ホトケの顔も三度まで

ノンフィクション作家、探検家角幡唯介のブログ

公人と私人

2017年03月04日 04時53分12秒 | 雑記
 探検とは日常空間を自ら飛びだし、システムの境界線の外にある空間あるいは状況を踏査・検証する身体行為なので、探検が終わるといつも、ああこんな非日常世界はもう疲れたなぁー、温泉につかりたいなぁなどと、早く日本に帰りたくて仕方がなくなる。今回は極夜単独行という、その非日常的性格に超のつく異常空間領域に80日間もいたたため、家族と一緒にスーパーで買いものをする、ギョーザを食べる、本屋で無駄遣いをするなどといった平凡な日常空間に戻りたい度がいつもより高い。
 シオラパルクの村からは、まずヘリで隣町のカナックに移動し、そこから飛行機にのりかえてウパナビックの町に向かわなければならない。出発予定の3月1日、準備万端ととのえた私は胸をときめかせて居候先の山崎さんの家でヘリの到着を待っていた。日本では妻も私をむかえにいくため成田空港近くの実家に戻ったという。ところが待てど暮らせどヘリはやってこない。結局、その日はヘリを格納しているチューレ米軍基地の天気が悪かったらしく、フライトはキャンセル、シオラパルクに足止めをくらった。
 ヘリは翌日飛んでカナックに到着したが、この地球の北の果てにある人口30人ほどの村でヘリがひとたびキャンセルされると、乗客への影響は甚大だ。というのもカナックで接続する飛行機は、シオラパルクからのヘリがキャンセルされたことなど一切かまわず出発してしまう。しかもカナック―ウパナビック間は週に1便しかないので、たとえ翌日にヘリが飛んでカナックに到着できても、翌週のフライトまで待たなければならないのだ。今すぐにでも日本にもどり近所のまんてんラーメンでギョーザを食べたかった私は、カナックのエアグリーンランドの責任者に「土・日に貨物便はないの? 娘が病気で早く日本に戻らなければならないんだ」と懇願したが、私の見え透いた嘘を見抜いた彼は「貨物便もない。悪いけど水曜の次の便まで待ってくれ」と苦笑していうばかりだった。
 というわけで、カナックのホテルで来週の水曜まで足止めを喰らった。今日はその1日目。せまい町を歩いてもしょうがないし、この町には知人もいない。はやくも暇で死にそうになり、ついつい高額な接続料金を支払ってインターネットのニュースサイトなどを閲覧してしまう。

 最近、ネットを見ていて、日本では幼児に教育勅語を暗唱させ、「安倍首相がんばれ」などという不気味なフレーズを連呼させる、極夜世界よりはるかに薄気味の悪い森友学園という学校法人が、小学校新設に際して国有地の売却を不正に受けていたのではないかという疑惑が持ち上がっていることを知った。しかも、一般常識があればどう考えてもヤバイとしか思えないこの新設小学校の名誉校長に、あろうことか首相安倍晋三の昭恵夫人が就任する予定で、しかも公務員を引き連れて講演をおこない、「ここの教育方針は素晴らしい」などと不用意な発言していたというから驚きだ。アッキーは今回の疑惑をうけて名誉校長就任を辞退、一連の問題について口をつぐんでいるとのことだが、夫である首相安倍は国会での追及に相変わらずの度量の小ささをみせつけ、「妻は私人なんですよ。犯罪者あつかいするのは不愉快だ」などと逆ギレし、聞いている方を不愉快にさせる答弁をしているという。
 たしかに人間の行為をどこから公的で、どこから私的なものか分類するのは簡単ではない。私も新聞記者時代は公的領域と私的領域の境界線に頭を悩ませた。とりわけ悪名高い個人情報保護法が施行された後は、個人情報(私的領域)という大義名分を隠れ蓑に公的情報をひた隠しにしようとする風潮にはうんざりした。今回もたとえば朝日新聞はアッキーが公人か私人か区別するため、彼女の首相夫人としての活動を公務員がサポートしていることや、手当として公費が支給されていることを検証している。だが、ことこの問題についてはそんな面倒くさい議論は不要に思える。
 公人であるか私人であるかは、彼・彼女の活動に公費が負担されているかどうかというより、その人物の社会的・政治的な性格によって決定される事柄だ。たとえば裁判が開廷して判事が入廷すると、検察官も弁護人も傍聴人も全員が起立して判事に一礼する。これは私人としての判事に一礼しているわけではなく、判事という公的性格のつよい職能に対して敬意をはらっているゆえに、おこなわれる所作である。
 また判事のような公務員ではなくとも、たとえば有名人や芸能人、文化人などは社会に対して一定の影響力があるわけで、その発言や著述は社会的責任という公的性をおびている。私だって、私の本を読んだ人によって認知された一人の物書き、探検家としての肩書でいろいろと発言し、著述するわけだから、その意味では公人だ。最初は私的行為だったかもしれない私の探検活動も、文章で表現し、それに読者がつき、探検家として社会的に認知されていく過程で、探検家としての私は必然的に公的な性格を帯びていく。公人であるということは社会に開かれた領域で一定の役割を担った状態にあることであり、本による表現活動の結果、私は探検家としての社会的立場を獲得し、探検家としてふるまうことを公的に望まれるようになっていく。もしかりに、北極でとある探検隊が大規模な遭難事故をひきおこしたら、恐らくいくつかのメディアは私にコメントを求めるだろう。だが、それは私人としての私――つまり、まんてんラーメンのギョーザが好きなプライベートな私――にコメントを求めているのではなく、公的に認知された作家・探検家としての私にコメントを求めているのだ。
 このように社会的にはるかに微小な存在である私でさえ公的な性格を帯びているというのに、首相夫人であるアッキーが私人であると言い繕うのは、誰がどう考えても無理がある。
 この国において首相は天皇につぐ公人であり、その妻の公的度も当然高い。しかもアッキーは選挙のときには応援演説するなど、従来の首相夫人と比べてもその公的立場をフルに活用してきた女性であり、このときは公人だったけど、このときは私人でした、などという恣意的な立場変更がゆるされるわけがない。森友学園にしてもアッキーに名誉校長就任を依頼したのは、彼が首相夫人であるからで、もし安倍が首相ではなくただのサラリーマンだったら彼女に名誉校長を打診するわけがない。いっぽうアッキーの側も名誉校長就任を受けたのは自分が首相夫人という立場にあること、その公的性格を理解しているからであり、彼女がただのサラリーマンの妻だったら「え、なんで私が名誉校長なの? PTA会長ならまだしも…」と狼狽するだけだろう。つまり、この名誉校長就任の背景には首相夫人という公的立場が決定的な役割を果たしているわけで、首相安倍が言う「妻は私人なんですよ」という発現は論理的に成りたたない。これほど公的立場を前提にしたやり取りが私的行為だというのなら、首相夫人という立場は完全に私人だということになり、首相夫人という立場が前提としている首相という存在そのものも私人だということになってしまう。
 最大の問題は、こんな幼稚園児でもわかる理屈を無視して「妻は私人なんですよ」と国会というこの国でもっとも公的な場で堂々と言ってのける安倍という男の、この態度だ。彼はどのような意図でこの発言を繰り出したのか。
 もしかしたら彼は公人と私人の区別がつかない考察や思想を完全に欠いた、ただの愚か者なのだろうか。その可能性はそれほど低くはなさそうだ。なにしろ安倍政権はずいぶん前から反知性主義だと叩かれてきたが、そのうちみんな「この連中は反知性主義とか、そういう主義に値する思想など何も持ち合わせていない、単なる無知性な集団なのではないか」とうたがうようになり、この方面からの批判が少なくなった経緯があるほどなのだ。森友学園の園児たちが「安倍首相がんばれー」とエールを送るのも、園児にさえ彼が知的に愚かに見えるからかもしれない。
 だが、やはり彼にしてもそこまで無知性ではないだろう。ないはずだと、反安倍である私としてはむしろそう思えてくる。おそらく彼は、アッキーが公人であることを理解しつつ、例によって政権の力をもって言葉の意味を捻じ曲げる所業に出たのではないか。首相夫人が公人であるか私人であるか、事実がどうかは関係ない。俺が私人だといえば、昭恵は私人なのだと、安倍はそう言いたいのだろう(そういえば、こういうジャンアンのような態度が反知性主義だと散々叩かれた原因であった)。
 この憶測を裏付けるように、さきほどまたネットを見たら、この問題について官房長官菅が公式見解が出したらく、アッキーの講演は「私的行為」だと説明したとのこと。安保法制も「憲法違反にはあたらない」と強弁しつづけたのとまったく同じ手口で、やっぱりねという感じだ。われわれ政権は言葉の意味の最終的な決定権さえにぎっているという彼らの態度にはあきれるほかない。言葉が通用しないのなら、いったい民主主義は何をもって権力と対峙することができるというのか。
 それにしても、政治活動を禁じる教育基本法を逸脱した違法性の高い学校法人との関係性を追及されて、色をなして逆ギレし、「レッテル貼りはやめましょう」みたいな中学生なみの貧相な言葉でしか反論できない、この恥ずかしい小人物を、われわれはいつまでトップにいだいていなければならないのだろう。日本の闇のほうが極夜より暗そうだ。極夜は少なくとも4カ月で太陽が昇る。

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