幸福への意志 悩みのひととき


この空無の感じ!

――空無の感じがすべてなんだよ!

腐敗芸術を根絶せよ

2012-05-08 07:27:02 | 血染めの日記帳
いよいよ次の作品を書かねばならない。
次は六月末を脱稿の予定日と決めているわけだが、今回も長編小説、例によってまた三百枚程度、である。
まだ何も出来ていない。
涙が出そうである。

この数年、私は、これも修行である、と心に念じて己の創作には三つの枷をかけてきた。
一つはまず、自分の人生経験を小説化することはしない、というものである。
人間、誰しも生涯に一本は傑作を書くことが出来る、という。
そんなこと、と思うかもしれないが、これはウソではない。
誰しもまともに人生をやっているなら、人格形成の核となる出来事の一つや二つは経験しているものである。
それを真っ当に掘り下げ、それなりの体裁で書き切ることが出来るものなら、それは必ず名作と呼ぶに値するものとなる。
まァ、裏を返せばイマドキのお芸術などは、大半が出来損ないのポルノと女の自分語り
……このブログが炎上しそうである。
止しておこう。
人生を切り売りにすれば、たしかに手軽にいいものが書ける。
しかし、私はまだ修行中の身の上だ。
何本でも、いくらでも書ける、そんな技術を養っている時にやることでもなかろう。
だから私は極力これを控えているのである。


二つ目は、絶対に盗作できないものを書く、コレである。
以前、下読みの方がお作りになったという、とあるホームページには、

新人賞狙いの素人の作品などはゴミ以下である、そんなものを盗作する人間などあるわけもない

といった内容のことが書いてあった。
ところで、この下読み氏は、どうしてわざわざこんなことに言及していたのであろう?
そういえば、プロでもないド素人が趣味で公開したネット小説が盗作され

……このブログが炎上しそうである。
これぐらいにしておこう。

まァ、ともかく。
プロでもない間は気楽に人の意見を聞きながら書いた方がいい。
他人に見せるのに、妙な心配をしなくてはいけないようでは気詰まりでいけない。
だから私はその種の心配をしなくて済むようなものだけを書くことにしているのだ。


さて。
最後の枷なのだが――。
これは私自身、いくらか疑問を感じながらやってきてしまったものである。
実はそろそろ止めようか、と思っていたりもするのだが。
それは、

恋愛モノはやらない

というものである。
新人賞応募作品は七割から八割ぐらいが青春恋愛小説であるらしい。
実際、出版されるモノや受賞作を見ていても、とにかく色恋の話は眩暈がするほど多い。
白血病の美少女だの、熟年男と女子高生の恋だの、私ももう、うんざりである。
聞いたところによると、熟年男性が新人賞に送ってくる作品の、およそ半数ほどが、

今、ハンカチを落としませんでした?
あ、私のです。ありがとう――よろしければお名前を

という調子で恋が芽生えるとか何とか、そんなパターンを忠実にトレースしたものであるらしい。
そういえば、先日、某地下鉄の立て看板で、

最近、ハンカチを落として、それを拾ってもらう間にサイフを盗むスリの手口が流行っています

というのを見かけた。
私は暗澹たる気分になりつつも、薄く笑ってしまった。
まったく、世の中というのは世知辛いというか、馬鹿馬鹿しいというか。
いかに愛に渇き、若い女性とのローマンスを切望する熟年男性の多いことか、それが痛いほど理解される事例である。

……まァ、これぐらいでは炎上はするまい。
だが、何人かの、数少ないこのブログの読者は失ったかもしれない。
それはいい。
ともかく、だ。
いい加減読まされる方も辟易としている頃であろうか、と思うゆえ、私は強いて恋愛を題材に取るのは避けて来た。
ところが、最近、私の小説をお読みになった方々から、以下のごとき意見(苦情)が多数寄せられるようになった。


汗臭いマッチョなおっさんしか出てこない
ムキムキじゃないと思ったら、なんだ、今度は悪ガキとジジイか
女ったって、あんなものはおばはんじゃないか
お前は濡れ場の一つもかけないのか


私の感想は複雑である。
まったく、どいつもこいつも、女、女、女を出せと口煩い。
名画『アラビアのロレンス』に女が出てくるか?
『戦場に架ける橋』のどこに女がいた?
男しか出てこない映画はまずもって名画である、とは、かの淀川長治大先生のお言葉ではないか。
――何がいけない。

かつて、GHQは日本映画の検閲に際し、キスシーンのない映画は片っ端から上映禁止にしていたという。
キスシーンは日本の民主化と男女平等を促進するのに必須だったのだそうだ。
まったくもってイカれた話である。
GHQが去った今、日本国民は愚劣にも占領者に強要されたキスシーンを自ら求めるようになってしまったようである。
まことに憂慮すべきことである、としか言いようもない。

恋愛モノなんぞ、一体何がそんなに面白いというのか。
あんなもの、繁殖における一過程に生じた心的衝動をちまちま書いてあるだけではないか。
その結末はどうだ。
別れるかひっつくか、それしかない。
どうかしたら粘膜をこすり合わせるシーンがあるぐらいではないか。
手前の話で恐縮ではあるが、私などは小学生の頃から恋愛モノなどは馬鹿にしており、隣席の女児から『キャンディキャンディ』を押し付けられた折も、己はいやしくも男児である、かくも惰弱なものが読めると思うか、と叩き返してやったものである。

人間存在をはるかに超えた、より高次な存在に想いを馳せる教養人にとって、恋愛モノなどは退屈至極と言わねばならない。
いいだろうか。
幼少の砌、私が好んで観ていたものとはこういうものだ。


クレクレタコラ 第249話



好みの映画はこんな感じ


東宝怪奇特撮シリーズ 予告編集




……正直に白状することにしよう。
私は恋愛モノが苦手だ。
というか、書けない。
いや、書くこと自体はそうも難しいとは思わない。
だが、まず、ロマンチックなことを考える己というものに耐え切れない。
そんなものを読む己も、考える自分も、恥ずかしくてたまらないのである……。

まァ、そういう話を差し置いても、実際、私は恋愛小説を面白いと思ったことはない。
要するに男と女がひっつくかどうか、それだけの話であろう。
男も女も山ほどいる、何をそうも深刻そうに悩むものか、とさえ思ってしまう。
とにかく話が小さく、読んでいると設定を詠み終える前に寝てしまいそうになるのだ。

とはいえ、こうも多くの人から「色恋の話を」と言われるのだ。
たぶん、私以外の人には恋愛小説はよほど楽しいものなのであろう、としか言いようもない。
書かなくては許してもらえないようである。




ここは一つ、上手いハンカチの落とし方でもひねり出し、団塊老人が進んでカネを出しそうなモノでも考えてみようかと思う。




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栄光と堕落はウラオモテ

2012-04-06 11:05:21 | Dofus
何か悲哀を感じる記事である

欲求不満のショウジョウバエはやけ酒? 米大学研究

======記事全文===========================================

 米カリフォルニア大の研究チームは17日までに、メスに交尾を断られ欲求不満になったオスのショウジョウバエは、アルコールを求めるようになるとの実験結果を明らかにした。AFP通信が伝えた。

 メスに拒絶されたオスの脳内では、神経伝達物質「ニューロペプチドF」が減少。研究チームは、この物質の減少とアルコールへの衝動が関係しているとみている。人間にも同様の神経伝達物質があるという。

==============================================================


ハエの目が赤いのは飲酒のためでない。
ショウジョウバエだからである。
どうせアメリカのことだ。
萎え切ったナニをバイアグラで無理やりおっ立てる連中らしい研究である。
女にふられた心の痛みはニューロペプチドを突っ込めば大丈夫、これぐらいに考えていることだろう。
仮にアル中の画期的な治療薬が開発されることになったとしても、いずれ我々はハエに感謝することになるわけだ。

それにしても切ない記事である。
以前、いささかの縁があった科学者氏のことを思い出してしまった。
何でも、原子や中性子のことを研究しているらしかったが。そのテの話はしたがらないようだったので詳しいことは聞いていない。
わかっているのは、彼が泣く子も黙る超難関進学校、N高出身の自他共に認めるエリートで、かつまたN高においては旧帝大の医学部または法学部に行くのが当たり前であるから、同じ旧帝大でも理学部に収まってしまった彼は落ちこぼれだと、彼自身が思っているということであった。
自然、そうした世界に無縁の私などは落ちこぼれの範疇にも入らないわけで、私に対しては「お前のことなど相手にしていない」との態度を全面に押し出して接してくるという、まことに鼻持ちならないエリート君であった。
エリート君――仮にE君、としておくが、一応、E君は私を好意的に見ているらしく、何かと言えば電話をかけてきたり、私の下宿に来たりしていた。
彼は私と違い、酒もタバコもやらない。
もちろん車もやらないし、博打もやらない。
私の愛するそれらの道楽は愚劣で無価値なものだそうだ。
下宿に来ると私にコーヒーを出させ、延々政治と宇宙の話をしてくれる。
神の話もあったような気がする。
そして、そうした言葉の端々に、世間への恨みと侮蔑が滲んでいた。
それを、落ちこぼれ以下の私に語って聞かせる、というのはいかなる心のありようであったものか。
私は正直、彼の相手をするのが気詰まりで憂鬱であった。


ある日、彼は珍しく私を外へ呼び出し、鴨川の河原でこう告白した。

E:「H美と結婚を前提に付き合いがしたい」
紅:「ああ……H美さんねえ」

この時の私の「ああ」には、様々と複雑なものがこもっていた。
私は半ば冷えた缶コーヒーを一口啜り、その様々なモノを解きほぐしにかかった。
H美さん、というのは私が大層お世話になっている方のお嬢さんである。
E君は私を通じて彼女との面識を得ていたわけだが、E君は私の知らないところで彼女の出入りしている場所を探り当て、さも偶然のような顔で「お近づき」になったらしかった。
E君というのは博士課程を修了して数年にもなるエリート様であるというのに、男女のヒエラルキーにおいては底辺に甘んじており、未だに童貞である。
無趣味な上に政治と宇宙と神様、それだけでもたいがいであるというのに、この男はカネにはことのほかやかましく、吉野家となか卯の牛丼のいずれが勝るか、といったことに酷くこだわるような吝嗇家でもある。 
彼が己の掌の上の十円玉をさも大事そうに、一枚、二枚、と数える様といったらない。
どんな慈悲深い神であっても、こんなチンケな被造物が妄りに己の名を語るのを知れば、きっとソドムとゴモラにやったより酷い仕打ちをしたくなるに決まっている。

そんな男が、お前の恩人のお嬢さんに粘着するから手伝ってくれ、と来た。
H美さんは一目見ただけでそれと知れる深窓のご令嬢、私などは直にお声がかかるのさえ畏れ多く思う美女様である。
そんな女性に恋人の一人や二人、ないはずがない。
仮に何もなかったとしても、それはいずれは然るべき家の方との縁談があるからか何かであって、いずれにせよE君などに手が出せる相手でもない。
相談も何も、E君の恋の先行きは暗澹たるものと決まっていた。
手伝えることなどあるわけがない。
笑いながら聞き流しても構わないのだが、そうなったらそうなったで、E君はきっと相談者が悪かったからだ、と私のせいにするだろう。
さりとて、形の上だけでもE君の恋の良き理解者となり、良き支援者となればどうか。
恩人に申し訳がない。
まかり間違っても、こんな男の友人だ、などと恩人に思われたくない。
私のこの場合、もっとも望ましく正しい返事はこうあるべきだ。

キミなんて、相手にされるわけがないだろう。
止しておきたまえよ。

だが、恋に狂った男にこんな言い方は禁物である。
ただでさえE君のプライドは常人離れしたものなのだ。
研究室から持ち出した毒物を呑まされたり刺されたり、様々な危険が考えられる。
もう少し話を聞いてみることにした。

E:「紅之助氏。キミみたいな人間からでもいい縁ってのは出てくるものなんだねえ」
紅:「まァ、ボクはH美さんとはそんなに親しいわけでもないから、縁というのかどうか」
E:「そらそうやろ。H美がお前なんか相手にするわけもないからな」
紅:「んで、どうすんの」
E:「明日告白する。どうやって口説けばモノになると思うかね」
紅:「……おいおい。告白するぐらいなら、それぐらい自分でわかるだろう」
E:「僕は紅之助氏みたいに俗な遊びはやってないからね。こういうことはお前みたいなやつの方が詳しい」

驚くべきことに、また恐るべきことに、E君には不安の欠片もないようだった。
それどころか、まるで幸福の使者としての栄誉を君に授けてやっても構わない、とでもいうような尊大さである。

紅:「……兵書に曰く、勝兵は勝利の後に戦いを求め、敗兵は戦いの中に勝利を求める、と言うぞ。勝算はあるのか」
E:「ある」
紅:「まだ二人きりで会ったこともないんだろう?」
E:「大丈夫、H美はボクに惚れている」
紅:「……どのように」
E:「昨日、H美はボクの前でミニスカートを履いていた。露出の多い服装は男を意識してのことだ。
   あれは生物のメスとしての求愛行動に違いない」


E君がそれからどうなったか。
H美さんに相手にされなかったのは言うまでもない。
しかし、知的エリート、不可能性を克服する科学者たらんとする彼に「諦め」という言葉は存在しなかった。
失恋の原因について、彼は私にこのように言った。
H美ほどの女を相手にするには、自分の社会的地位が低すぎた。
もっと大物にならなくてはいけない、ということを反省した――、と。
その翌年、彼はとある市の市長選に出馬、最下位で落選した。
たぶん、供託金は二百万円とか何とかだったかと思うが、あれは返って来たのだろうか。、
まァ、あまり書くと様々なことが明るみに出てしまう。
この話は程々にしておこう。
ともかく、私はこの冒頭の記事に出ていた、ショウジョウバエの姿に同情を禁じえないという次第である。


さて。
ドフス公式の告知によると、また修正である。
エカのネコスピが死ぬらしい。
大変複雑な心境である。

私が初めてエカフリップに触れたのは旧ポーカー時代のことである。
当時の私の中でエカは輝いていた。
エカの呪文は不確実なものに満ちていた。
大ダメージを与えるか、引っかき傷にもならないか。
圧勝か自滅か。
敵に対する時、まずは祈りを捧げてルーレットを回す。

どうか、ちょっとでもマシなのが出ますように。
今日はいいことがありますように。

すると、神の霊感が私の上に訪れる。

汝、思い煩うなかれ。
明日のことは明日自身が思い煩うであろう!

そして、私はポーカーのアイコンを静かに押す。
一応、神様を信じたことにして。

よく、コロシウムでも一寸負けたぐらいでぶーぶー文句を言うのがいるだろう。
この敗北には自分たちの中の誰かに責任がある、などとなまじ思うから不快になるのだ。
旧ポーカーの場合、対人で負けたところで、それは神様が悪いのである。
はっきり言うが、負けるだの死ぬだの、そんなことは知ったことでもない。

惨敗?
運が悪かっただけさ。
然り、アァメン!

この無責任な爽快感は他のどのクラスにも存在しないものであった。

今であるから白状するが、ネコスピが強化された時、私は大層憤慨したものである。
私がエカに手を染めたのは、現世的成功――高火力な俺様――を夢見たからではない。
少しでも上手くやりたい。
次の私の振る舞いは将来の自分にどんな結果をもたらすのか?
などといった、細々した損得勘定やセコい自分から解放されるため、俗世への執着を断ち切り、名利を捨ててエカになったのだ。
それなのに、たったAP3であのような大打撃を、しかも確実に与えるネコスピなど!
開発はどこまで私のエカフリップを愚弄すれば気が済むのか?
おまけに、次のターンで外せば大ダメージが自分に降りかかる、というあたりが実に腹立たしい。

お前はリスクが好きなんだろう?
ドキドキしたいだけなんだろう?
危なくしておいてやったから(笑

そんな魂胆がミエミエである。

ネコスピはエカを煩悩の淵に誘う不埒なスキル、これが私の見解であった。
こんなもの、なくなってしまえばいい――。
私はそう思った。
いや、本当に。

そして、私は、この不浄のスキルを穢れた目的のために使うことにしたのだった。
ダイヤ狩りである。
別にダイヤを集めて呪文巻物と交換し、あらゆる呪文をLv6にして、もっと強いキャラクターになりたい、そう願うこと自体は穢れてなんぞいない。
しかし、誰の眼にも意義ある目的、それを誰の眼にも正しいやり方で以って効率的に達成する、というのはエカにとって恥以外の何物でもない。
正しいことをして正しい結果、それに一体何のロマンがあるというのか?
私は次々と増えるダイヤの原石の数を呪わしく数えながら、狩りに夢中になった。

そして、来週の修正である。
ネコスピが斜め1マス、しかも回数制限1回という、理解不能な呪文になり果てるらしい。
もう思うようにダイヤが狩れない。
しかし、私がもっとも忌み嫌ったのは開発の迷走ではない。
ましてや、ゴミ以下になったネコスピでもない。
使える呪文が失われる、それを残念に思う、このエカらしからぬ、堕落し切った己の心である。
私はいつしか、エカではない何者かになっていたようだ。




私のエカ人生は修正を待つまでもなく、すでに終っていたようである。





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三月である

2012-03-03 10:35:47 | Dofus
やっと原稿から釈放された。

よく、こんなことを言うのがいる。
「私、自分の書いた作品って、どれも可愛くって!」
一本書くのに数ヶ月、どうかすると数年、稀には数十年越し、という場合があるのが小説の執筆である。
数百枚の原稿の隅々、描写の文言の一字一句さえ諳んじるほど寝ても覚めても書かされるのである。
いい加減、飽きる。
こんなもの、二度と顔も見たくない、と口走りながら、新人賞に向けて投函する清々しさといったらない。
それに、意図するにせよしないにせよ、小説などというものには必ず書き手の精神的排泄物が混入する。
全部自分のモノだ。
見たくないものほどよく目に付き、嫌でもそれと知れてしまう。
たとえ他人にはわからないことであったとしても、それがかなり恥ずかしい。
人間、自分のすべてを完全に受け入れられるのは死んだ時だけであるという。
生きている癖に自分の作品が可愛くてたまらない、とは一体いかなる心境なのであろう。
私には理解出来ない感覚である。

今回はとにかく大変だった。
去年の年末に書き始め、二月の頭には大体に書き終えて推敲、という日程を組んでいたのだが――。
十二月にまずPCのグラフィックカードが壊れ、続いて次々と蛍光灯やら電気の球が切れ、眼鏡が壊れてPCのモニターもイカれた。
他にも、書斎のアコーディオンカーテンも壊れたし、十数年愛用した目覚まし時計も壊れてしまった。
だいたい、三日おきぐらいに家の中の何かが壊れる、そんな具合であって、その都度半日ぐらいが潰れて執筆どころでもない、という有様であった。
悪いことは重なるものである。
そうする内には電気スタンドが壊れ、レーザープリンターのトナーもお亡くなりになり、ブチ切れながら寺町の電気屋に行くと、通いつけのタニヤマムセンも潰れていた。

ミドリになっていた。
何やらイケメンのアニキが店頭で通行人に気合をかけていた。
その意気やよし。
だが、この種の電気屋に付き物の、980円の電卓だのカードサイズのラジオだの束売りのホカロンだの、無駄な物欲と冒険心を鼓舞するワゴンセールがないではないか。
それだけではない。
こんなもの、ワゴンで一山だろう、と思うような中国製品が美的にレイアウトされているのだ!

胸騒ぎを抑えつつ、まずは照明のフロアに行き電気スタンドを見た。
無段階に光度を変えられるとか紫色に光るとかリモコンがついているとか小さくて邪魔にならないとか。
そんなものしか置いてない。
実に下らない。
私が欲しいのは、設計技師や受験生が使うような、機能的なそれである。
なんだ、ゴミしか仕入れないのか、この店は、と悪態を吐きながらPCのフロアへ移動する。
ずらりとレーザープリンターが並んでいるが、トナーがない。
トナーはないのか、と訊くと、養殖ハマチみたいな店員が至極面倒臭そうに、

「お日にちをいただいてもいいのでしたら、お取り寄せは出来ますけど?」

などと言う。
レーザープリンターを何だと思っているのか。
ちょっとした印字しかしないなら、こんなものは買わない。
山ほど刷るからレーザーなのだ。
トナーなど、すぐになくなるものであろう。
プリンターを売る癖にトナーを置かぬとは何たることか。
しかも、客が店頭まで来るのは、すでに無くなっていて、すぐに入手したいからだ。
「お日にち」をかけても大丈夫なら、とっくの昔に通販で注文しているに決まっている。
なんという堕落ぶりか。

ミドリよ、私のタニヤマムセンを返せ。
私はあの、チープな店内BGMのサンバのリズムをもう一度聴きたい。

結局、京都の電気屋街であったはずの寺町で、私はトナーを買うことが出来なかった。
憂慮すべきことである。
ヨドバシカメラがあるではないか、と慰めてくださる方もあるが、京都駅の周辺は、それはそれは辺鄙なところだ。
トナーを買いに出て、ついでにフラフラ立ち寄るところがない。
あそこにあるものと言えば伊勢丹と京都タワーぐらいではなかろうか。

京都タワーのマスコット「たわわちゃん」



女の子であるらしい。
映像の途中でマイクが拾う、観衆の女児のコメントがとても素晴らしい。
それにしても

「たわわちゃん」

淫靡なネーミングである。
これが名前だけでなく実際にもたわわちゃんであるなら、私は用事がなくともヨドバシカメラ


……やはり疲れている。
私はさっきから何の話をしているのだろうか?


とまれ、今年の十二月は何でも片っ端から潰れ、何も出来なかった――と、こんな調子で大晦日を迎え、気がついたらおせち料理を買い損ねてそのまま一月に突入、前にも書いたとおり、私は正月をおでんだけで過ごす羽目になった。
栄養不足が祟ったのか、それとも執筆直後の故障地獄で疲れが出たのか、年始早々に風邪をひき、一月の中旬ぐらいまで寝込んでしまった。
もちろんのことだが、執筆どころでもない。
風邪も治り、やれやれ、遅れを取り戻そうか、と執筆を始めたのが1月下旬、残り時間はこの時点で一ヶ月と十日ほど、それで私は二百五十枚の原稿を書かねばならなかった。

一ヶ月ちょっとで二百五十枚。
細かい話はもう思い出したくもない。
プロットで十日かかり、冒頭五十枚で一週間が潰れ、そこから二百枚。
書き辛いところで詰まるなどしながら推敲も含めて二週間である。
締め切りの前の三日間は身体を横にする余裕もなかった。
PCの前で座ったままつぶれて二時間、三時間眠るだけである。
因みに、主たるエネルギー源はおでんとアルコール燃料であった。



冗談抜きで死ぬかと思った。
もう何もしたくない。
何も考えたくない。
すっかり放心状態である。
ドフスで穀物パンを二万個も焼いてしまった。←ココがドフスの記事







早く人間になりたい。
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ビーフシチュー「風」 男の豆のスープ

2012-02-12 09:56:23 | 食い物とか
毎日パンパーニッケルをやっているわけだが、冬の朝にサンドイッチだけの朝食は辛い。
やはり、喉が焼けるような熱いスープが欲しい。
ドイツ音楽にも似た重厚なパンパーニッケルに相応しい、雄渾なスープを作ることにした。



【材料】 8人前 

男らしい赤身の牛肉      400〜600g
デカい玉ネギ        一個
大地を貫くニンジン      中一本
マッシュルーム        適当
豆              乾燥状態で200g
血のように赤いホールトマト缶 400g
 
レッドペッパー        男らしく
マスタード          男らしく
ローレル           男らしく
赤唐辛子           男らしく

コンソメスープの素      程々
水              1300cc
塩              適当
ニンニク           一かけら


牛肉は何でもいい。
使う豆もだいたいいけそうなら何でも良かろう。
スパイスもそうだ。
好きなだけブチ込めばいい。
些細なことには気にしないものだ。



【製法】

1、牛肉をブツ切りにし、塩コショウで下味をつける
2、タマネギ、ニンジンをそれらしく切る
3、牛肉を油で炒め、鍋に放り込む
4、タマネギ、ニンジンも炒めて投げ込む
5、水洗いした豆をぶち込む
6、水1300ccを鍋に投下、強火で煮立たせ、スープの素、スパイス、マッシュルームを叩き込む
7、再沸騰後、弱火で15分
8、ホールトマトを握り潰してぶち込む。10分
9、嫌ったらしい色になったら、フライパンに油を熱し煙が出たら、スパイスが弾け飛ぶまで炒め、油ごと鍋に流し込む。
10、かき混ぜて出来上がり







情熱的なスープが出来た。
水が飲みたい。
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間違いだらけの車選び

2012-02-02 03:37:18 | 乗り物のお話
先日、おいしくないです、と宣伝されていた、ドイツのパンが存外旨かった、思わず買い占めた、という記事を書いたかに思う。
自慢ではないが、今、私はジーンズが下がって下がって仕方がない。
朝食は甘い物だらけ、執筆の合間にはチョコレートなどを齧り、運動もろくにしないに関わらず、である。
世の中には不思議なこともあるものだ。

というか、不思議なのはパンパーニッケルである。
よもやまた入荷してはいるまいか、と件の輸入食品店を覗いてみると、何と山積みであった。
店頭在庫は確かに尽きたはずである。
なぜなら、私が「もっとないのか」と店長を尋問し、「これだけです。いつ入るかもわかりませんし、入荷するかどうかも……」との返答を得ていたからである。
二週間と経たず、買い占める前よりも多くの商品が棚に並んだ。
さらに驚いたのは、宣伝の文句が入れ替わっていたことである。

今書いただろう、と思える、黒々としたマジックで、相変わらずのテカテカ白紙にこうあった。


テレビで「脚光」
美容と健康にいいドイツのパン



もう不味くないらしい。
いや、そんなわけはない。
中味はまったく同じだ。
要するに、これを書いた奴の頭の中はこうだ。
あれだけ大量に買った客があるからは、たぶん、喰えるのだろう。
それにしても、そんなに旨いものではない。
とすると、どこかでテレビで取り上げられたのだろう。
というぐらいな了見で適当に書き直したのであろう。
絶品だの、伝統の味だの書かないあたり、若干の自信のなさが垣間見える。
私は性格が悪いのだろうか。
この宣伝文句を見て、いささか不機嫌になった。
商売屋は目ざといやつらだが、商品に対する愛は無い。
しかも、私があれだけ大量に購入したに関わらず、これぐらいの感慨しかなかったのだ。
赤い波線もない。
一体、どれだけ買ってやればいいというのか。

今、巷で話題騒然!
伝統の味、本場ドイツの味
是非皆様も一度お試し下さい!!


と書かせる日はまだ遠い。




これまでの記事をお読みになった方々は、この道楽者めが、とお思いのことかと思う。
ヒマさえあれば愛車とやらを乗り回し、女の前でカッコよく運転席から降りるなどしているのだろう、と。
だが、それは間違いである。

近頃の私にとって、自動車趣味は言うなれば身体の生命活動に同じである。
今日はここに来るまでに2000回も呼吸をしてしまったよ、とか、すばらしいよ、爪が伸びたんだ、とか、君はボクの細胞分裂に興味があるかい? などと他人に話かけたりするだろうか。
それと同じことである。
どうかすると自動車趣味というものがあることをすっかり忘れていて、国産の新型RVの話などはまるで聞き流してしまう。
あまりに当然すぎるほど当然で、話題にする気にもならないのである。
本当に車の話を人前でしなくなった。

そして、私は車に乗らない。
乗ったら傷むからだ。
人前に車で姿を現すこともない。
知人の中には車を持っているとは知らない人もある。
何かの拍子に目撃されたり、車の話になってしまったりして、

「え? そんなに好きだったんですか?」

と相手が驚くこともしばしば、である。


乗らない車を所有しているなんて、意味が無いではないか、そう思う方もあるかに思う。

少女時代の若尾文子の写真を大事に隠し持っているのがそんなにいけないことだろうか?

若尾文子は綺麗だ。
あの首筋を見るがいい。
神の曲線だ。
冗談一つ満足に言えず、何かと電話をして来いだの寿司を食わせろだの、そんな女を飼うぐらいなら私は一枚のブロマイドを選ぶ。


若尾文子の維持費も格安である。
壊さないから修理もないし、給油は一年で五回ぐらいしかしない。
洗車に至っては年に一回やるかどうかだ。
この車を入手して10年が過ぎたが、ボディの色に会わせて購入した天然素材のワックスが未だに新品同然で残っており、あと百年かかっても使い切るのは無理であろう。
ホイールを麺棒で手入れするとか、カーシャンプーがどうのこうのとか、いろいろあるらしいが、そんなものとは無縁である。
雨が降る日は決して乗らない。
降った翌日も出かけない。
曇っていたら出かけない。
汚れるわけがない。

調子を崩さない程度にしか乗らないため、大して消耗もしないし故障もほとんどない。
あったとしても、あまりに使わないワイパーの電気回路がボケて動かなくなったとか、振動でリア・ハッチの金具が十年かかってズレてきて、非常に閉まりにくくなった、というほどの話である。
だいたい、修理屋さんに持っていけば、笑いながらちょいちょいと直してくれ、コーヒーをご馳走になって帰って来るだけ。
いつもいつもタダでコーヒーばかりご馳走になるのはいかにも心苦しく、時折饅頭などを持参でやっぱりコーヒーをご馳走になりに行くぐらいなものである。
饅頭代を考慮に入れても同格の排気量の国産よりさらに安い。
若尾文子の写真がフランス料理を強請らないのと同じことである。



私が存外車好きだと知るや、こんなことを尋ねる人が結構ある。

Q、どんな車に乗ったら女の子にモテますか

深遠にして根源的な質問である。
一筋縄では答えが出せない。

相手の懐具合、彼の所属する階級、狙う女の程度にもよるかとは思うが、大抵の場合、彼らの欲する返事は決まっている。
彼がカッコいいと思う車、しかも、それならタマのデカさを見せ付けられると確信するに足る車、そんなものを慮って答えておけばよい。
一つだけ注意事項があるとすれば、相手の予想する範囲、買えなくもない範囲にある車、それでいて普通は思いつかない車、を適当に答えなくてはならない、ということか。
つまり、彼は自分の本当の価値、男としての未開拓な可能性――己の人生における宝くじの当選確率を知りたいのである。
従って、高ければ高いほど良いのだが、実現不可能となるとそれはそれで相手を怒らせてしまう。
ブリストルやゾンダなどはご法度である。

しかし、どうであろう。
女が喜ぶ車などというものがこの世にあるのかどうか。

私の狭い経験からすると、スーパーカーは大抵嫌がられる。

暑い、狭い、臭い、やかましい。
痛い、しんどい。
高いサイドシルを跨がないと乗れもしない。
ミニスカートなら中身が丸見えになる。
前も後ろも見えない。
どうかすると左右も見えない。
助手席でおちおち化粧も出来ない。

車高が低いのも考え物である。
一度、女連れの真紅のテスタロッサがファミレスに入って来るを見たことがある。
道路との段差で引っかかり、5リットルV12の爆音を撒き散らしながらホイールスピン、前に行ったり後ろに下がったり、なかなか大変そうであった。
想像してみて欲しい。
羨望と嫉妬の的が安レストランの駐車場でもがいているのだ。
巨匠エンツォ・フェラーリの手になるスーパーカーも、もはやただの赤いカメムシである。
黒山の人だかりであった。
先ごろは東京のド真ん中でミウラが全焼したらしいが、女どもはああいう目立ち方を好むものだろうか。


車に詳しいらしい女の口から、得意げにこんな言い方が出るのを聞いたこともある。

「私、BMWって嫌なんですょ。乗り心地が軽いっていうかね。やっぱりベンツかなァ」

乗り心地、というなら、なんで競馬中継で有名なシトロエンの名が出ない。
ロールスだって重くていい。
ベンツなどよりいいのはいくらもあると思うが。
女とは概してこの程度である。
連中が見ているのはブランド価値と乗り心地、中が広いかどうかといったことや、見た目がかわいいかどうか、といったことぐらいではなかろうか。
そんなものを相手に一々車のことを思い悩むのはどうかと思う。


小太りのブランドアニキの乗るベンツと、トム・クルーズの駆るスバル・サンバーと。
女が助手席に乗り込むのはいずれであるか。
もはや多くは語るまい。

もちろん、本当に車が好きな女もいるにはいる。
だが、それは車に無関心な女よりさらに性質が悪い。
そんな女を相手にランボルギーニ・ガヤルドなんぞを見せ付けたらどうなるか?

「なんでアヴェンタドールじゃないの?」
「私、AMGのブラックが欲しいの、でも頭金がないのよね。ねえ、私のこと、愛してる?」
「人生を思い切り楽しめない男の人ってどうかな……。もっといいのがあるじゃん。ブガッティ・ヴェイロンとか」

などと言われてしまうに違いない。
たぶん、マニヤの妄想と好奇心のために身を滅ぼすことだろう。


もし、その女が私と寸分違わないような女なら、

そこまで出すなら60年代車にすべきだったな。
値段は半分以下で音はもっといい。
初めから中古だから相場は上がっても下がることもない。
まあいいだろう。
他人の車と思えば気楽なものだ、ちょいちょいタダで乗ってやろう。
だが、こいつとサイフを共有するなんてありえない。


結婚?
ないね。


と思うだけのことだ。

女に車、どう考えても割に合わない。



女のことを考えないなら、いい車は星の数ほどあると言わねばならない。
どういう車を買えばいいか、そんな質問を私などにする人間は、間違いなく自動車童貞であろう。
真面目に勧めるとしたら、一体どんなものがいいかを少し考えてみた。

いろんな車の名前が思い浮かぶ。
だが、これはフランスのゲーム、ドフスに興じる人間のブログである。
やはりおススメはこれだろう。

フランスが世界に誇るブリキ缶傑作 シトロエン2CV


フランス車の紹介が何故かドイツ語である。
それにしても、なんだってこんな哀しげなアッコーディオンなのか?
まァ、それはいいだろう。



Q,ガイシャは壊れるんでしょ?

ちょっと考えてみよう。
絶対に壊れない機械なんてあるのだろうか。
風邪をひかない犬はいるか?
死なない人間はあるものか?

機械であるからにはもちろん壊れる。
かすり傷なのか骨折なのか、傍目にはまともそうでも頭の奥の方が少し深刻であるとか、程度はともかくとして、人間でもいろんな壊れ方をするように、車も複雑怪奇な壊れ方をするものだ。
だが、ここでもっとも重要なのは、壊れないかどうか、ではなく、壊れたらどうなるか、ではなかろうか。

巷で壊れない、と信じられている(すでに過去形かもしれないが)日本車だが、たしかにあれは壊れないには壊れない。
スイッチが潰れたり、ルームミラーが落ちてきたり、そういう話とは無縁であろう。
ただ、一旦壊れるとどうなるか?
まず、壊れることを一切前提していない車であるため、何事もそのようにしか出来ていない。
たとえばオーバーヒートである。
昔の車は「ヒートすることもある」という前提で出来ており、ラジエーターの水が無いとか何とか言っても、完全にヒートするまでには少し対処する時間があったりした。
今はそうではない。
センサー異常であるとか、ちょっとしたことで冷却系が機能しなくなると、今の車は即お亡くなりになる。
設計にまったく余裕をもたせていないのだ。
また、今の車は非常に複雑、ハイテク満載で出来ている。
冗談抜きで、2cvがミドリムシなら、今のGTRなどはサイボーグ並みである。
その修理は素人はおろか、専門教育を受けた整備士の手にさえ余る。
壊れたらどうするか?
壊れたと思しき部分を丸ごとメーカーから取り寄せ、組み付けるだけである。
あまりに高度であるため、丸ごと交換するしかないのである。
もちろん、部品代は客払いである。
一体どういう高級車を修理したのか、と首を傾げるような請求書が届くが、まァ、そうあることでもないから気にする人もそう多くない。
だが、これは本当の話である。


その点、2cvは安心である。
ご覧の通り、何もついていない。
壊れようにも、ついていないものは壊れようもないのである。
稀々、スピードメーターが動かなくなるとか、どうもエンジンがかからないとか、そんな故障があるかもしれない。
だが心配はない。
その気があれば誰にでも直せる。
おススメはしないが、素人にでも。
いや、冗談抜きで。
バイクを自分で直す人がよくあるだろう。
きっとあれに毛が生えたぐらいの話なのだ。

部品代は――。
これはドケチのフランス人が60年以上も愛用した大衆車の傑作だ、ということをお忘れなく。


ところで動画をよくご覧いただきたい。
天井はバックリと後ろまで開く。
空き缶並みにチープな大衆車の癖に、だ。
そして、この映像では分かり辛いが、左右のシートはぴったりと引っ付けてレイアウトしてある。
肩を寄せ合うようにして乗る格好だ。
手を伸ばせばシフトレバーほどのところに助手席の乗員の太ももがある。
そういえば、シフトレバーも酷く湾曲して手元まで延びており、左右の移動の邪魔にならない。

一体、何に使う車なのだろうか?


いろいろと楽しそうではある。




少し断っておくと、初心者、自動車童貞におススメ、とは書いたが、自動車はスポーツ用品やテレビゲームとはわけが違う。
これは特に自動車がそうなのだが、単純なものほど肌感覚に訴えるものがあり、その泥沼は果てしなく深い。





シトロエン・メアリ。
他人に勧める、それ以前に私が欲しい。

私の記憶に間違いがなければ、これはたしか2cvをベースにした遊び車ではなかったか。
まァ、違っていても、そう大差はあるまい。
これも2cv同様、気楽な車である。
気楽でないのは暑くて寒いこと、家族の送り迎えに使うと批難が集中することぐらいである。
気楽じゃないって?
暑さ寒さは諦めるとして、個人の自由や人権を盾に押し切るのも一つ、微笑みながら言うだけ言わせておき、そのまま乗ってやるのも一つ、あるいは、私のように、京マチ子でもグレタ・ガルボでもなんでもいい、要は3Dのブロマイドだとでも割り切ってしまい、車庫に隠しておくのも一つである。
燃料代もメンテ代も格安、維持費はきっと日本車の軽自動車以下であろう。
それでこの楽しさが手に入る。
何より、オシャレだ。
旧いのに古くない。
女の子にウケること間違いない。
天気の良い、春と秋の日だけだが。

「でも、壊れるんじゃない?」

そんな質問が助手席から来たら、こう答えておくといい。

「まあね。でも、自分で直すから。こういうの、嫌いじゃないんだ」

女の子は、きっとあなたの隣にいつでも乗ってくれることだろう。
なんて頼りになる、手先の器用な、安上がりな男だろうか、と。


悪くない話と思うが、いかがなものであろう。




因みに私は2cvに乗っているわけではないが、その種の問いにはこう答えている。

「状態の良い車体を規定通りに運用し、完全に修理しておれば車などは滅多と壊れるものではない」

大抵、相手はそこで沈黙する。

別に良いのだ。
一人で走っていても私は十分愉しいから。
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