いよいよ次の作品を書かねばならない。
次は六月末を脱稿の予定日と決めているわけだが、今回も長編小説、例によってまた三百枚程度、である。
まだ何も出来ていない。
涙が出そうである。
この数年、私は、これも修行である、と心に念じて己の創作には三つの枷をかけてきた。
一つはまず、自分の人生経験を小説化することはしない、というものである。
人間、誰しも生涯に一本は傑作を書くことが出来る、という。
そんなこと、と思うかもしれないが、これはウソではない。
誰しもまともに人生をやっているなら、人格形成の核となる出来事の一つや二つは経験しているものである。
それを真っ当に掘り下げ、それなりの体裁で書き切ることが出来るものなら、それは必ず名作と呼ぶに値するものとなる。
まァ、裏を返せばイマドキのお芸術などは、大半が出来損ないのポルノと女の自分語り
……このブログが炎上しそうである。
止しておこう。
人生を切り売りにすれば、たしかに手軽にいいものが書ける。
しかし、私はまだ修行中の身の上だ。
何本でも、いくらでも書ける、そんな技術を養っている時にやることでもなかろう。
だから私は極力これを控えているのである。
二つ目は、絶対に盗作できないものを書く、コレである。
以前、下読みの方がお作りになったという、とあるホームページには、
新人賞狙いの素人の作品などはゴミ以下である、そんなものを盗作する人間などあるわけもない
といった内容のことが書いてあった。
ところで、この下読み氏は、どうしてわざわざこんなことに言及していたのであろう?
そういえば、プロでもないド素人が趣味で公開したネット小説が盗作され
……このブログが炎上しそうである。
これぐらいにしておこう。
まァ、ともかく。
プロでもない間は気楽に人の意見を聞きながら書いた方がいい。
他人に見せるのに、妙な心配をしなくてはいけないようでは気詰まりでいけない。
だから私はその種の心配をしなくて済むようなものだけを書くことにしているのだ。
さて。
最後の枷なのだが――。
これは私自身、いくらか疑問を感じながらやってきてしまったものである。
実はそろそろ止めようか、と思っていたりもするのだが。
それは、
恋愛モノはやらない
というものである。
新人賞応募作品は七割から八割ぐらいが青春恋愛小説であるらしい。
実際、出版されるモノや受賞作を見ていても、とにかく色恋の話は眩暈がするほど多い。
白血病の美少女だの、熟年男と女子高生の恋だの、私ももう、うんざりである。
聞いたところによると、熟年男性が新人賞に送ってくる作品の、およそ半数ほどが、
今、ハンカチを落としませんでした?
あ、私のです。ありがとう――よろしければお名前を
という調子で恋が芽生えるとか何とか、そんなパターンを忠実にトレースしたものであるらしい。
そういえば、先日、某地下鉄の立て看板で、
最近、ハンカチを落として、それを拾ってもらう間にサイフを盗むスリの手口が流行っています
というのを見かけた。
私は暗澹たる気分になりつつも、薄く笑ってしまった。
まったく、世の中というのは世知辛いというか、馬鹿馬鹿しいというか。
いかに愛に渇き、若い女性とのローマンスを切望する熟年男性の多いことか、それが痛いほど理解される事例である。
……まァ、これぐらいでは炎上はするまい。
だが、何人かの、数少ないこのブログの読者は失ったかもしれない。
それはいい。
ともかく、だ。
いい加減読まされる方も辟易としている頃であろうか、と思うゆえ、私は強いて恋愛を題材に取るのは避けて来た。
ところが、最近、私の小説をお読みになった方々から、以下のごとき意見(苦情)が多数寄せられるようになった。
汗臭いマッチョなおっさんしか出てこない
ムキムキじゃないと思ったら、なんだ、今度は悪ガキとジジイか
女ったって、あんなものはおばはんじゃないか
お前は濡れ場の一つもかけないのか
私の感想は複雑である。
まったく、どいつもこいつも、女、女、女を出せと口煩い。
名画『アラビアのロレンス』に女が出てくるか?
『戦場に架ける橋』のどこに女がいた?
男しか出てこない映画はまずもって名画である、とは、かの淀川長治大先生のお言葉ではないか。
――何がいけない。
かつて、GHQは日本映画の検閲に際し、キスシーンのない映画は片っ端から上映禁止にしていたという。
キスシーンは日本の民主化と男女平等を促進するのに必須だったのだそうだ。
まったくもってイカれた話である。
GHQが去った今、日本国民は愚劣にも占領者に強要されたキスシーンを自ら求めるようになってしまったようである。
まことに憂慮すべきことである、としか言いようもない。
恋愛モノなんぞ、一体何がそんなに面白いというのか。
あんなもの、繁殖における一過程に生じた心的衝動をちまちま書いてあるだけではないか。
その結末はどうだ。
別れるかひっつくか、それしかない。
どうかしたら粘膜をこすり合わせるシーンがあるぐらいではないか。
手前の話で恐縮ではあるが、私などは小学生の頃から恋愛モノなどは馬鹿にしており、隣席の女児から『キャンディキャンディ』を押し付けられた折も、己はいやしくも男児である、かくも惰弱なものが読めると思うか、と叩き返してやったものである。
人間存在をはるかに超えた、より高次な存在に想いを馳せる教養人にとって、恋愛モノなどは退屈至極と言わねばならない。
いいだろうか。
幼少の砌、私が好んで観ていたものとはこういうものだ。
↓
クレクレタコラ 第249話
好みの映画はこんな感じ
↓
東宝怪奇特撮シリーズ 予告編集
……正直に白状することにしよう。
私は恋愛モノが苦手だ。
というか、書けない。
いや、書くこと自体はそうも難しいとは思わない。
だが、まず、ロマンチックなことを考える己というものに耐え切れない。
そんなものを読む己も、考える自分も、恥ずかしくてたまらないのである……。
まァ、そういう話を差し置いても、実際、私は恋愛小説を面白いと思ったことはない。
要するに男と女がひっつくかどうか、それだけの話であろう。
男も女も山ほどいる、何をそうも深刻そうに悩むものか、とさえ思ってしまう。
とにかく話が小さく、読んでいると設定を詠み終える前に寝てしまいそうになるのだ。
とはいえ、こうも多くの人から「色恋の話を」と言われるのだ。
たぶん、私以外の人には恋愛小説はよほど楽しいものなのであろう、としか言いようもない。
書かなくては許してもらえないようである。
ここは一つ、上手いハンカチの落とし方でもひねり出し、団塊老人が進んでカネを出しそうなモノでも考えてみようかと思う。
次は六月末を脱稿の予定日と決めているわけだが、今回も長編小説、例によってまた三百枚程度、である。
まだ何も出来ていない。
涙が出そうである。
この数年、私は、これも修行である、と心に念じて己の創作には三つの枷をかけてきた。
一つはまず、自分の人生経験を小説化することはしない、というものである。
人間、誰しも生涯に一本は傑作を書くことが出来る、という。
そんなこと、と思うかもしれないが、これはウソではない。
誰しもまともに人生をやっているなら、人格形成の核となる出来事の一つや二つは経験しているものである。
それを真っ当に掘り下げ、それなりの体裁で書き切ることが出来るものなら、それは必ず名作と呼ぶに値するものとなる。
まァ、裏を返せばイマドキのお芸術などは、大半が出来損ないのポルノと女の自分語り
……このブログが炎上しそうである。
止しておこう。
人生を切り売りにすれば、たしかに手軽にいいものが書ける。
しかし、私はまだ修行中の身の上だ。
何本でも、いくらでも書ける、そんな技術を養っている時にやることでもなかろう。
だから私は極力これを控えているのである。
二つ目は、絶対に盗作できないものを書く、コレである。
以前、下読みの方がお作りになったという、とあるホームページには、
新人賞狙いの素人の作品などはゴミ以下である、そんなものを盗作する人間などあるわけもない
といった内容のことが書いてあった。
ところで、この下読み氏は、どうしてわざわざこんなことに言及していたのであろう?
そういえば、プロでもないド素人が趣味で公開したネット小説が盗作され
……このブログが炎上しそうである。
これぐらいにしておこう。
まァ、ともかく。
プロでもない間は気楽に人の意見を聞きながら書いた方がいい。
他人に見せるのに、妙な心配をしなくてはいけないようでは気詰まりでいけない。
だから私はその種の心配をしなくて済むようなものだけを書くことにしているのだ。
さて。
最後の枷なのだが――。
これは私自身、いくらか疑問を感じながらやってきてしまったものである。
実はそろそろ止めようか、と思っていたりもするのだが。
それは、
恋愛モノはやらない
というものである。
新人賞応募作品は七割から八割ぐらいが青春恋愛小説であるらしい。
実際、出版されるモノや受賞作を見ていても、とにかく色恋の話は眩暈がするほど多い。
白血病の美少女だの、熟年男と女子高生の恋だの、私ももう、うんざりである。
聞いたところによると、熟年男性が新人賞に送ってくる作品の、およそ半数ほどが、
今、ハンカチを落としませんでした?
あ、私のです。ありがとう――よろしければお名前を
という調子で恋が芽生えるとか何とか、そんなパターンを忠実にトレースしたものであるらしい。
そういえば、先日、某地下鉄の立て看板で、
最近、ハンカチを落として、それを拾ってもらう間にサイフを盗むスリの手口が流行っています
というのを見かけた。
私は暗澹たる気分になりつつも、薄く笑ってしまった。
まったく、世の中というのは世知辛いというか、馬鹿馬鹿しいというか。
いかに愛に渇き、若い女性とのローマンスを切望する熟年男性の多いことか、それが痛いほど理解される事例である。
……まァ、これぐらいでは炎上はするまい。
だが、何人かの、数少ないこのブログの読者は失ったかもしれない。
それはいい。
ともかく、だ。
いい加減読まされる方も辟易としている頃であろうか、と思うゆえ、私は強いて恋愛を題材に取るのは避けて来た。
ところが、最近、私の小説をお読みになった方々から、以下のごとき意見(苦情)が多数寄せられるようになった。
汗臭いマッチョなおっさんしか出てこない
ムキムキじゃないと思ったら、なんだ、今度は悪ガキとジジイか
女ったって、あんなものはおばはんじゃないか
お前は濡れ場の一つもかけないのか
私の感想は複雑である。
まったく、どいつもこいつも、女、女、女を出せと口煩い。
名画『アラビアのロレンス』に女が出てくるか?
『戦場に架ける橋』のどこに女がいた?
男しか出てこない映画はまずもって名画である、とは、かの淀川長治大先生のお言葉ではないか。
――何がいけない。
かつて、GHQは日本映画の検閲に際し、キスシーンのない映画は片っ端から上映禁止にしていたという。
キスシーンは日本の民主化と男女平等を促進するのに必須だったのだそうだ。
まったくもってイカれた話である。
GHQが去った今、日本国民は愚劣にも占領者に強要されたキスシーンを自ら求めるようになってしまったようである。
まことに憂慮すべきことである、としか言いようもない。
恋愛モノなんぞ、一体何がそんなに面白いというのか。
あんなもの、繁殖における一過程に生じた心的衝動をちまちま書いてあるだけではないか。
その結末はどうだ。
別れるかひっつくか、それしかない。
どうかしたら粘膜をこすり合わせるシーンがあるぐらいではないか。
手前の話で恐縮ではあるが、私などは小学生の頃から恋愛モノなどは馬鹿にしており、隣席の女児から『キャンディキャンディ』を押し付けられた折も、己はいやしくも男児である、かくも惰弱なものが読めると思うか、と叩き返してやったものである。
人間存在をはるかに超えた、より高次な存在に想いを馳せる教養人にとって、恋愛モノなどは退屈至極と言わねばならない。
いいだろうか。
幼少の砌、私が好んで観ていたものとはこういうものだ。
↓
クレクレタコラ 第249話
好みの映画はこんな感じ
↓
東宝怪奇特撮シリーズ 予告編集
……正直に白状することにしよう。
私は恋愛モノが苦手だ。
というか、書けない。
いや、書くこと自体はそうも難しいとは思わない。
だが、まず、ロマンチックなことを考える己というものに耐え切れない。
そんなものを読む己も、考える自分も、恥ずかしくてたまらないのである……。
まァ、そういう話を差し置いても、実際、私は恋愛小説を面白いと思ったことはない。
要するに男と女がひっつくかどうか、それだけの話であろう。
男も女も山ほどいる、何をそうも深刻そうに悩むものか、とさえ思ってしまう。
とにかく話が小さく、読んでいると設定を詠み終える前に寝てしまいそうになるのだ。
とはいえ、こうも多くの人から「色恋の話を」と言われるのだ。
たぶん、私以外の人には恋愛小説はよほど楽しいものなのであろう、としか言いようもない。
書かなくては許してもらえないようである。
ここは一つ、上手いハンカチの落とし方でもひねり出し、団塊老人が進んでカネを出しそうなモノでも考えてみようかと思う。
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