二階堂校長の事件簿 エピソード10
「六人目の走者」 作 大山哲生
私は二階堂晴久。花散里中学校の校長である。
いよいよ明日は本校の体育大会である。教頭以下全職員がグランドや体育倉庫にちらばり、生徒を指導しながら準備に大忙しである。職員室にいるのは、事務の女性職員と私だけである。
それでも段取りがよかったのか、5時前には、ほとんどの職員が職員室に戻ってきた。
教頭が校長室をのぞいて「準備は無事におわりました」と言う。私は「ごくろうさんでした」とねぎらった。
翌日、天気はなんとかもちそうであった。体育大会当日は校長大忙しとなる。開会のあいさつのあと、地域から来賓としてきていただいた人たちに一人ずつあいさつをして回る。競技が始まるとテントの一番前で進行を見る。
午前10時20分過ぎのことであった。女子100メートル走が行われていた。本校は各学年とも5クラスずつであるから、5人ずつ100メートルを走る。保護者席がざわざわし始めると同時に、教員の何人かも騒ぎ出した。
私は、近くにいた岸田教諭に何が起こったのか尋ねた。
「今、100メートル競走の2年生の最後の走者をカメラで撮ったのですが、5人しか走っていないはずなのに6人写っていたんです。おそらく保護者もそのことで騒いだのだと思います」ということであった。
午後3時には閉会式を終わり、4時半には片付けもすべて完了した。
私は問題の写真のデータを職員から借りて、校長室のパソコンで見てみた。
写真は、5人の女子が体を傾けてカーブを曲がろうとするところであったが、よく見ると後ろの方にもう一人相当ぼやけてはいるが確かに女子が写っている。本校のジャージは紫色であるが、その子は紺のショートパンツのように見えた。パソコンを操作し、写真を拡大したが、私の知らない顔であった。
紺のショートパンツは本校開校後30年あまり使用されていた体操服であるが現在は使われていない。
服装から考えると本校の卒業生だと思われたが、名前がわからない。
それ以上考えることに疲れてテレビのスイッチを入れると、あわただしく何かを報道していた。
『航空機墜落 死者多数』
テレビで死亡した人の名前を写真入りで放送していたが、「・・・飯山道江58歳・・・」それはまさしく今写真でみた女性の顔であった。
えっ。
さらにアナウンサーが繰り返す。
「事故は日本時間本日午前10時25分・・・」
早速卒業台帳で調べてみると、昭和45年の卒業である。沿革史にも特段かわった記事はない。
当時の卒業文集をひもとくと、こう書かれていた。
『 「私の希望」 三年三組 飯山道江
・・・・私は体が弱かったので体育大会は三年間見学でした。一度でいいから、あのトラックを思い切り走ってみたかったです。・・・死ぬ前に必ず花散里中学校のトラックを走ります。 』
彼女は死ぬ5分前に希望通り母校のトラックを駆け抜けたのであった。