、ぼんやりしているのは実はこの時期だけではありません。
歳を経て既に頭の中が本格的にぼんやりし始めています。
大した歳でもないのに本当に悔しく思います。
酷い時は3秒前に考えていたカタカナ言葉を忘れてしまう時もある位。

だからハッキリと心に繋ぎ止めたいものが多くて…
せめても音楽は最近ずっと輪郭をはっきりさせています。

でもそのハッキリした輪郭が最期に象りたいのは、
混沌とした眼前の現実と生物のような在り方の感覚なのです。
時折それは、「音じゃない方が良いのではないか…」と苦しみます。
でも自分にとって最も生物らしく現実らしい事象は音のようなのです。
恐らくずっとこれに関しては一生苦しむでしょう。
それが本当の形として外界に描ける日まで。