カームラサンの奥之院興廃記

好きな音楽のこと、惹かれる短歌のことなどを、気の向くままに綴っていきます。

111。

2017-05-03 01:11:11 | Weblog

しごとのあと、昨晩は早々に就寝するも尋常ならざる感じの喉の乾きに目覚め水を飲んだ。時計を見ると1時11分。昨日は遠縁の方に偶々会い、話のなかで、母方曾々々祖父の実父が〈山崎図書家から山崎庄兵衛家に入った人物という言い伝えがある〉と聞いた。個人的にいろいろ調べているなかでかねてから実父は権丞家生まれで図書家当主から庄兵衛家当主になった〈山崎庄兵衛範古〉ではないかと思っていたから、思いがけずそれが裏付けられた形になった。何年か前に金沢と大聖寺の図書館に調べものに行った折り、野田山にも足を伸ばして初代山崎長徳をはじめとする歴代山崎庄兵衛の墓所のお参りをしたときのことをまざまざと思い出した。

史書によると、朝倉氏家臣時代、一乗谷の邸で山崎家のひとびとが歌合わせに興じたこともあったようだ。そういう血がもしかしたらいまの自分の短歌好きにも通じているのかもしれないと考えるとなんとも不思議で面白い。

山崎範古(やまざき のりひさ) 生年不詳~慶応三年(1867年) 加賀藩士。通称直右衛門・庄兵衛。実は大聖寺藩士山崎権丞(一千石)の庶子で初め分家山崎図書(二百石)の養子となっていたが、加賀藩の山崎宗家を継いだ兄伊織長質の後嗣となって文化三年その遺知四千五百石を襲(つ)ぎ、人持組に列した。その後定火消、奏者番、公事場奉行、寺社奉行を歴任し、文政元年十二月には家老となった。文政九年四月一千石の加増を受け、家禄五千五百石となった。しかし、同年六月寺島蔵人失脚に際し、範古は元来蔵人と説を同じくしていたため、十三代藩主前田斉泰から遠慮を命じられ、いったん家老の職を解かれたが、天保元年許されて再び家老に任じられた。元治元年世子前田慶寧が上洛した折、範古の子庄兵衛範正が家老を務め、松平大弐らとこれに従っていたが、時折しも禁門の変が勃発し、慶寧は範正ら藩兵を率いて退京してしまう。このことが藩で大問題となった。隠居して穏斎と称していた範古は、かつて慶寧の傅(ふ)を務めたこともあり、慶寧の滞留先の近江海津へ向かおうと途中の福井まで出掛けたが、思い直して引き返した。範古のこの行動は藩の中で厳しく咎められ、八月十日、範古は謹慎を命じられた。八月十一日、範正の同僚松平大弐が海津で切腹。一方、範正は慶寧に従って大聖寺まで帰り、ここで扈従(こしょう)を辞し、藩から閉門を命ぜられた。範正は大弐よりも高禄で、いわば「第一家老」の立場にあったため、範正の行動に対する世評は芳しくなかった。翌慶応元年八月、山崎家は家禄を一挙に二千五百石減知され三千石とされた。範古は慶応三年九月二十三日没、享年八十二歳。菩提寺は金沢市内にある曹洞宗常松寺。 『三百藩家臣人名事典』第三巻(新人物往来社、1988年4月刊)251~252頁。 

 

山崎範古像

https://commons.m.wikimedia.org/wiki/File:Yamazaki_Norihisa.jpg

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