第40回京都旅歩き ラストミッション
「石清水八幡宮の思い出」 作 大山哲生
テレビをみていたとき、あるニュースに目が釘付けになった。
それは、京都の石清水八幡宮の本殿などが国宝に指定されたというものであった。
次の日は朝から少し頭が重かったが、昼頃には気分もよくなってきたので、久しぶりに石清水八幡宮に行ってみようと思い立った。
京阪の駅から歩いて往復するのは少しおっくうなので、行きはケーブルカーで登って、帰りは橋本駅まで歩くことにした。
京阪八幡駅に降り立つのは久しぶりであった。ケーブルカーで登ってしばらく歩くと石清水八幡宮の参道に出る。
境内を歩き回っていると、図らずも懐かしいという感情がわいてきた。
私は、今から二十五年前に石清水八幡宮の近くに住んでいた。
日曜日には、家から歩いて住宅地を抜け、裏道から男山をのぼり石清水八幡宮に詣でたものであった。
若かったこともあり、往復三時間を長いとも思わなかったし疲れることもなかった。
そう、二十五年前と言えば森谷中学で生徒指導に明け暮れフォークソングクラブの顧問をしていたころだ。家では、高校生の息子が勉強らしきことをし家内は子どもの世話に忙しい日々を送っていた。
そういうことを思い出しながら、本殿を見てまわった。
本殿などが国宝に指定されたと思って見ると、なんだか以前見たときよりすばらしく見えて自分でもおかしかった。
午後三時を過ぎた頃、石清水八幡宮の裏道から帰ろうと木々の生い茂ったところにかかると、上下グレーの服を着た中学生らしき男の子が石段に腰掛けてうつむいている。
それはよくみると私が二十五年前に勤務していた森谷中学校の制服であった。しかも、そこにいたのはフォークソング部の部員と思われた。
「樫村直樹君、か」と私が声をかけると、
「あ、先生、やっとコンサートが終わりました。ほっとしました」と八重歯をのぞかせながら樫村は言った。
「え、コンサートって、いつの」
「先生、文化祭のコンサートですよ。ぼくは中三だから最後のコンサートで、今日までずうっと練習してきたんですよ」
「えっ、二十五年間も練習していたのかい」
「だって、先生はいつも練習はいっぱいしろと言ってたじゃないですか。だから、ぼくはがんばったんです」
「確かに練習は大事だって言ってたけれど」
「先生、どうして最後のコンサートを見に来てくれなかったんですか。中学最後の文化祭だったのに」
「ごめん、樫村が今まで練習してたなんて全然知らなかったし、コンサートがあるのも知らなかったんだ」
「でも、先生の言うとおり一生懸命練習したから文化祭では間違わずに演奏できました。もう思い残すことはありません」
そういうと、樫村は立ち上がり、
「それでは、ぼくは先に行きます。また会える日を楽しみにしています。さようなら」
と言ってさっさと歩いて行ってしまった。山道を折れたところで樫村の姿は見えなくなった。「お、おい樫村」と呼びながら私は後を追いかけて山道を折れたが誰もいない。
私は頭の中である計算をしていた。
私が、森谷中学でフォークソングクラブの顧問をしていたのは今から二十五年前。当時の樫村は十四、五歳。
足したらどうなる、足したらどうなる。
私の頭は混乱していた。足したら四十。そうだ樫村は今四十歳前後のはずだ。
今会った樫村はどう見ても中学生だった。
私は不思議な体験をしたことは自覚できたけれど、何が起こったのかは理解できないまま家に帰った。
本棚から、森谷中学の卒業アルバムをとりだして、ページをめくると樫村が写っていた。アルバムの樫村は少し、はにかんだ表情でカメラに向かってVサインをしていた。
今日、石清水八幡宮で会ったのは間違いなくこの表情のままの樫村であった。
私は、なにがなんだかわからないまま、アルバムをとじて本棚に戻した。
夕食後、パソコンの電源を入れメールのチェックをすると、一通のメールが入っていた。差出人は「沢口啓子」となっている。沢口啓子も二十五年前のフォークソング部の部員である。
メールをあけると「樫村」という文字が目に飛び込んできた。
『先生、お久しぶりです。フォークソング部の樫村直樹君が今日の午後三時八分に病気で亡くなったと先ほど連絡がありました。樫村君の最後の言葉は【文化祭では間違わずに演奏できました】だったそうです』
私は、動揺した。
私はパソコンを閉じると、樫村の言葉を思い出していた。彼の最期の言葉と石清水で私に話した言葉が同じであったことに驚いた。そして『もう思い残すことはありません』という言葉が私の耳に残っていた。最期に私にお別れを言いに来たのだろうか。
私は、樫村が中学最後の文化祭で歌った佐野元春の曲を流しながら、私の姿を見るといそいでギターの練習をし始めるかわいかった彼の中学時代を思い出していた。