БЛОГ/Bava44

ロシア映画の他、日本では主流ではない、非公式的な映画作品や映画批評等の紹介。

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

なぜ私は映画芸術を支持するのか

2010年03月04日 | Weblog
映画ファンの中にも、映画芸術を否定し、娯楽映画を礼賛する方がいるが、彼らは自分の行為を理解しているのだろうかと思う。
芸術否定などというのは理性的存在として絶対にやってはいけない野蛮な行為である。また、市場原理に従っていれば、娯楽映画が作られ、芸術映画が否定されるのは当然の成り行きである。そのため、映画芸術は積極的に支持していかなければ滅びてしまう性質のものであることを彼らは理解すべきである。そもそも芸術とは何かということを会得してから、肯定するなり否定するなりするのならばともかく、ほとんど感情的に芸術拒否というのはいかがなものか。不合理な中傷ではないのだろうか。

実は普通の映画ファンにとっても、映画芸術は必要なものである。芸術系の映画人の役目というのは、歴史的な観点で見れば、映画の表現やテーマの革新を行うことにある。それが無ければ映画は停滞し、マンネリ化するのである。
革新的な映画と書くと、アヴァンギャルド映画のことを連想する極端な方がいるが、娯楽映画の内部でもこれはある程度可能であり、稀な例であるが、斬新さと大衆受けが両立することがある。恐らく、一流の監督と二流の監督の根本的な違いは、映画製作の際に、そのような可能性を意識しているかどうかであろう。創作には常に意欲的な姿勢が大切なのである。
私は何も商業映画を否定している訳ではない。映画の商業性と芸術性のバランスというのは非常に大事で、商業性が行き過ぎると作品内容が陳腐になるし、芸術性が強すぎると客が来ない。映画界が健全であるためには、このバランスをとる必要があるのである。


・映画の敵、映画に対して無責任な連中のことを知る。
「映画」それ自体にとって、芸術系の映画人というのは必要不可欠な存在である。
しかしながら、芸術系の映画人を迫害して、安定(その実態は停滞)を望もうとする“商売人”がいるのは残念ながら事実である。最近読んだ本を引用しながらみてみよう。

「後期自由主義段階に対する大衆文化段階の新しさは、新しさを排除するところにある。」「テスト済みの文化在庫品に何かを加えるのは、あまりにも投機的だというわけだ。」(ホルクハイマー、アドルノ著 岩波文庫「啓蒙の弁証法」p277)

ハリウッドのリメイク病や日本の「TVドラマの映画化病」はまさにこれである。シネコンで上映されている作品の見事なまでの画一性は、商業面での安全性・確実性に対して、神経過敏になっている製作者が作りだした喜劇的様相である。彼らの強迫観念の原因は、大衆の好みに合わせて、無自覚に映画を作っていることから生じるのであり、それは主体性を失ったことの報いである。(野球でいえば、何の戦略も無くストライクを狙い続けるピッチャーみたいなものだと私は思う。)

我々はこういった連中に対抗しなくてはいけないのだが、日本の場合はさらに、文化政策における放任主義が観客の状態を極度に悪化させているので、

「文化産業そのものが、はたして自負するほど気晴らしの役を果たしているかどうかは疑わしくなってくる。ラジオや映画の大部分が無かったとしても、おそらく消費者がたいして困ることはまずないのではあるまいか。いずれにせよ、街路から映画館への歩みは、もはや夢へと通じるものではないし、そういう文化産業の施設にしても、たんにあるからといって、必ずしも利用しなくてもいいということになるや否や、利用したいという強い衝動もまったく湧いてこなくなる。」(p286) という状態になっている。

私からすれば、こんな日本映画界はせいぜい「魅力的なコンテンツ」を作って、延命してください、という感じだ。自業自得だろう。


さて、心ある映画ファンにとっては嘆かわしい現実だが、我々が出来ることで効果的なのは、≪こんな映画は、お金を払っている観客に対して失礼だ。≫という主張を積極的におこなうことである。

「消費者を無視するわけにはいかないが、いかなる瞬間にも消費者に抵抗の可能性の予感を与えない」(p291)

これが、低姿勢な商売人の基本的なスタンスである。だから発想を変えて、これを連中のジレンマであると考えるべきだろう。彼らがもっとも恐れるのは、自分たちの二枚舌が暴露されてしまうことだ。客を金づるとしか思っていないわけだから、恐れて当然。その恐怖を利用してあげるのである。

映画に対して無責任な連中は、映画界を停滞させて自分の首を絞めても、他業種へ移動するだけで済む。そして彼らの排泄物を喰らうことになるのは映画観客である。冗談じゃない!



尚、これは希望的観測だが、私のようなインターネット世代は、世の中のダークサイドを浴びるように見てきたわけで、その分、扇動的なコマーシャルとその消費の馬鹿らしさを知っている。このことは文化性の高い映画を評価する潜在的なチャンスと言える。私と同世代の人は、もしかしたら「誠実さ」や「普遍的な価値」に飢えているのかもしれない。そうした人々を開拓していくことが、社会的にも映画の未来にとっても良いことであると私は思う。
いずれにしろ、私は映画芸術を支持していくし、それが映画への最高の接し方だと思っている。誰にも否定する権利はないね。


●『太陽の王子ファラオ』(1966年:イェジ・カヴァレロヴィチ監督)

『芸術』 ジャンルのランキング
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 「モラルの不安」の映画 | トップ | ヌーヴェル・ヴァーグ神話  »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL
ブログ作成者から承認されるまでトラックバックは反映されません。
  • 30日以上前の記事に対するトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • 送信元の記事内容が半角英数のみのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • ※ブログ管理者のみ、編集画面で設定の変更が可能です。