エホバの証人の集会に行かなくなって5年くらいかな?
いつから行かなくなったのかも覚えていない。
教理や組織の在り方や実際の長老や巡回監督をせめても
否定できないものがあった
それは、あの空間と時間を愛し合った人たちだ。
愛していたという自分の感情だけは否定できず
苦しんだ。
一切かかわらずに何度も生きてゆこうとした。
そのたびに年末の一番最後の電話が
別れて10年もたつ子供が電話してきたり
夜中の11時に眠りに就いたかと思ったら
一緒に遊んだ5歳の女の子が家の近くまで来たからと急に懐かしくなってやってきたり
なかなか断ち切れなかった。
自分がその人たちを愛したという事実を否定しなければ
生きてゆけないことに全人格を否定する悲しみにあった
それで、このブログのタイトルを選んだ。
愛したという現在と関係のなくなった過去形でなく、
愛してきたという現在完了形で現在とのつながりをわずかに残したいと思った。
当初、ネットでかかわってゆくのはやめて行った人たちかなと想像していた。
ところが、自分が想像していた事をはるかに裏切る幅のある現役の信者たちに
たくさん出会うことになりました。
そして、孤独な時間を
ここいる現役の信者の皆さんとやり取りで
また愛情が芽生えてきて。
昔のクリスチャン会衆を思い出し、
また同じ事を繰り返している自分に気が付きました。
自分はもこさん以上に罪な事をしているように感じ始めました。
自分自身は全く離れているのに、
一生懸命生きている現役の信者のみなさんにかかわってゆくのは
みなさんにとって、悪い事のように思い始めました。
そして、一人一人の問題に自分がいかに助けにならないかという事も
改めて痛切に感じました。
それでも
わずかな10カ月
本当のクリスチャン会衆に交われたようで幸せでした。
ここで出会った人たちの事は忘れないで、自分の人生の素晴らしい宝石として
またしばらく生きてゆこうと思います。
様々なトピックがあるのでそれで皆さん自身極めてみてくだい。
エホバの証人の問題は深いです。
一つの事を批判して解決できる問題ではありません。
なぜなら、根っこに愛があるから。
I have loved them.
いつから行かなくなったのかも覚えていない。
教理や組織の在り方や実際の長老や巡回監督をせめても
否定できないものがあった
それは、あの空間と時間を愛し合った人たちだ。
愛していたという自分の感情だけは否定できず
苦しんだ。
一切かかわらずに何度も生きてゆこうとした。
そのたびに年末の一番最後の電話が
別れて10年もたつ子供が電話してきたり
夜中の11時に眠りに就いたかと思ったら
一緒に遊んだ5歳の女の子が家の近くまで来たからと急に懐かしくなってやってきたり
なかなか断ち切れなかった。
自分がその人たちを愛したという事実を否定しなければ
生きてゆけないことに全人格を否定する悲しみにあった
それで、このブログのタイトルを選んだ。
愛したという現在と関係のなくなった過去形でなく、
愛してきたという現在完了形で現在とのつながりをわずかに残したいと思った。
当初、ネットでかかわってゆくのはやめて行った人たちかなと想像していた。
ところが、自分が想像していた事をはるかに裏切る幅のある現役の信者たちに
たくさん出会うことになりました。
そして、孤独な時間を
ここいる現役の信者の皆さんとやり取りで
また愛情が芽生えてきて。
昔のクリスチャン会衆を思い出し、
また同じ事を繰り返している自分に気が付きました。
自分はもこさん以上に罪な事をしているように感じ始めました。
自分自身は全く離れているのに、
一生懸命生きている現役の信者のみなさんにかかわってゆくのは
みなさんにとって、悪い事のように思い始めました。
そして、一人一人の問題に自分がいかに助けにならないかという事も
改めて痛切に感じました。
それでも
わずかな10カ月
本当のクリスチャン会衆に交われたようで幸せでした。
ここで出会った人たちの事は忘れないで、自分の人生の素晴らしい宝石として
またしばらく生きてゆこうと思います。
様々なトピックがあるのでそれで皆さん自身極めてみてくだい。
エホバの証人の問題は深いです。
一つの事を批判して解決できる問題ではありません。
なぜなら、根っこに愛があるから。
I have loved them.