華氏451度

我々は自らの感性と思想の砦である言葉を権力に奪われ続けている。言葉を奪い返そう!! コメント・TB大歓迎。

続・「理解できない」のは私のほうである

2006-02-04 02:11:40 | 格差社会/分断・対立の連鎖


1日午後の参院予算委員会で、小泉首相はこんな答弁もおこなった。
構造改革に伴う経済格差拡大への批判が強まっていることに関し、「わたしは格差が出ることは悪いこととは思っていない」と断言。さらに社民党・福島党首の「貧困層が増えているという認識はあるか」という質問に対し、「どの時代でも成功した人と成功しない人がいる。貧困層をなくす対策と同時に、成功をねたむ風潮や能力のある人を引っ張る風潮は厳に慎んでいかないと、社会の発展はない」と述べたという。
うーん、理解できない(笑)。

私は基本的に、「格差が出るのは悪いこと」だと思っている。能力のある人間、あるいは競争の勝者は金も力も手に入れることができ、能力のない人間、あるいは敗者は地べたをはいずり回っていろ、という考え方には組みしない。「少数の年収ン千万円(ン億円?)の人間と、多数の食うや食わずの人間がいる社会」よりも、「みんながそこそこに食べていける社会」の方が私にとっては居心地がいい。「年をとって介護が必要になった時、自費で最高の手厚いケアを受けられる人がいる一方で、介護保険の自己負担分が払えないためろくにサービスを利用できない人もいる社会」よりも、「みんながほぼ平等なケアを受けられる社会」を選びたい。

その意味で、私は税金は原則として累進課税方式を採るべきであり、さらに言うと累進税率は可能な限り高い方がいいと思っている。高額所得者の中に「稼いでも稼いでも税金でもっていかれる」という人がいるが、払った残りは一般庶民の平均所得よりはるかに多いはずで、それでいいじゃないかと私などは思う。「税金を払った残りの所得」――いくら私でも全員同じであるべきだなどとまでは言わないが、その最高と最低の差はなるべく小さい方がいい。私が貧乏人だから気楽なことを行っているのかも知れないが、「そういう社会のほうがまっとうだ」と思うのである。

税金の話については実のところ「難しいことは全然わからない」ので、ボロが出ないうちにやめるとして(もう出ているかも知れない)――

「成功」は金に結びついて当然、という考え方も私にはそれこそ「理解できない」。人が何かをやろうとし、努力し、成し遂げたとする。その時、彼は自分が汗水垂らしたこと、そして幸運にも成し遂げられたこと自体で、すでに「むくわれている」のではあるまいか。アインシュタインが相対性理論を確立したのは、それで金儲けして悠々自適の老後を送りたかったからではあるまい。松本清張がびっくりするほどたくさんの小説を書いたのは、印税で儲けて別荘を建てたりベンツに乗ったりしたかったためではあるまい。近所のオニイチャンが社会福祉士の資格を取り、会社を辞めて老人ホームに勤めたのはその方が収入が多いから、ではあるまい。

もうひとつ――「能力」というのは何だろう、とも私は考える。ある本に、「能力主義に反対するのは勇気がいる」という意味のことが書かれていた。おまえは能力がないからそんなことを言うのだ、と思われるからだそうである。確かにそうかも知れない。しかし私はそう思われても一向に痛痒を感じないので、「人間の能力に線引きをするのは反対」「人間を能力なるもので差別するのは反対」と大声で言う。人間の能力にはほとんど無限のバラエティーがあり、それを比較するなど誰にもできるわけはない。権力を持つ人間や既得権を失いたくない人間が「能力」と言うとき、それは「彼らにとって有益な能力」であるに過ぎない。

そして三つ目の「?」。
成功をねたむ風潮とは、いったい何を指すのだろう。「累進税率は高いほうがいい」「能力なるものによる差別反対」といった発言の陰には、妬みがひそんでいるのだろうか? うーん、と胸に手をあてて考えてみた。私は凡人だから、むろん嫉妬だの羨望だのという感情をしっかり持っている。しかしどう首をひねっても、別に金持ちや「成功した人々」を妬む気持ちはないし、ましてや足を引っ張ろうとも思わない(そんなしょーもないことをする暇があったら、もっと自分にとって有効なことに時間を使う)。3度の飯を美味しく食べられ、他者に後ろめたい思いを抱かずにすみ、あまり拘束されずに生きていければそれでよく、それ以上のことはさほど望んでいない。多くの人々が、そうなのではあるまいか。

もしかすると小泉首相の頭をよぎったのは、「小泉チルドレンと呼ばれるセンセイがたのトンデモ発言を、我々庶民が嗤うこと」だったのだろうか? あれは妬みではなく、あきれかえってものも言えない、という庶民の声だったのだけれども……なあ。

まとまりのつかない文章になってしまったが(いつもそうなのだけれども)……強いことがエライのだ、競争に勝つのがエライのだ、優秀なことがエライのだ、という風潮にはいい加減おさらばしたい。弱くて悪いか。負けて悪いか。優秀でなくて悪いか。逃げ支度して悪いか。私たちはそろそろ開き直ってもいい頃だ。直対応していると、相手の土俵に引きずり込まれる……。
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「理解できない」のは私の方である

2006-02-04 00:13:08 | 非国民宣言(反愛国心・反靖国など)
あーあ、また出ました、お得意の台詞――「理解できない」。

小泉首相は1日の参院予算委員会答弁で靖国神社参拝問題について「(中韓両国が)参拝するのがいけないと言い、それに同調する日本人が大勢いる。これが私には理解できない」と述べた。あいかわらず強気ですなあ……どこからそんな強気が出てくるのか、私のほうこそ理解できない。誤りを指摘されると、(それが好意によるものであったとしても)自分という存在自体がすべて否定されたように感じ、ヒステリックに過剰反応する人が世の中にはいる。そういう人であっても、世間的な付き合いの範囲であれば(正直言ってメンドクサイけれども)それなりに付き合っていくことは可能。だが……いやしくも一国の首相となると、振り回される国民の方は「メンドクサイなあ」ではすまないのである。

人と人がコミュニケーションしようとする時、その基本には「あなたを理解したい」という姿勢がある。立ち位置はちょっと違うかも知れない、立ち位置がほぼ一緒でも細かいところはいろいろ違うかもしれない。それでも、私は貴君のいうことを真面目に聞きたい、貴君にも聞いて欲しい。そうすれば、お互いに気づかなかったことに気づけるかもしれない。別の何かを発見できるかも知れない。――こういった人間同士のかかわり方を、「理解できない」という言葉はビシャリと拒絶する。問答無用、というやつだ。ならば、我々も「問答無用」のスタンスをとるほかあるまい……。

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