一杯の水

動物であれ、人間であれ、生命あるものなら誰もが求める「一杯の水」。
この「一杯の水」から物語(人生)は始まります。

「イーシャー・ウパニシャッド」読解(11・14詩句を中心として)

2007年04月07日 10時55分45秒 | インド哲学&仏教
難解な「イーシャー・ウパニシャッド」。
特に、9-14詩句に関しては、様々な解釈がなされてきたと言われています。
メインサイト「Hinduism & Vedanta」においてシャンカラの註釈を含めて「イーシャー・ウパニシャッド」の翻訳を連載しているのですが、当該箇所の「シャンカラ註」自体も難解となっております。
そこで私なりに「シャンカラ註」を整理し、意訳を試みたいと思います。

特に以下の「11詩句」と「14詩句」が分かりにくさの原因ではないかと思うので、ここでは、その2詩句を読み解いてみたいと思います。

(11)明知と無知と、これら2種を共に知る者は、
   無知によって死を渡り、
   明知によって不死に到達する。
(14)生成と滅尽と、これら2種を知る者は、
   滅尽によって死を渡り、非生成によって不死に到達する。

まず11詩句における「明知」と「無知(無明)」に関しては、仏教的理解を離れる必要があります。
この場合、「無知」は「祭祀」を、「明知」はいまだ輪廻の枠内にある神々を対象とした「瞑想」を指します。
この「祭祀」を行うことによって渡られる「死」とは、肉体の死を指すのではなく、前世等に蓄積された「カルマ(業)」と「知(詳細不明)」を指します。
また、「明知」によって到達される「不死」は、永遠なる命(生存)を指すのではなく、いまだ「輪廻の枠内にある神々と同様の性質を持つこと」を指します。

次に14詩句において、シャンカラは「生成」と「滅尽」は、「無常を特質とする同じもの」との理解に立ち、「生成」を「非生成」と強引に読み替えます。ここでは、シャンカラのその説に従って整理しておきます。
「生成=滅尽」は、現象として現れた世界を指します。「生成=滅尽」を、「結果として現れたブラフマン」あるいは「ヒラニヤガルバ(黄金の胎児)」とも呼びます。
それに対して「非生成」は、現象世界として開展する以前の「未開展(者)」を指します。そして「非生成」は、現象世界に開展していく質量因、すなわち「プラクリティ」と呼ばれます。

さて、「滅尽」によって渡られる「死」は、ここでも一般的な「死」の概念とは異なり、「無力・非法・欲望などの欠点の総和」を指します。「生成=滅尽」、つまり、「結果として現れたブラフマン」あるいは「ヒラニヤガルバ(黄金の胎児)」を崇拝する者は、神通力等を得て、「死」と語られた無力等の欠点を克服します。

また、「非生成」を崇拝する者は、現象世界の質量因そのものである「プラクリティに帰入」し、それが「不死」と表現されます。この「プラクリティに帰入すること」が、人間と神々の世界で獲得できる最高のものなので「不死」と表現されるのです。

しかし、「これら2種の崇拝によって得られる成果は、いまだに輪廻の世界にあるものである」というのがシャンカラの解釈です。

以上を念頭において上記の詩句を意訳しておきます。

(11)「神々を対象とした瞑想」と「祭祀」を共に知る人々は、
   「祭祀」によって、過去に蓄積した古き「業」と「知」を克服し、
   「神々を対象とした瞑想」によって、
   「神々と同様の性質」を獲得する。

(14)無常を本質とする現象世界である「結果として現れたブラフマン(ヒラニヤガルバ)」と、
   現象世界の原因であり未開展にして質量因である「プラクリティ」を共に知る者は、
   「結果として現れたブラフマン(ヒラニヤガルバ)」を崇拝することによって、
   微細になる等の神通力を得て「無力などの欠点」を克服する。
   その上さらに、未開展の「プラクリティ」を崇拝して、
   人間界と神々の世界で得られる最高の富である「プラクリティへの帰入」に到達する。


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2 コメント

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Unknown (たかはし)
2007-04-08 05:42:49
ありがとうございます。
ちょっと理解出来たような気がします。
プラクリティとは、ブラフマン、アートマンとはどういう関係にあるのでしょうか。
ヨーガの本には、世界はひとつのプラクリティと無数の真我からなる、とありました。二元論ということのようです。
一元論からするとブラフマン、アートマン、プラクリティは同じもの、ということになるのでしょうか。
プラクリティ (便造)
2007-04-08 17:17:43
たかはしさん、こんにちは。
いつも書き込みありがとうございます。

シャンカラ以前の一元論では、純粋精神であるブラフマンが、プラクリティにあたる「物質的な質量因」もかねることになります。純粋精神であるブラフマンが、世界創造の質量因にして動力因であり、世界の創造には、プラクリティは介入せず、ブラフマンの自己創造ということになります。
これは、世界とブラフマンは「火と火花」、あるいは「海と波」のような関係にあり、不一不異説と呼ばれるものです。普通一元論として人々が感じる「自然(宇宙)との一体感」などは、この「不一不異説」にあたるもののような気がします。

しかし、そうすると、なぜ純粋精神であるブラフマンから、物質である世界が開展してきたのか、という矛盾が生まれます。

そこでシャンカラは「未開展の名称と形態」という、「プラクリティ」に近似した概念(質量因)を持ち出します。その「未開展の名称と形態」から物質世界は開展してきたと説きます。しかし、その「未開展の名称と形態」は「無明」によって誤って想定されたものであると説き、二元論に陥らないように、結局は否定していきます。

以上でいかがでしょうか。
「ブラフマン=アートマン」ではあっても、「プラクリティ=ブラフマン」とはならないようです。

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