原石鼎

一枝の椿を見むと故郷に
 『頂上の石鼎』 深夜叢書刊

神の瞳とわが瞳あそべる鹿の子かな    大正11年

2012年05月24日 | 5月・石鼎俳句鑑賞
奈良にて九句(大正11年7月号「鹿火屋」)

  人の前に生み落とされし鹿の子かな   
  ふるひ落つ一片の葉に鹿生る  
  生るゝや親にねぶられ芝鹿の子
  神の瞳とわが瞳あそべる鹿の子かな
  苔と陽のみどりに育ち鹿の子かな
  鹿の子とぶよ杉の張根を越え越えて
  鹿の子よ歯朶踏みはづすことなかれ
  雨の日の親をはなれぬ子鹿かな
  雨に立つ親をかぎたる子鹿かな

 夏の季語である鹿の子は、秋から冬、そして春へという長い妊娠期間を経て産み落される。それも一匹しか産まれない。人の前で産み落された子鹿は30分もすれば立ち上がるらしい。か細い脚でおぼつなくも歩み出した子鹿を見守っていると何かへ祈りたいような心持が生まれたのだろうか。あるいは、鹿の姿から神の存在を感じたのだろうか。

 もともと、鹿は神の使いとして境内に保護されているところが何箇所もある。中でも奈良公園の鹿は知られている。公園に棲んでいる鹿は、子を産むときも公園の中だ。一連の句を見渡すと、石鼎は長い時間を使って鹿を眺めていたようだ。

 一句は、鹿の子を不思議な角度から描いている。鹿の描写をするのではなく、鹿を見ている側の描写をしているのでもない。ただ、対象への視線を述べることで鹿の子への慈しみを現わしているのである。

 鹿の子ならずとも幼い姿は、万人の視線を引きつけてやまない存在である。無心ということばをいちばん実感するのも生まれたばかりの生き物の瞳に出合うときである。動物の微動だにせず向けられた視線の透徹さに、わけもなくたじろいでしまうことがある。

 「神の瞳とわが瞳が遊ぶと」は、鹿の子を見つめる作者の心情なのだ。だからこそ目でも、眼でもなく、瞳という文字が置かれたのである。そこに神に守られている子鹿を感じるのは作者の自然神信仰である。

 初出の大正11年7月号「鹿火屋」にある九句は『花影』にも収録さている。奈良公園で得た一連の句は、虚子の提唱していた客観写生の方向に添っている。しかし、冒頭の「神の瞳」の句はそれとは少し距離をおく主観の強い作品だが、それが人々に膾炙されていくのも興味ある現象だ。

――自然に対して忘我の境なるまで観察し、それを書きだすということが即ち「写生」をするということに外ならない(大正11年12月号「鹿火屋」)――と石鼎は同じ年度の雑誌で述べている。あくまで虚子の客観写生論を基本においた俳句論である。冒頭の句は写生の果てに生み出された作品であることを知れば、俳句の可能性への奥行きを教えられる作品でもある。(岩淵喜代子)
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 岩壁に鼻突き死にし翡翠かな    大正13年

2012年05月15日 | 5月・石鼎俳句鑑賞
 俳句を詠む時に命の尽き果てた生き物を詠むことがどれほどあるだろうか?すぐに思い浮かぶものは蝉の骸だが、大抵の俳句(俳人)は命の躍動を観察し、発見し、感動に一句が成るのである。ところが石鼎の集中には生き物の死そのものを詠んだ句が散見され、たいへん興味深い。
 
 山里へことづかりたる狸かな (大正4年)
 鞠の如く狸おちけり射とめたる (大正4年)
 うたれ雉子を灯によせてみる霜夜かな (大正9年)
 
 死を情動的に捉えるというよりは、客観的な視線で表現しているといっていいだろう。徹底的な視線で死そのものを把握しようとするところに、石鼎のスタイルがあるのだ。掲句のすぐ前には、< 飛ぶやはや嘴に物獲し翡翠かな >の句があり、翡翠の生と死の対比が一層際立つ。
 
 練馬の石神井公園で、命を落とした翡翠を見たことがある。くたくたとした首に、きらきらとした羽根の色はそのまま、片手の窪に乗るほどの大きさであった。掲句の翡翠が「岸壁に鼻突き死」とあるように、石神井公園の翡翠もおそらくは文化館のガラス戸に衝突したのであったにちがいない。鳥の死とは思えない生々しさは、「鼻」の謂いのせいであろう。石鼎の視線に捉えられ一句に表現された翡翠の死は、いかにも壮絶である。儚いものの象徴として死を捉えているのではないところが、石鼎らしさであろうか。(清水和代=春塘) 
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行春の水を滑りぬ水馬    大正13年

2012年04月30日 | 4月・石鼎俳句鑑賞
 石鼎俳句の中七の妙には、いつも唸らされるのであるが、掲句の「水を滑りぬ」という表現も、平然と見ているさまに見えて、どこか空恐ろしいものである。
 水馬は夏の季語で、水面をすいすいと走り回る細長い虫であるが、今ここにある水馬は、すいすいとまではいかない感じの一と滑りである。そこには、去りゆく春をちょっと後追いしたいような心がこもっていそうである。
「行春や」と一旦切らずに、「行春の水を滑りぬ」と行く春を水につなげてひっぱったところの微妙な感覚も水輪のひろがりをひそやかにしている。
 華やかであった春も尽きんとしている、ふとした哀愁が、まるで氷上のそれのようにどこまでも透き通っているさまは見るからに清らかである。
 今思わず、「ふとした」と言ったが、このふとした気持ちに寄り添ってきたのが、「水を滑りぬ水馬」そのものであったのだろう。
 はからいを一切見せない句である。
 
 ちなみに「水馬」の句を夏の歳時記に拾うと、

  静まれば流るる脚やみづすまし      太祗
  松風にはらはらととぶ水馬        虚子
  水すまし水に跳ねて水鉄の如し      鬼城

など、水馬の生態がいかにもあきらかである。
 ここであらためて、「行春」を主題とする石鼎の水馬は、「水に流るる」ものでなく、「水に飛ぶ」ものでなく、「水に跳ねる」もののでもないことを思い知るのである。

 ところで、石鼎の「行春」の句は、他にも好きな句が多い。

 行春や古毛の中の棕櫚の苞        大正12年
 行春の棕櫚の古毛に埃かな           〃
 行春の遠火事も見て別れ哉           〃
 行春や庭の夕のさみどりに         昭和4年
   不老館の蚊帳の内より塩竈の社見ゆ    
 行春の塩竈様は我のもの          昭和5年
 行春や朽ちて葉にのる八重椿        昭和9年
 行春や古炉へまでも花の風         昭和10年
 行春の古炉へまでも花吹雪           〃

 行春という、ある種茫洋として、つかみどころのない季感を味わう心境には、今生きてここに在る、私のいのちの鼓動を聞きとめようとする無意識の静けさがはたらくのではないだろうか。
 取り残されたいのちといった感慨もあるだろう。
 そんな私一人のつぶやきは、誰にわかってもらえなくてもいい、そういう穏やかな思いの中にあって、これこそは私の行春へのしんじつの手向けですよという、頑然たる強さも端々に匂わせるのである。

(草深昌子=晨)
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一枝を山の上より山椿    昭和24年

2012年04月22日 | 3月・石鼎俳句鑑賞
 俳句は短い詩形のため、一句を読み始めるとき既に下語まで視野が届いていることが多い。そのために一枝という初語から,読み手は椿の枝をイメージしながら読み下ろしているのである。だが、これが一文字ずつ画面に現れてきたら、「一枝の」と言うときにはたくさんの植物を引き寄せてくることになる。そうして、その次の「山の上」の表示によって、それまで引き寄せてきていた草木からそれに相応しい一枝へと絞りこまれていくだろう。そんなことを想像していると下語へゆきつくまでに随分と活気のある空気が生み出される。

 いずれにしても、椿の花はいつ出会っても鮮やかである。まして山椿の小振りな花の深紅は、人の目を引く強い色合いである。一枝といってもかなり大ぶりな枝を切り取ったのではないだろうか。芽吹いたばかりの山中を背景にしながら、一枝の椿はその重量感を見せながらゆさゆさと山路を運ばれてきたのが絵画的に浮かび上がる。提示されているのは一枝の椿だけ、人影も消して極めて単純な構図となっている。その単純さゆえに椿が化身のように存在感をもつ。

 一枝といえば昭和10年作の(一枝の椿を見むと故郷に)が思い出される。終生変わらない石鼎の俳句の詠み方がここにある。小さな焦点の輪郭を明確に描きながら、そのうしろにかぎりない奥行きを感じさせる手法、それは目前のものを視野に入れながら遥かなものへ心を遊ばせているからである。

   日輪をめぐる地球になめくぢり     大正4年
   青天に飼はれて淋し木兎の耳      大正8年
   烈風や月下にさわぐ緋桃あり      大正11年
   青天や白き五瓣の梨の花        昭和11年
   神棚の燈のふもとなる炬燵かな     昭和14年
   夕月に七月の蝶のぼりけり       昭和25年
   大空と大海の辺に冬籠る        昭和26年
   朝戸繰りどこも見ず只冬を見し     昭和24年

                             (岩淵喜代子)
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石鼎忌によせて   

2012年04月20日 | 石鼎資料
石鼎忌に寄せて   筆者 山崎隆司(大社史話会会員)

 長引く不況が、平成の世の人々の生きる力を奪いつつあるように思われる。明治中期に幼少年時代を過ごした俳人、原石鼎(出雲市塩冶町出身、昭和26年12月20日に65歳で死去)の場合、彼の育った医家、原家の人々の生き方はどぅであったか、またそれが]石鼎の生き方にどう受け継がれていったのか、考えてみたい。
 恐らく石鼎の父ノ元利の手になるものであろう小冊子「原家系統」がある。その中に、明治初期の米価の高騰による原家の窮乏を伝える次のような記述がある。
「この節子供8人に兄弟かれこれ14人の多人数にて活計に困り(中略)口々の米飯に困却、やむをえず、7表掛けの地所を売却」この生活苦に対応した石鼎の祖父・2代如春、父の3代元利の生き方は、気骨あるものであった。
 如春は医術を生かし一家14人の大家族を養うために、飯石の山中深く分け入った。
 そして阿井村のの鉄山師、桜井三郎右衛門家に頼み込んで、住み込み医師としての職を得、村の医療にも携った。
 原家の初代養節は、針療を業とする村でも名のある存在であった。その子如春の夢は、医家としての原家の礎をしっかりしたものにすることであった。そのために若き日の如春は難波(大阪)へ上り、長崎へ下って医術を身につけ、一度は故郷でささやかながら医業を始めた。しかし「医は仁術なり」とする尊大な態度が村民に受け入れられず、あまり振るわなかった。
 阿井村における医者としての業務は高齢ゆえをもって1年ほどで長男元利に譲った。原家は、一家の主が飯石の阿井村に単身赴任するという、当時としてはまれな生活形態となった。だが、母タダは寂しさに耐え、家を守り、子供の養育に専念した。
 幼き日の石鼎の記憶の中には、8番日の子・四男を出産した母が難産で、その報に接した父が、任地阿井村から夜を徹して「原家系統」窮状を記した
 早駕龍(はやかご)で帰ってきたひたすらな姿がある。父は母を気遣い、新しい生命の誕生を心から喜んだ
 元利は山間の村で20年間医者としての勤務に耐え、その間多額の報酬を得、一家を養い、明治20年ごろには家を移転新築した。夢にまで見た新しく整備された原医院の誕生であった。
 石鼎も、将来の進路をめぐって父との確執はあったが、俳句でI家をなそうとする夢を絶や
すことはなかった。
 上京6年後の大正10年には、俳誌「鹿火屋(かびや)の創刊に立ち上がる。
 3号誌に終わらせないための金の工面には、並々ならぬものがあった。まず、石鼎の才能と人柄を慕って集まった同好の士の支えがあった。俳画という特技を生かしての俳画展は、新聞社などの後援を得て、前後6回にわたり問催した。I回目の純益は2千円にも上り、俳誌発行に伴う赤字の補填(ほてん)に使われた。
 関東大震災では、原稿を消失しながらも、2ヵ月後には「鹿火屋」を刊行。太平洋戦争の末期、極度の紙不足の中でも、一時期を除いて「鹿火屋」の刊行を続けた。学問と芸術を愛し、来る者拒まずの優しい人柄で、一見ひ弱そうに見えた石鼎の心の中には、ふるさとの祖父や父母に見た価値ある未来の夢に向かって強靭(きょうじん)な精神力で、立ち向かう生き方が、終生息づいていたのである。(2011年12月 山陰中央新報転載)
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金屏に灯さぬ間あり猫の恋    大正六年

2012年04月19日 | 4月・石鼎俳句鑑賞
 クリムトは金を多用した。「接吻」は、もしあの金の多用がなかったら、ずいぶん違った絵になっていただろう。というよりも、金色があの絵を底から支え、趣の深いものにしている。肖像画としては特異な作品の数々も、顔は写実だが、そのほかの部分は金がふんだんに使われた。クリムトの絵を見ていると、金色は何と官能的な色だろうと思う。だがその装飾過多の金色は、華麗さゆえのはかなさがあり、深い哀しみが滲み出ているようだ。

 金屏風が置かれた薄暗い座敷は、谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』を思い出す。

 諸君はまたそういう大きな建物の、奥の奥の部屋へ行くと、もう全く外の光が届かなくなった暗がりの中になる金襖や金屏風が、幾間を隔てた遠い遠い庭の明りの穂先を捉えて、ぼうっと夢のように照り返しているのを見たことはないか。その照り返しは、夕暮れの地平線のように、あたりの闇へ実に弱々しい金色の明りを投げているのであるが、私は黄金と云うものがあれほど沈痛な美しさを見せる時はないと思う。そして、その前を通り過ぎながら幾度も振り返って見直すことがあるが、正面から側面の方へ歩を移すに随って、金地の紙の表面がゆっくりと大きく底光りする。

 あまりにも魅力的な文章に、いつまでも引用したくなってしまう。

 谷崎は、金蒔絵が暗い部屋でこそ、その本領を発揮するともいっていた。蒔絵が猫のようにも思えてくるのは、私だけだろうか。

 金屏風が置かれた座敷。大きな机に向い男が座っている。膝の猫を撫でながら、男は蒔絵の箱を見ている。蝋燭の灯りがふっと消えたが、その男は身じろぎもしないで、じっとそれを見つめている。(有住洋子)
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花影婆娑と踏むべくありぬ岨の月     大正2年

2012年04月09日 | 4月・石鼎俳句鑑賞



偶然手に入れた昭和23年 かびや会発行『石鼎句集』には石鼎の揮毫が見返し頁にあった。本の代金よりも高額だと思う石鼎の書がおまけであった。句はタイトルに置いた「花影婆娑と踏むべくありぬ岨の月」。



この句集は昭和23年に、筆を絶っていた石鼎が再び俳句を作りだす弾みになったもの。

――石鼎の唯一の自選句集名『花影』が、この句に拠ることはあまりに有名だが、それを言わないと始まらないのである。深吉野の旧居から高見川沿いに二キロほど下ったところ、天誅組湯ノ谷墓所に近い谷間、そこで、冒頭の句を得た。高見川を背にすると山肌のなだれ合う場所に、今は小さな句碑もある。そこからさらに高いところを、杣径なのか獣径なのか、県道と並行にかすかな小径の通っている気配がある。花影はそのかすかな径のあたりの山桜の古木が落としたもの。
 外灯などない時代だから、夜道を歩くときは提灯が必要だったが、きっとその日は月明かり、それも中天の満月だったのだ。真上の月光は枝の重なりが地面の影に濃淡をつけていた。石鼎は岩清水があたりから流れ出しているのだと思った。あたかも、地面が濡れているかのような錯覚で、踏み出す足を思わず引いてしまうほどの驚きであった。
 この場面を想像したときに、吉行淳之介のエッセイ『猫踏んじゃった』を思い出した。車を避けようとしてよろけたときに、その車が轢いた猫を見てしまう。その屍骸が平たく車の下に黒く広がっていた。それはまるで一枚の影絵のようだったと、とある。
 地面に広がった桜の影にはそんな濃さと重量感があったのではないだろうか。それから空を仰いで、月を確かめ桜の木を確かめて、もう一度、影であることを確認するという時間差が、「花影婆娑と」の言葉に集約されている。
 鍵谷基保の話によると、桜は古木になると幹に空洞が出来てしまって立ち枯れていった。現在の桜はその後に植えられたものである。こうした光景もまた出会いである。その日、月夜でなければ、桜の影など生れなかった。

   さまざまな事思ひ出すさくらかな  芭蕉
   ゆさゆさと大枝ゆるる桜かな  村上鬼城
   遠山へ喪服を垂らす花の昼    桂信子
   夕桜折らんと白きのど見する  横山白虹
   山桜雪嶺天に声もなし    水原秋櫻子

 古今の句を拾ってみても、桜はなかなか佳吟がないものである。哲学観念、宗教観念を背景にしたり、文学観念の踏襲に凭れがちになったりする扱いにくい季語なのである。
だが、石鼎の句には、そうした観念を滑り込ませる余地がない。『踏むべくありぬ』は踏みそうになってしまった、という驚きを含んだ臨場感を表出している。行きすぎようと足を下ろす瞬間に出会った桜の影に驚く様子が瞬間的である。俳句は一瞬を切り取るものである。瞬間的であればあるほど、その瞬発力が、読み手の心への浸透力になる。
 虚子は客観的に叙するなら、「花影婆娑と路上にあるや岨の月」とでもいうべきなのだろうが、作者の興奮した感情は、そのような表現では物足りなかったのであろう、と評している。客観叙法では言い足りなくて「踏むべくありぬ」という主観叙法は「それなら踏んでやろう」という言葉を内包して花影に打ち興じる心持が強く表現されていた。
作 品は、創作者の心と一致する言葉が見つかったときに落ち着くものである。丁度、カメラのピントが合った瞬間のようなものを感じるときがある。虚子の「作者の興奮した感情はそういう冷やかな客観叙法では満足出来ないで‥‥」は、まさに石鼎の俳句表現へのピント合せなのである。(岩淵喜代子著『頂上の石鼎』より)
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雨を来し人ひとくさし桜餅     大正12年

2012年03月31日 | 3月・石鼎俳句鑑賞
 桜餅と言えば先ず虚子の句が思い浮かぶ。

  三つ食へば葉三片や桜餅      虚子

 人を食ったような句であるが、大阪から東京に引っ越して間無しの頃、向島の長命寺さくら餅をいただいた時、あまりにもこの通りであることに笑ってしまった。
 暗黙のうちにおいしさが通っている。

 石鼎の桜餅の句は全句集の中に二句ある。
 掲句の前に、

  雨を来し人の臭ひや桜餅      大正12年

がある。
 セルのような毛織物であろうか、雨に濡れて少々臭ったのであろう、桜餅に雨の日の情趣がかぶさったものである。
「雨を来し人の臭ひや」はとりあえずの句であろう。
やがて、その臭いは雨を運んでやってきた、生身の、呼吸している人間の臭いであると、人なつかしくうけとめたのである。
「雨を来し人ひとくさし」と、畳みかけるように、作者の見た通り、感じた通りに書きなおしている。
ここには虚子のあほらしさはなくて、石鼎の五感が蠢いている。
虚子の句はいつなんどき食べても桜餅は桜餅であると突き放しているが、石鼎の桜餅は「ひとくさし」でもって、その時ならではの桜餅の味わいを文字通り咀嚼しなおさねばならないものになっている。

 桜餅らしい屈託のなさが虚子であり、桜餅らしい粘っこさが石鼎であろうか。

 ところで、大正11年に柳の句がある。

  お神輿の荒れて過ぎたる柳かな      大正11年

全句集において、この次に来るのが、

  神輿荒れもみにもみたる柳かな      大正11年
 
である。
「桜餅」と同様に、「柳」も又、はじめは、「荒れて過ぎたる」と実況報告的であったが、のちに「もみにもみたる」といっそう明確、具体的になった。
而うして、柳の最も柳らしい揺れかたが再現されるという趣きである。

 石鼎の全句集を繙いて、こういう手の内を覗かせてもらうような句に出会うと、石鼎の「ひとくささ」がひとしおなつかしく匂ってくるものである。(晨=草深昌子)
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春雷やひそと嗅ぎ合ふ犬と犬    大正9年  

2012年03月29日 | 3月・石鼎俳句鑑賞
 「春雷や」とあるので、昨日の午後のようなお天気模様だったのだろうか。私は犬を飼ったことがなく犬の生態にまったく無知なので、実のところ「ひそと嗅ぎ合ふ」をどうとらえていいのか分からないのである。挨拶のようなものか、敵情視察なのか、嗅ぎ合っている「犬と犬」が子犬同士なのか、親犬と子犬なのか、あるいは雄犬と雌犬なのか。しかし、「春雷」の季語とともに、中七下五のさみしみがなんとも言いようもなく、印象的なのである。

 石鼎の句集を繰っていくと、昭和7年には 春光やかぎろひて寄る馬と馬 の一句が見つかる。上五の春の季語を「や」で切り、下五に「馬と馬」と置いたところは、掲句とほぼ同じ作り様といっていいだろう。一人の人間が俳句を作り続けるということは、知らず知らずのうちに同じテーマをいく度も繰り返し、形を変えて作り続けるということなのだと身に沁みて思うのである。石鼎のさみしみは、形を変えつつも消えようもないものなのであろう。

 「犬と犬」「馬と馬」は、眼前の犬と馬を捉えたには違いないのだが、犬も馬も人間そのものの比喩のような気がしてならない。一個体が一個体と出会い、弱みを隠しつつ、あるいは曝しつつ、時に寄り添い尊重し合いもするが、決して重なり合う同一の個体ではないのだ。犬と犬、馬と馬、人と人、個は個のままに自我を保たねばならないのである。悲しみの本質がそこにこそあると言いたげなのである。さみしさが吃水線を超えなんとする寸前の一句であろうか。(清水和代=春塘) 
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三月は鳥も啼かずに暮れにけり    昭和16年

2012年03月26日 | 3月・石鼎俳句鑑賞
「鹿火屋」昭和16年5月号所収。一気呵成に詠まれた句意は説明する必要もないほど明瞭だ。その上、事立てするほどの句でもないのだが、三月は鳥も啼かないで過ぎたという叙述の異常さに立ち止まった。例えば雀が、あるいは土鳩や鴉が啼くのを一度も耳にしない月などは特別な環境であるように思える。あるいは誇張し過ぎに思える。

 この句を詠んだ昭和16年とは、石鼎が松沢病院に入院していた時期である。この入院中の句を見渡すと、視点は殆ど天空へ投げられ、鳥が詠まれていない。身近に木立などが無かったのかもしれない。入院して最初に詠んだのは(武蔵野の真夏の草を見にも来よ)である。病室は広大な敷地の中にあった。

 また、この句には(有感)という前書きがある。この前書きもまた書かでもの感を抱くのであるが、あえて書き込む理由があったのだ。昭和16年2月に次兄の運市が亡くなった。この兄が居なかったら吉野という風土と縁が無かっただろう。次兄運市の亡くなった悲しみに過した日々が(三月は)という断定的な言葉使いになったと推察している。

   一つ一つ岩にこぼれし千鳥かな    大正14年
   啄木鳥の羽美しくうつりけり     昭和4年
   美しき鳥来といへど障子内      昭和7年
   雪に来て美事な鳥のだまり居る    昭和8年

 鳥を詠んだ作品を拾うと、鳥は石鼎にとって美意識あるいは喜びの象徴となっている。このことに注目すると、鬱々と過した日々が前書きとともに存在感を持つのである。(岩淵喜代子)
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石鼎はどちら利き

2012年03月25日 | 石鼎余滴
 リコーダーは指穴の一番下が右手でないと使えないようなやや斜めのかたむき孔になっているのですが、尺八はどうやら穴がまっすぐで、孔が手を決めるわけではなさそうです。だから、利き手がでるのでは?と思います。写真の裏焼きかもと思ってみましたが、着物の打ち合わせが正しいので、写真のミスではなさそうかと思いました。
 ネット上で尺八の画像を見ると、石鼎の持ち方は、マイノリティーのようですね。無いわけではないですね。漱石も子規も左利き、左利き派閥はさぞかし暮らしにくかったことでしょうね。(一番の問題は、筆、刀、刃物、馬、だったと思いますが)


 鑑賞を書いてくださっている清水さんから、石鼎は左利きだったのでしょうか、とう以上のメールを頂いた。ふらんす堂刊の文庫本『原石鼎句集 吉野の花』の扉にある尺八を吹いている石鼎を見て気がついたようである。

 少年時代の思い出を書いた大冊の『石鼎窟夜話』にはそうした話は載っていないように思う。また夫人の著書『石鼎とともに』でも、そうした話は出てこない。どちらにしても筆は右手にもっただろう。そうでなかったら、弟子の誰かが一度くらいは石鼎の利き腕についての話をしたのではないだろうか。

 あらためて、『石鼎窟夜話』を開いてみることにする。(岩淵喜代子)
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春寒く座敷掃く間を待ちにけり    大正14年

2012年03月19日 | 3月・石鼎俳句鑑賞
冬の寒さは覚悟が出来ているが、春のそれは期待を裏切られたような理不尽さが加わって、ことさら身に堪えるものである。生活の中に雛段が据えられたり、お水取りの便りが聞こえる季節になっても、なかな暖かくはならいものである。

 家中を開け放って掃除をしていた家人がいよいよ石鼎の部屋にまで及んできたのである。障子の内に籠っていた作者がしぶしぶ牙城を明け渡して廊下に立てば、梅が咲き始めているのを目にしたかもしれない。それでも、冷たい外気が一気に押し寄せ、寒さをことさら意識する瞬間である。部屋を追われた無聊の姿が「待ちにけり」に集約されている。中からは、箒を使う音、はたきが障子を打つ音もしてきそうだ。

 たかだか掃除の間の待ち時間のようであっても、それもまた人生に積み重ねられていく時間の一つである。日々繰り返されていく日常の一駒が、俳味を醸し出している。「座敷掃く間」の「掃く」もまた掃除機を使う現代になれば懐かしいことばとなる。

 この句の大正十四年に住んでいたのは龍土町、現在の六本木である。初めに「秋晴れや二階六畳下六畳」と詠む一軒家を借り、後に隣の平屋建ての家も借りて「鹿火屋」を発行していた。大正十二年の関東大震災後の精神不安定さが長引き、虚子との軋轢も尾を引いていたが、原石鼎という作家はそうした重苦しさをほとんど詠まなかった。俳句が身辺を詠んでいるように見えて遥かを遠望しているからである。(喜代子)
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彼岸会を燃えて居るなり大香炉    大正11年

2012年03月16日 | 3月・石鼎俳句鑑賞
 3.11から丸一年が経ち、あらためて災害の大きさが浮き彫りにされている。このような大災害は、時間が経つにつれ、その大きさ、深さが見えてくるような気がする。ようやく見えてきたのかもしれない、とも思う。

 世界中、あらゆる場所で災害は起こっている。日本も数えきれないほどの自然の異変を経験してきた。地震、津波、大水。かつては飢饉で多くの人が亡くなった。今は人為的な放射能汚染が加わった。これからも地震や津波は起こるだろう。くりかえし自然の異変は起こるだろう。そのたびに、人の命が失われる。
 人の命は、地震や津波で失われるとは限らない。病気や怪我で亡くなる人の数もまた多い。医学がどれほど発達したとしても、それを完全に打ちのめすことはできない。

 今までに、どのくらいの人が彼岸へ渡っていったのだろう。
 ひとつひとつの命が燃えて灯となっている。灯はいくつも集まって、やがて大きな炎となる。炎の勢いは増すばかりである。
 ごうごうと音がする。炎の燃える音に混じって、ほかの音がする。いろいろな音、声が混じっている。さまざまな思いが浮び上がる。その全てを包み込み、炎は燃えている。焼いて浄化しながら、なおも燃えている。

 大香炉の中が燃えている。その燃え方は激しく、香炉が熱くなっているのでないか、とまで思える。燃えているのは香炉の中だけだろうか。一時的に燃えているだけだろうか。すさまじいとも思える掲句の勢いに、何もかも巻き込んで、消えることのない炎を感じている。
 大香炉も、命も、さまざまな思いも、激しく燃え続けている。(有住洋子)
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くもり来て空ばかりなる梅林    大正13年

2012年02月29日 | 2月・石鼎句鑑賞
 梅林は、一つの丘であったり、一つの山の凹みであったりすることが多いから、そこから見渡せる空の青さは格別である。
さっきまで、空には真綿のような雲が幾つも浮かんでいた。そんな雲の一片が日輪の前を通りかかると、あたりは白光してかえって眩しくもあった。
 だか、午後になって、急に曇り始めると、いつしか数多の雲は空にとけて一つもなくなってしまった。空は一面、うっすらと翳って、しろじろとあるばかりである。
晴れ間には酒旗の一つぐらいは揺れていたかもしれないし、梅のみならず何かしらが目に飛び込んでいたであろう。よし曇ってきたとしても「空ばかりなる」筈はないのであるが、そうとしか言いようがないのが石鼎の詩情である。

 上から下へすっと一本の線を引いたような簡潔な描写は、そのまま春の寒さを物語り、「空ばかりなる」というつぶやきは、そのまま作者のうっとうしさである。
 そして結句にきて、俄かに「梅林」のありようがクローズアップされるという塩梅である。梅の咲きようも今一歩のように思われる。

 翌年に、

    日高さにまぶしき梅の一枝かな     大正14年

がある。こちらは、日の高きことを手放しに喜んでいる、健康的な心の力強さがうかがわれる。
 客観写生の裏には情が濃く潜んで在ることを、この二句からも気付かされるのであるが、「梅林」は「日高さにまぶしき」ものでなく、「梅の一枝」は「くもりきて空ばかりなる」ものでないことは明白である。
「梅林」を掴み、「梅の一枝」を掴むことにおいて、焦点の絞り方はさすがである。

 100人いたら100人が見る見方ではない、101人目の目とでもいうような石鼎のものの見方が、「くもりきて空ばかりなる」なのである。誰しも空を見ると救われるのであるが、掲句の空は必ずしも救われるような空ではない。
 空に執するところが石鼎の独創性であろう。

 昔、「鹿火屋」の最古参の同人の方から俳句は「真善美」であると教えられた。それはやはり原石鼎から学ばれたものではないかと思っている。
 石鼎の人口に膾炙する句はあまねく真善美であるが、全句集を繙くと、マイナーなるものも、意に介せず思うままにどんどん詠み込まれていて面白い。
 人の世に生きる人間として、偽りのないものの見方というものが強固な裏打ちとなっているからこそ、石鼎の俳句は今に生きているのではないだろうか。 (草深昌子=晨)
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月影に春の霰のたまり居り    昭和10年

2012年02月22日 | 2月・石鼎句鑑賞
 母危篤の電報により即刻帰省 と前書のある一連の中で、掲句はひと際、寂漠感に包まれている。しかもこの景色はうつくしい。霰が降ったあとには月が出ている。あれほど激しい音を立てて落ちてきた霰だが、地上にばら撒かれてからはもう、音を立てることも動くこともない。あるとことは霰が少なく、あるところは多くたまっているが、なぜか、月が射さない影のところに、たくさんたまっているようだ。あたりは静まり返っている。
 何だか死の国の景色のように思われる。

 掲句の次の句は 月影の春の霰を踏まうとす なのだが、上五中七は、てにをはが違うのみ。石鼎はなぜ霰を踏もうとしたのか。踏もうとして、そして実際に踏んだのだろうか。足を上げて躊躇している石鼎が見えるような気がするが。
月影に虚ろにたまっている霰を、たとえば死の象徴として石鼎が感じていたとするとどうなのだろう。踏むと、死神は母から去るかもしれないと思ったかもしれない。あるいは、そういう捉えどころのないものを踏むことによって、自らの内に死を取り込んでしまう怖さがあったとも考えられる。踏もうとしたが、どうしても踏めなかったかもしれない。

 この時の帰省では、御母堂は快方に向かわれた。が、翌月には死去された。石鼎もいよいよ病いが深刻になってゆく。    (有住洋子)
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