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常願寺川 治水の歴史 / 志道政亮

今、歴史遺産とか土木遺産とか日本近代化遺産とかの名称で国内、多数の登録が
なされています。

私の住む立山町では黒部ダムが有名です。
そして、ここ常願寺川の砂防(明治39年工事開始)もユネスコ世界遺産登録を目指す様子です。
写真は国交省の立山砂防事務所


ここ常願寺川の治水工事、明治24年に大水害発生。
(明治24年7月、岩峅寺で5メートル超の水位、堤防6660m破堤、農地流出700ha
 島村住民150戸は北海道等へ移住)
この災害、県での修復は不可能にてオランダ人技師デ・レーケ登場となります。

以前に、この災害工事の高田雪太郎を紹介しましたが、一人二人でなし得ること出来ない治水事業です。
その歴史に目を向けて研究されている方が貴堂巌(富山県近代史研究会)さんです。

土木史研究講演集vol30に論文を掲載されています。
「常願寺川改修工事における工区の特定と監督者の経歴」
ここに「志道政亮」が紹介されています。
よく調査・発掘されたと驚きです。

デ・レーケや高田雪太郎に隠れていますがこの、志道政亮ありて、の治水工事完成です。

富山県令となる国重が京都府在職のとき琵琶湖疎水の工事にかかわった技量を見越して
富山に呼び寄せた人です。
(貴堂氏曰く、南禅寺の琵琶湖疎水図に志道政亮の名が記されている)
生まれは山口藩士の子、西南戦争にもかかわり、京都府の職員となり琵琶湖疎水工事
で測量を担当した。

国重(明治16初代富山県知事)は治水の重大性を認識しており、明治16年に富山県の県令になるとともに
身近で仕事を見たことから腹心に呼び寄せたものと思われる。
大水害が発生するまで、地道に常願寺川の測量をした。
大水害後のデ・レーケと高田雪太郎を中心とする治水事業。この時、測量されていたから
事業計画が短期間で立案され実行された。

下地があってこそ1年そこそこで川筋約20kmの護岸工事も完成。

自分がいつも走る道も橋も過去、誰かの手で設計され工事され出来上がっている。
かかわった行政人、設計者をはじめ技師の人たち、その人達の手で今がある。
忘れてはならないと思う。


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