「石庭の極意」~古今拾遺物語より~ 作 大山哲生
頃は足利将軍の御代、京の都は大変栄えていました。
都の西のはずれで、お寺の造営が進められていました。庭を造る段になって造園を任された光二は頭を抱えていました。
管領細川頼之からは禅宗の教えを表現するような庭にせよと言われていたのですが、岩の配置が決まらないのです。
白い玉砂利をしいてその上に岩を配置するのですが、こちらにおけばあちらにもおかないとなんとなく偏りがでる気がするし、あちらにおけばこちらにもといろいろとおいてしまうと、庭が岩だらけになってしまうのです。
光二は、毎日で弟子たちに岩をおいたり除かせたりさせていましたが、どうしても決断ができないのでした。
ある日、細川頼之がこの庭を訪れて、「光二、庭はまだできぬのか」と聞きました。
「殿、申し訳ござらんが、今しばらく時間をいただきとう存ずる」
「光二、急げ。あと十日じゃ。十日で仕上げよ」と頼之は命令しました。
それから毎日岩の配置を考えましたが、結局所狭しと百個近くの岩を並べては悩んでいたのでした。
ある日、若い禅僧がこの寺を訪れました。
「庭石の配置に苦心されているようですな」その僧はいいました。
「そうなんです。どのように石を配置すればいいのかなかなか決断がつかんのです」
「それなら、今日はこの寺に泊めていただいて、明日の朝に石をどのように置けばいいかを伝授してしんぜましょう」と僧はいいました。
明くる朝、「今から私のいうところに石を置きなさい」と僧が言います。
光二は「わかりました」と言われるまま石をおいていきました。石を五つ置いたところで、その僧は「これでしまいじゃ」と言いました。「えっ、これで終わりですか。あちらにもこちらにも隙間があるのに」
「いや、これでよいのです。これこそ、禅の教えそのものなのです」と笑いながらその僧がいいました。
光二は、そう言われるとなんだかそうなのかと思えてくるのでした。
「では、これでさらばじゃ」と僧は出て行こうとします。
光二は慌てて聞きました。「教えてくだされ。あの石の配置はどのようにして決められたのかを」
するとその僧は涼しい顔で「なあに、鳥の糞が落ちてたところに石を置いたまで。さらばじゃ」と言います。
「では、禅の教えは」と光二は聞きました。
「禅の教えなど元々どこにもない」
「でも、禅の教えというものがあるように聞いておりますが」
「そうですな。強いて言えば光二殿、あなた自身が禅の教えなのですよ。庭なんかどうでもよいのです」そう言うと僧は寺を去って行きました。
光二は、禅の教えとはそういうものかと感心してしまいました。
十日後、広い砂利庭に石がたった五つという庭は、細川頼之に披露されました。
頼之はうなりました。「でかした光二。なかなか味わいのある庭じゃ」
光二は、あの若い僧のことを頼之に言いました。
それを聞いた細川頼之はにやりと笑うと「そやつは杖をついておったろうが」
「さようでございます」と光二は答えました。
「うわっはっは、あの坊主ならこれくらいのことはするじゃろうのう」と頼之は言いました。
そう、あの若い僧こそ、一休宗純の師となった像外集鑑なのでした。
その後、この寺は応仁の乱ですっかり焼けてしまったということです。