アロマとハーブ、金継ぎセラピスト in シドニー ★オーストラリア移住★

アロマ、ハーブ、リフレクソロジーの教室
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金継ぎ教室

父と過ごした3週間、何度もリフレをしてあげました

2012-04-19 11:50:43 | アロマ、ハーブ、リフレクソロジー

昨年の12月から、ブログがストップしていました。

私の最愛の父が1月3日に永眠しました。

あまりにも、突然の事過ぎて、頭では理解していても、気持ちが付いていきません。

 

今から10年ほど前までは、1年のうち、半分をこちらで過ごしていた父と母。

3ヶ月の観光ビザで、ギリギリ滞在し、日本で又3ヶ月滞在し、こちらに来る。

そんな生活は、随分続いたと思います。

でも、年を取るに従い、その後は、1年に1回の2-3ヶ月の滞在に変わり、

この数年は、1年に1回、1ヶ月の滞在になっていました。

来ても、2人でどこにでも行けるので、私はずっと仕事に専念。

家の片付けやワンちゃんの世話などを専らしてくれてました。

家政婦さん、と自分達で言ってました。

 

両親の滞在が短くなった分、今は私が、仕事とホリデーと兼ねて、日本には年2回、里帰りしています。

昨年は、5月と10月。

5月は、京都、神戸、広島に行きました。

京都では大原まで足を伸ばし、神戸ではハーブ園にも行き、

広島では父が戦争中に一時期過ごした江田島を、遠目からではありますが、もう一度見せてあげられました。

10月には、両親が、Disney Seaに行きたい、というので、日帰りでも行かれる場所なのですが、

せっかくなので2泊しながら、思いっきり楽しみ、ジェットコースター並みのアトラクションで遊んで来ました。

(12-3年前に、USのDisneyに行った時は、Disneyとお隣のCalifornia Adventureでは、3日間で計47のアトラクションに参加)

 

そんな父が、12月初旬に、突然、しゃがれ声になり、みるみる間に喉の横が腫れ、緊急入院。

喉に息を吸うための穴を開け闘病生活になりましたが、異変を感じてからその喉の切開手術まで、約10日の出来事です。

 

私は、12月15日から日本に緊急帰国し(入院が12日、喉の切開手術が13日)、毎日お見舞いに行きました。

と言っても、何も食べられないので、食事などの世話は出来ません。

トイレには自分で歩いて行くと言うので、付いて行ってあげるくらい。

疲れてもいけないので、毎日3時間ほど、母と、片道1時間かかる病院への道を、通いました。

 

自然療法を推奨している私は、勿論、薬にはあまり頼りたくありません。

しかし、甲状腺の未分化癌という、手術をしても3日で元通りになってしまう程の癌細胞の力には、やはり薬しかありません。

中には1週間で亡くなる人がいる、とも主治医の先生から告げられました。

このような場合は、安らかに最期を迎えてもらえるようにするのが、父にとって一番の事です。

 

今までの人生で、痛い、と父から聞いた事が無かった私。 その父が痛い、痛い、と私に訴えます。

いつも良く寝て、不眠症などとは無縁だった父が、看護師さんに睡眠薬の投与を頼んで欲しいと訴えます。

やはり、こういう時、父の頼みを聞いてあげられるのは、薬なのですね。

 

しかし、私の役割も、勿論ありました。

手足が冷たくなるので、ずっと暖めてあげました。

リフレをしていて、本当に良かった。 両手でしっかりと、暖めてあげました。

プロがするんだから、高いよー、と笑いながら言うと、ニコニコしながら頭下げてました。

手のリフレマッサージをすると、温かくなった方の手を引っ込め、違う手を父自ら、差し出してくれます。

父は、本当に嬉しかったのだと思います。

 

そして、先生がいないときにパニックになった時は、フラワーエッセンスを、口に含ませました。

何も食べれない、飲めない、でも、ほんの少し、舌を湿らせました。

私も、父も、少し落ち着きました。

 

そして、父が亡くなるまでの3週間、父と毎日顔を合わせ、筆談をして、最期の時を過ごしました。

 

1人っ子の私に、私がする事はいつも、応援してくれた父。

その頃、英文タイピストで仕事が忙しかった母に代わり、遠足などのお弁当は父が作ってくれました。

まん丸の、大きなおにぎりでした。

通気性が良いように、と、その頃やっと出回ってきたアルミフォイル等を使わず、新聞紙で巻いてくれました。

結構、恥ずかしかったです、、、

そして、父とは良く、パン作りをしました。

工作も大好きでした。 算数も大好きでした。 小学校の時は図工と、家庭科と、算数は成績表は5でした。

それは全て、父から譲り受けたものです。

 

中学生の時に、野球が大好きになった私に、スコアブックの書き方を教えてくれました。

そして、高校で私は、野球部のマネージャーになりました。

勉強はあまり趣味とせず、、、野球命の人生まっしぐらでした。

 

短大受験の時、私が第一志望の受験に落ちると、父は自ら、この学校は今から試験があるよ、

と、他の学校の資料を請求するようにしてくれました。

そして、私はそこに受かり、ドレスメーキングを学ぶ短大生になりました。

この技術は、シドニーに来てからも重宝しました。

パーティがある時、自分で作ったドレスで3回ほど出席しました。

 

OLになってからも、会社の後輩達が遊びに来るたび、一緒に話の輪に入っていました。

後輩も同僚も、皆、私の家に遊びに来るのが大好きでした。

お喋り好きの母と、いつもニコニコ聞いている父、そして、お茶を飲みケーキを食べる、

その買出しは全て父がしてくれていました。

 

そして、私の彼とも、ニコニコしながら話をし、飲んでいた父。

娘を1人しか持たなかった父、きっと息子のように感じていたのでしょう。

そして、その彼と結婚してシドニーに行きたい、と言った時も、何も反対しなかった父。

父の若い時の話を、主人が良くしてくれます。 色々な話をしていたみたいです。

私の知らなかった話も多く、不思議な気分で、主人から父の話を聞きます。

 

私と母の親子喧嘩には、いつも、真ん中で仲裁をし、困っていた父。

そして、最後には、私と母が仲良くなり、父抜きで買い物に行くのを、ニコニコしながら見守っていた父。

 

そんな事を、父の病床の傍らで思い出しながら、

本当に、本当に、ありがとう、と言って、父とお別れをしました。

父の遺影は、神戸のハーブ園で撮ったものです。

私と母と3人で撮った写真で、カメラマンは主人です。

一番良い顔で写ってます。

 

 

書いていたら、こんなに長くなっちゃいました。

涙もまだまだ溢れてきます。

父が、私がする事を応援してくれるのは、これからもずっと変わらない。

だから、頑張らなくては。