華氏451度

我々は自らの感性と思想の砦である言葉を権力に奪われ続けている。言葉を奪い返そう!! コメント・TB大歓迎。

勝ち組になりたいと思いながら過労死した、ある男の人生

2006-06-28 03:59:24 | 箸休め的無駄話
 その男は旧制中学を出て就職した。まだ帝国憲法が生きていた時代――と言うより、人々が治安維持法で締め上げられ、戦争に駆り立てられていた頃のことだ。本当は高校→大学は無理としてもせめて高等商業学校(というのが昔はあった。神戸高商は現・神戸大、東京高商は現・一橋大)に行きたいと思ったが、家計の事情がそれを許さなかったのである。彼の家は母子家庭で、母親は裏庭の小さな畑で芋などを作るかたわら、近くの街の工場で、当時の言葉で言えば「雑役婦」(臨時雇いの形で雑用をする女性労働者)をして働いていた。彼には既に社会に出ている姉がいたが、その頃は家を離れていて、家計を支えるのは母親の乏しい給料だけ。しかも彼の下にもまだ2人子供がいたから、カツカツ食べられるかどうかの生活であった。

 もともと彼が中学に行くことさえ、周囲からは「分不相応」だと言われた。全体がまずしい過疎の農村で、小学校の同級生のうち中学校に進学するのは1割に満たず(さらに大学に進学するのは、2~3年に1人という程度)、経済的に恵まれた家庭の子供に限られていたのだから。中学進学できたのは、それを強く勧めてくれた教師がいたおかげだった。その教師がいなければ、彼は小学校卒業と同時に「丁稚奉公」に出されていたに違いない。その村では男の子は「丁稚」や「給仕」、女の子は「女中」や「女工」として働きに出るのが普通だったのである。

 彼は、中学では入学から卒業まで一番で通したという。村の年寄り達は今もそれをひとつ話のように語るが、実は特別頭がよかったわけではない。要するにめちゃくちゃな「ガリ勉」(という言葉、今もあるだろうか?)だったのである。貧乏な母子家庭ということで子供の頃から差別を受けてきた少年が「幸せになりたい」と思った時、そのささやかな望みは「勉強してエラクなる」ことに直結した。身を立て、名をあげ、やよ励めよ――ほとんど『蛍の光』の世界である。だから大学へとまでは望まずとも、せめて高等商業に行きたかったのだろがその望みはかなえられず、彼は郷里を離れ、都会に出て職に就いた。

 しゃにむに働いて家に仕送りし、軽い結核に罹患し……治ればまた馬車馬の日々。戦後の混乱の中で母親と妹たちを養い、妹たちが結婚して家を出て行くのを見送り、……そしてようやく自分も結婚した。当時の男の結婚適齢期とやらはわからないが、おそらくやや遅い方であったろう。田舎の親戚の世話による、見合い結婚であった。相手の女性は、実のところあまり気が進まなくて断ったらしい(わからんでもない。学歴は女性の方もチョボチョボなので偉そうなことは言えなかったはずだが、扶養家族を抱えているわ、痩せっぽちで背が低い上ド近眼でまるで風采あがらないわ、結核の既往はあるわ……客観的に見ればかなり条件の悪い男だったのである)。だが(田舎の老人達の話によると)彼がすっかり舞い上がって、押しの一手で結婚にこぎつけたとやら。彼女は特別には何の取り柄もない女性だが、幾分か経済的な余裕のある家庭に生まれ育ったため、ほんの少しだけ「お嬢さん的教養」を身に着けていた。それが彼には何とも眩しかったらしい。

 彼は「上昇志向」の強い男だった。本を読みあさり、中学でちょっと習ったきりの英語を懸命に勉強した。その根底には、自分の生まれ育ちや学歴に対するコンプレックスがあったのだろう。同僚の多くは比較的恵まれた家庭に育ち、大学や高等商業を出ている。彼らに負けまい、負けまいとして、かなしいほど背伸びをしたのかも知れない。子供が生まれた時、汗だくで病院に駆けつけてきた彼は開口一番、「この子は大学に行かせてやる!」と言った。「必ず大学に行かせてやる。できる限りの教育を受けさせてやる」。いまどきそんなことを力み帰って言う親はいないと思うが、当時はまだ大学進学率は低かったのだ。

「教養」に対する憧憬も強かったようで、楽器の演奏が出来ることに憧れて、こっそりヴァイオリンを習ったこともある。ひょっとすると、お茶やお花も習いたかったかも知れない。妻はほんのまねごとだが独身時代に「お茶とお花」を習ったことがあり、趣味で絵を描いていた。そういう妻を持っていることが、彼はひどく自慢であったのだ。

 彼は妻が好きで、子供達が好きで、彼らを飢えさせず、自由に生きていかせるためには命を削ってもいいと思っていた。上の子が(と言うよりその頃はまだ子供は1人だけだった)4つか、5つになったばかりの時、彼は結核性肋膜炎を起こして(過労のせいもあったかも知れない)入院したのだが、そのとき妻と、平仮名を少し覚え始めた子供に宛てて毎日のようにハガキを書いた。ハガキの文言はいつもほぼ同じ、ごく簡単なものであった。「おかあさんのいうことをきいて、いいこにしていますか。とうさんがかえるまで、おかあさんといっしょにがんばってください。おかあさんをたのみます」……

 そして……彼は本当に自分の命を削ってしまった。40歳を目前にして、過労死したのである。日曜も祝日もなく働いて、ようやく久しぶりの休みが取れたある日。日中は2人の子供の相手をして過ごしたのだが、夜中にふと目覚め、子供に添い寝している妻の布団がずれているのを見て掛け直そうとした瞬間にくも膜下出血で倒れた。「風邪ひくよ」というのが最後の言葉であった……。

――「彼」は私の父、「その妻」は私の母である。――

 父が亡くなって何年か経った頃、彼の遺した本を片端から読んだ(古典と言われる文学書のほか、思想書・哲学書まで本棚に詰まっていた……)。下線を引き、細かく書き込みをした三木清の著作などを(内容などろくに理解できぬまま)めくりながら、私は「こんな本を読みながらも、最期まで上昇志向を捨てきれず」、最近の言葉でいうならば「勝ち組」になりたいとあがいた父を、かなしい人だと思った。

 見合いの後で2度目か3度目かに会った時、父は母に「自分で働くようになったら、靴を買おうと思ったんです」とポツリと言ったという(最近聞いた話である。母もけっこうな年になったせいか、やたらに思い出話をするのだ。あるいは私がようやく人間が練れてきて、カノジョの思い出話を聞いてやれるようになったのか)。中学時代、同級生は全員靴を履いてきているのに、彼だけは靴を買えず、普段履きの下駄だか雪駄だかで通っていた。それで、靴を買おう――になったのである。「かわいそうな人だなあ、と思って涙が出そうになった」と母は言った。それがどういう意味かは尋ねていないが、ひょっとしたらそれを聞いて父と結婚してもいいと思ったのかも知れない(可哀想ってえのは惚れたってことよ。……なんていうとBLOG BLUESさん風だが。いやあ、でも私もどこかにそういう感覚があるのである。しょうもない余談)。

「ほんとに、かわいそうな人だった」と母は何度か繰り返した。「働いて働いて、なあんもいいことないまま死んじゃって」
 独身の姉と同居している母親にはずっと仕送りを続けていたし、子連れで離婚した妹の面倒をみるだの、親戚の誰とかの借金の肩代わりをするだので、「ボーナスなんか右から左だったわ」と母は笑う。無理な残業を続けたのも、金のためだった。そんなに無理しなくてもと気遣う母に、父はいつも「もう少しだから」と言っていたという。もう少ししたら楽になる、地位が上がれば給料も上がる、近いうちに綺麗な家を買おう、一緒に旅行もしようね、などと言っているうちに、彼はポックリあの世に行ってしまったのだ。ちなみに「あんたもあんまり働かない方がいいわよ」というのが母の口癖である……。

 働くのは悪いことではない。働かざる者食うべからず。しかし、浮かび上がりたいと思い詰めて働くことほど、心を痩せさせることはない。父は子供の頃、靴どころか机も買ってもらえず、机代わりのミカン箱を台所の隅などに置いていたという(2部屋きりの小屋に住んでいたので、むろん自分の部屋なんぞというものもなかったのだ)。その境涯から「自分だけ巧く抜け出したい」と思ったとき、彼は過労死へのレールに乗ってしまったのである。

 お父さん、私はあなたのような子供を、もうこの世に存在させてはいけないと思う。

◇◇◇◇
ブログで個人的な話は書くまいと思っていた。別に隠し立てしたいわけではない(隠すようなことは何もないし)。ただ、ごく平凡な生活をしている私のプライベートな話など、ヒトサマにとってはおもしろくもおかしくもないからだ。もうひとつブログ(というよりすべての表現)には私小説的なそれと、全く私小説的な要素を含まないそれとがあり、私自身は手段として後者の方が容易だということもある。だが、ふと酔ったまぎれに自分が6歳の時に死別した父のことを書いておこうかという気になった……。個人的な話なので、適当に読み飛ばしてください(って、そういうことは最初に書くべきか。すみません)。



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14 コメント

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決して不幸じゃない。 (浩二)
2006-06-28 17:21:44
私個人の感想としては、素晴らしい父であり、人間だと感じました。



かわいそうというよりは、生まれた境遇の中で精一杯生きた人として尊敬出来るし、そういう人生にも大きな価値や意味があると思いました。
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自分よりも (武尚)
2006-06-28 18:40:57
私には、「自分だけではなく、助力してあげられるひとにはそうして、みんなで巧く抜け出す。」そういう人に思えます。

そして本人も意識しないうちに、自分が一番最後になっていたのではないでしょうか。
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通りすがりですが (緑雨)
2006-06-28 23:45:22
何か激しく胸を打つものがありました。

このような話を残しておくことにも意味はあると思います。
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Unknown (華氏451度)
2006-06-29 02:55:15
浩二さん、武尚さん、緑雨さん、私的な話を読んでいただき、恐縮です。



せめて靴を買えるお金が欲しい、腹一杯ご飯食べたいと切実に思う。彼のような人は決して珍しい存在だったわけではなく、つい2~30年前まで日本中にいたのでしょう。そして世界を見渡せば、今も大勢の「彼」がいると思います。



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路傍の石 (luxemburg)
2006-06-29 07:24:27
山本有三の「路傍の石」を読んでるのかと思いました。

すばらしいお父様ですね、そういうお父様の生き方を見て育ってこられたというのは、またしあわせなことだと思います。

家族を守りながら、自分のような人をもう出さない、という気持ちがあったのかもしれません。

またお金がなければ教育がつけられない時代になろうとしていますが、お父様はどう思っていらっしゃることでしょう。



 トラックバックを見た瞬間に「お父様のことだな」とわかりました。そのつもりで最後まで読ませて頂きましたのでご心配なく。こんな子供が育ってしあわせなお父様です。さぞかし自慢だったことでしょう。



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Unknown (Unknown)
2006-06-29 20:02:42
その方の人生は、すばらしいものだったのではないでしょうか。



学生時代バックパックを背負いながら、インドを一周しました。

帰国後、田舎の親にインドの貧しさやカースト制度等をを話したところ、

「お前は何様だ。昔の日本も一緒だ」

と怒られたことを思い出します。
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Unknown (お玉おばさん)
2006-06-29 23:02:27
お玉も私生活は書かないで通してますが、実は書き留めておきたい、置かねばならないそんな気持ちに駆り立てられる瞬間があります。たとえ、短い時間しか一緒にいられなかったとしても、華氏さんのお父さんの一生懸命家族を支える為に生きた姿は素晴らしいと思います。華氏さんの感性の豊かさの底にはこういうご両親がいらっしゃるのですね。
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おとうさん (そら)
2006-06-29 23:50:22
きっと、みんなで幸せになる日を待ち侘びるのではなく、

頑張って目指しておられたんですね…素敵な方ですね。

華氏さんの文章があったかいのは、こういう父の背中があるからなのかなぁと思いました。

トラバ、ありがとうございました^^
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Unknown (華氏451度)
2006-06-30 01:33:03
恥ずかしいエントリなんで基本的にはTBしなかったのですが、UTSコラムで私的なこと書いてるんで、あそこで読んでくださったような記憶のある方、方2~3人だけこっそりTBいたしました。



父の人生が素晴らしかったかどうかは私にはわかりません。それなりに一生懸命に生きたことは確かでしょうし、やさしい目で見てやりたいと思いますが、未来の子供達には彼のような人生はやはり歩ませたくないものです。
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そうですね (そら)
2006-06-30 09:55:13
生活を安定させることにまず、自分の多くのものを注がなければならなかった境遇には、切なくなります。おとうさんが、自分自身を実現させる機会を持つ日を迎えて欲しかった…と、心から思います。

華氏さんが言われるのはそのことでしょう?(違ったらスミマセン^^;)

今の政治家の改革は、未だに日本の文化・思想占領から抜け出せない人の発想の産物であって、アメリカ、あるいは中国に日本を差し出す行為です。

日本がまったく別の新たな政府を作り出せないままなら、国がなくなってしまうと思います。子供達に、国も残せない…また、戦後のような生活に戻ってしまうでしょう。

日本の本当の世界に誇れる財産は、世界一の名でも経済的な成功でもなく、他に類を見ない芸術や思想、特有の繊細な感覚、性質、精神世界などだと思います。

それらを失わず、子供達に日本を残すには―UTSでみなさんと考えていきたいです^^
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