まずは以下の文章を読んで欲しい。
「しかしこの買収によって、メシエはアメリカ映画による侵略と競争からフランスの映画産業を保護するというフランス政府の方針に立ち向かうことになった。一九九〇年代を通して、フランス政府は“文化的な例外事項”であるとして、こうした保護政策を関税および貿易に関する一般協定(GATT)と世界貿易機関(WTO)の条約に加えなかった。事実、フランスの教育相ジャック・ラングは、フランス映画は商業的には成功していないもののフランス国民の文化遺産の重要な一部であると言明していたが、これは一八九五年のルイとオーギュストのリュミエール兄弟によるシネマトグラフ、つまり映画の発明にまで遡っての発言だった。しかし、今やユニバーサルの買収によって、メシエはわざわざ英語で、しかもニューヨーク市で催された記者会見の席上で、「フランスの文化的例外条項は死んだ」と発言したのだった。
(中略)
フランス企業が所有するグローバルなメディア王国を建設するという夢こそ破れたが、メシエは世界のエンターテイメント経済を支配する新しい論理にフランスを強引に直面させることには、確かに成功した。しかし結果的には、アメリカ化に抵抗するヨーロッパ最後の砦を切り崩すこととなった。
二〇〇四年までに、アメリカの映画はおおむね世界を征服した。」
(エドワード・J. エプスタイン著「ビッグ・ピクチャー ハリウッドを動かす金と権力の新論理」 第三章 世界のアメリカ化 140-141ページ)
アメリカ人の学者(名前からみてユダヤ系)が淡々とした調子で私情を交えずに書いた文章であり、繋がりがよく分からないところがあるが、映画の世界の裏側で何が起こったかがよくわかるだろう。ようするに「金儲け主義vs自国文化に対する誇り」という戦いが起こっていたということである。そして、映画においてはフランス文化が敗北して、売国奴が勝ち組というわけだ。
日本で、フランス映画が好きだという方は多いと思うが、これでいいのだろうか? 私はすごく嫌な気分になった。
もっとも、自国の映画を守ろうとする動きと商業主義の対立は、フランスだけの傾向ではなく他のヨーロッパ諸国や韓国でもある。要するにこれらの国は(商業路線一方向だけの日本とは異なり)文化としての映画を考慮しているのである。
文化としての映画を守るためには、自国の映画産業を外圧から守る必要がある。それに対して、映画産業を保護するスクリーンクォータを批判し自由貿易を主張するのは、商業的に見て優れた作品を持っている商人だけである。ここでは純粋に映画ビジネスについて考えてみる。
例えば、紀里谷和明の『GOEMON』は製作費が15億円であるが、J・J・エイブラムスの『スター・トレック』は150億円である。邦画とハリウッド映画とでは製作費が一ケタ違う上に、世界的に有名な俳優の有無の違いがある。これはヨーロッパ諸国でも同様である。まともに対決すれば世界市場で勝てるわけがない。ハリウッド映画の関係者が自由貿易を連呼するのは、勝ち戦だからである。(ここでは作品の質や日本映画界の自発的閉鎖性は考慮に入れない。)
こう考えると世界映画を見るときの視点として、「邦画:洋画」という区別はあまり合理的ではなく、「ハリウッド映画:その他」という区別が必要であろう。日本映画がハリウッド映画の真似事をしても、二番煎じしか生まれず、方向性として間違っている。
日本製の娯楽映画(俗称:ジャパニーズ・エンタテイメント)が海外でどのような扱いをされているかは、日本で公開されずにDVD化だけされている欧州の似非ハリウッド映画を念頭に置けばよい。その国の国内でどんな評価を得ようが、井の中の蛙である。
スクリーンクォータ制がないロシアでは、ボックス・オフィスの1位から10位までの全てをハリウッド映画が占めるということがある(!)。ロシアにおいて、一本のハリウッド映画が30億円以上の興行収入を挙げることは今では珍しくない。チケットの値段が日本の半額以下であることを考えると、なかなかの動員である。ただし、この動員力がハリウッド映画のようなブロックバスターだけに向けられていることが大きな問題点である。このような歪みはロシア映画の発展を著しく妨害している。ロシアの映画市場はかなりの程度アメリカに支配されていると言っていいだろう。
しかしながら、ロシアには興味深い点がある。日本では、娯楽映画ばかりを上映するシネコンとアート系を上映する単館という区別が完全に出来あがっている。それに対してロシアでは、一つの映画館が娯楽映画で稼ぐと同時に、自国の映画やアート系映画も上映して文化的な役割を果たしている場合がある。このような、映画における芸術とビジネスの微妙な関係を映画館側がうまく理解しているというのは面白いことである。というのは、娯楽映画のみを上映していれば観客の好みを固定化させてしまい、現代日本のように映画が単調になってくる。しかし、芸術映画だけを上映していれば映画館の経営が成り立たない。ロシアではこのバランスがとれているのだ。
このような合理的に文化を守ろうとする傾向が、ロシアにおいて日本よりも、映画の質も映画観客の質も高いということの要因の一つになっていると思う。
世界映画の現状に日本人が疎いことの原因としては、国内の閉鎖性とアメリカ経由の情報への偏りによると思う。ハリウッド映画の世界戦略は日本映画には通用しないということをもっと知るべきである。もしハリウッド映画に憧れるのであれば現地へ行けばいいのであって、誇大妄想にも「ハリウッド映画に匹敵する映画」の実現を日本において目指すべきではない。
●「Yulenka」予告編
この監督の作品はまだ見たことがないので、ジャウム・コレット=セラの「オーファン」の便乗でソフト化希望。
●芸術家の価値観
ドストエフスキー 作家の日記 一八七六年一月 小沼文彦訳
「自殺者ウェルテルは、いよいよ自殺をはかろうとするときに、その遺書の最後の何行かで、もはやこの「大熊座の美しい星の群れ」が見られなくなるのを悲しんで、それに別れをつげている。ああ、この短いどきりとするような表現の中にそのころやっと人生の道を歩みはじめたばかりのゲーテの素顔がどんなによく現れていることか!それにしてもこの星座が若いウェルテルにとってそれほど尊いものであったのはなぜであろうか?それはほかでもない、この星の群れに観照の目を向けるたびに、自分はこの星に引き比べて決してただのアトムでもなければ無でもない、こうした神の手になる数限りのない神秘的な奇跡も決して自分の思考に較べて高いものではない、自分の意識より高いものではない、自分の精神の中に秘められている美の理想より高いものではない、したがって、自分とは同等で自分を存在の無限性に近づけてくれるものである。・・・・・そしてまた、自分とは何者であるかということを掲示してくれる、この偉大な思想を知覚できる大きな幸福に対して自分が恩義を感じなければならないのは ― 自分の人間としての顔だけであることを、つねに自覚したからである。
「偉大なる霊よ、そなたがこの私に人間の顔を与えてくれたことに対し、わたしはそなたに感謝する」
偉大なゲーテの一生を通じての祈りはおそらくこのようなものであったに相違ない。」
この文章の後には、例によって皮肉めいた話がならんでいる。
●ジョン・ノイマイヤー
バレエには詳しくないが、数年前に深夜にテレビで見て心奪われた。彼の表現力に本物を感じた。ちょっと怖いような奇妙な感覚が力強さとともにグッとくる。
「しかしこの買収によって、メシエはアメリカ映画による侵略と競争からフランスの映画産業を保護するというフランス政府の方針に立ち向かうことになった。一九九〇年代を通して、フランス政府は“文化的な例外事項”であるとして、こうした保護政策を関税および貿易に関する一般協定(GATT)と世界貿易機関(WTO)の条約に加えなかった。事実、フランスの教育相ジャック・ラングは、フランス映画は商業的には成功していないもののフランス国民の文化遺産の重要な一部であると言明していたが、これは一八九五年のルイとオーギュストのリュミエール兄弟によるシネマトグラフ、つまり映画の発明にまで遡っての発言だった。しかし、今やユニバーサルの買収によって、メシエはわざわざ英語で、しかもニューヨーク市で催された記者会見の席上で、「フランスの文化的例外条項は死んだ」と発言したのだった。
(中略)
フランス企業が所有するグローバルなメディア王国を建設するという夢こそ破れたが、メシエは世界のエンターテイメント経済を支配する新しい論理にフランスを強引に直面させることには、確かに成功した。しかし結果的には、アメリカ化に抵抗するヨーロッパ最後の砦を切り崩すこととなった。
二〇〇四年までに、アメリカの映画はおおむね世界を征服した。」
(エドワード・J. エプスタイン著「ビッグ・ピクチャー ハリウッドを動かす金と権力の新論理」 第三章 世界のアメリカ化 140-141ページ)
アメリカ人の学者(名前からみてユダヤ系)が淡々とした調子で私情を交えずに書いた文章であり、繋がりがよく分からないところがあるが、映画の世界の裏側で何が起こったかがよくわかるだろう。ようするに「金儲け主義vs自国文化に対する誇り」という戦いが起こっていたということである。そして、映画においてはフランス文化が敗北して、売国奴が勝ち組というわけだ。
日本で、フランス映画が好きだという方は多いと思うが、これでいいのだろうか? 私はすごく嫌な気分になった。
もっとも、自国の映画を守ろうとする動きと商業主義の対立は、フランスだけの傾向ではなく他のヨーロッパ諸国や韓国でもある。要するにこれらの国は(商業路線一方向だけの日本とは異なり)文化としての映画を考慮しているのである。
文化としての映画を守るためには、自国の映画産業を外圧から守る必要がある。それに対して、映画産業を保護するスクリーンクォータを批判し自由貿易を主張するのは、商業的に見て優れた作品を持っている商人だけである。ここでは純粋に映画ビジネスについて考えてみる。
例えば、紀里谷和明の『GOEMON』は製作費が15億円であるが、J・J・エイブラムスの『スター・トレック』は150億円である。邦画とハリウッド映画とでは製作費が一ケタ違う上に、世界的に有名な俳優の有無の違いがある。これはヨーロッパ諸国でも同様である。まともに対決すれば世界市場で勝てるわけがない。ハリウッド映画の関係者が自由貿易を連呼するのは、勝ち戦だからである。(ここでは作品の質や日本映画界の自発的閉鎖性は考慮に入れない。)
こう考えると世界映画を見るときの視点として、「邦画:洋画」という区別はあまり合理的ではなく、「ハリウッド映画:その他」という区別が必要であろう。日本映画がハリウッド映画の真似事をしても、二番煎じしか生まれず、方向性として間違っている。
日本製の娯楽映画(俗称:ジャパニーズ・エンタテイメント)が海外でどのような扱いをされているかは、日本で公開されずにDVD化だけされている欧州の似非ハリウッド映画を念頭に置けばよい。その国の国内でどんな評価を得ようが、井の中の蛙である。
スクリーンクォータ制がないロシアでは、ボックス・オフィスの1位から10位までの全てをハリウッド映画が占めるということがある(!)。ロシアにおいて、一本のハリウッド映画が30億円以上の興行収入を挙げることは今では珍しくない。チケットの値段が日本の半額以下であることを考えると、なかなかの動員である。ただし、この動員力がハリウッド映画のようなブロックバスターだけに向けられていることが大きな問題点である。このような歪みはロシア映画の発展を著しく妨害している。ロシアの映画市場はかなりの程度アメリカに支配されていると言っていいだろう。
しかしながら、ロシアには興味深い点がある。日本では、娯楽映画ばかりを上映するシネコンとアート系を上映する単館という区別が完全に出来あがっている。それに対してロシアでは、一つの映画館が娯楽映画で稼ぐと同時に、自国の映画やアート系映画も上映して文化的な役割を果たしている場合がある。このような、映画における芸術とビジネスの微妙な関係を映画館側がうまく理解しているというのは面白いことである。というのは、娯楽映画のみを上映していれば観客の好みを固定化させてしまい、現代日本のように映画が単調になってくる。しかし、芸術映画だけを上映していれば映画館の経営が成り立たない。ロシアではこのバランスがとれているのだ。
このような合理的に文化を守ろうとする傾向が、ロシアにおいて日本よりも、映画の質も映画観客の質も高いということの要因の一つになっていると思う。
世界映画の現状に日本人が疎いことの原因としては、国内の閉鎖性とアメリカ経由の情報への偏りによると思う。ハリウッド映画の世界戦略は日本映画には通用しないということをもっと知るべきである。もしハリウッド映画に憧れるのであれば現地へ行けばいいのであって、誇大妄想にも「ハリウッド映画に匹敵する映画」の実現を日本において目指すべきではない。
●「Yulenka」予告編
この監督の作品はまだ見たことがないので、ジャウム・コレット=セラの「オーファン」の便乗でソフト化希望。
●芸術家の価値観
ドストエフスキー 作家の日記 一八七六年一月 小沼文彦訳
「自殺者ウェルテルは、いよいよ自殺をはかろうとするときに、その遺書の最後の何行かで、もはやこの「大熊座の美しい星の群れ」が見られなくなるのを悲しんで、それに別れをつげている。ああ、この短いどきりとするような表現の中にそのころやっと人生の道を歩みはじめたばかりのゲーテの素顔がどんなによく現れていることか!それにしてもこの星座が若いウェルテルにとってそれほど尊いものであったのはなぜであろうか?それはほかでもない、この星の群れに観照の目を向けるたびに、自分はこの星に引き比べて決してただのアトムでもなければ無でもない、こうした神の手になる数限りのない神秘的な奇跡も決して自分の思考に較べて高いものではない、自分の意識より高いものではない、自分の精神の中に秘められている美の理想より高いものではない、したがって、自分とは同等で自分を存在の無限性に近づけてくれるものである。・・・・・そしてまた、自分とは何者であるかということを掲示してくれる、この偉大な思想を知覚できる大きな幸福に対して自分が恩義を感じなければならないのは ― 自分の人間としての顔だけであることを、つねに自覚したからである。
「偉大なる霊よ、そなたがこの私に人間の顔を与えてくれたことに対し、わたしはそなたに感謝する」
偉大なゲーテの一生を通じての祈りはおそらくこのようなものであったに相違ない。」
この文章の後には、例によって皮肉めいた話がならんでいる。
●ジョン・ノイマイヤー
バレエには詳しくないが、数年前に深夜にテレビで見て心奪われた。彼の表現力に本物を感じた。ちょっと怖いような奇妙な感覚が力強さとともにグッとくる。