奈良にて九句(大正11年7月号「鹿火屋」)
人の前に生み落とされし鹿の子かな
ふるひ落つ一片の葉に鹿生る
生るゝや親にねぶられ芝鹿の子
神の瞳とわが瞳あそべる鹿の子かな
苔と陽のみどりに育ち鹿の子かな
鹿の子とぶよ杉の張根を越え越えて
鹿の子よ歯朶踏みはづすことなかれ
雨の日の親をはなれぬ子鹿かな
雨に立つ親をかぎたる子鹿かな
夏の季語である鹿の子は、秋から冬、そして春へという長い妊娠期間を経て産み落される。それも一匹しか産まれない。人の前で産み落された子鹿は30分もすれば立ち上がるらしい。か細い脚でおぼつなくも歩み出した子鹿を見守っていると何かへ祈りたいような心持が生まれたのだろうか。あるいは、鹿の姿から神の存在を感じたのだろうか。
もともと、鹿は神の使いとして境内に保護されているところが何箇所もある。中でも奈良公園の鹿は知られている。公園に棲んでいる鹿は、子を産むときも公園の中だ。一連の句を見渡すと、石鼎は長い時間を使って鹿を眺めていたようだ。
一句は、鹿の子を不思議な角度から描いている。鹿の描写をするのではなく、鹿を見ている側の描写をしているのでもない。ただ、対象への視線を述べることで鹿の子への慈しみを現わしているのである。
鹿の子ならずとも幼い姿は、万人の視線を引きつけてやまない存在である。無心ということばをいちばん実感するのも生まれたばかりの生き物の瞳に出合うときである。動物の微動だにせず向けられた視線の透徹さに、わけもなくたじろいでしまうことがある。
「神の瞳とわが瞳が遊ぶと」は、鹿の子を見つめる作者の心情なのだ。だからこそ目でも、眼でもなく、瞳という文字が置かれたのである。そこに神に守られている子鹿を感じるのは作者の自然神信仰である。
初出の大正11年7月号「鹿火屋」にある九句は『花影』にも収録さている。奈良公園で得た一連の句は、虚子の提唱していた客観写生の方向に添っている。しかし、冒頭の「神の瞳」の句はそれとは少し距離をおく主観の強い作品だが、それが人々に膾炙されていくのも興味ある現象だ。
――自然に対して忘我の境なるまで観察し、それを書きだすということが即ち「写生」をするということに外ならない(大正11年12月号「鹿火屋」)――と石鼎は同じ年度の雑誌で述べている。あくまで虚子の客観写生論を基本においた俳句論である。冒頭の句は写生の果てに生み出された作品であることを知れば、俳句の可能性への奥行きを教えられる作品でもある。(岩淵喜代子)
人の前に生み落とされし鹿の子かな
ふるひ落つ一片の葉に鹿生る
生るゝや親にねぶられ芝鹿の子
神の瞳とわが瞳あそべる鹿の子かな
苔と陽のみどりに育ち鹿の子かな
鹿の子とぶよ杉の張根を越え越えて
鹿の子よ歯朶踏みはづすことなかれ
雨の日の親をはなれぬ子鹿かな
雨に立つ親をかぎたる子鹿かな
夏の季語である鹿の子は、秋から冬、そして春へという長い妊娠期間を経て産み落される。それも一匹しか産まれない。人の前で産み落された子鹿は30分もすれば立ち上がるらしい。か細い脚でおぼつなくも歩み出した子鹿を見守っていると何かへ祈りたいような心持が生まれたのだろうか。あるいは、鹿の姿から神の存在を感じたのだろうか。
もともと、鹿は神の使いとして境内に保護されているところが何箇所もある。中でも奈良公園の鹿は知られている。公園に棲んでいる鹿は、子を産むときも公園の中だ。一連の句を見渡すと、石鼎は長い時間を使って鹿を眺めていたようだ。
一句は、鹿の子を不思議な角度から描いている。鹿の描写をするのではなく、鹿を見ている側の描写をしているのでもない。ただ、対象への視線を述べることで鹿の子への慈しみを現わしているのである。
鹿の子ならずとも幼い姿は、万人の視線を引きつけてやまない存在である。無心ということばをいちばん実感するのも生まれたばかりの生き物の瞳に出合うときである。動物の微動だにせず向けられた視線の透徹さに、わけもなくたじろいでしまうことがある。
「神の瞳とわが瞳が遊ぶと」は、鹿の子を見つめる作者の心情なのだ。だからこそ目でも、眼でもなく、瞳という文字が置かれたのである。そこに神に守られている子鹿を感じるのは作者の自然神信仰である。
初出の大正11年7月号「鹿火屋」にある九句は『花影』にも収録さている。奈良公園で得た一連の句は、虚子の提唱していた客観写生の方向に添っている。しかし、冒頭の「神の瞳」の句はそれとは少し距離をおく主観の強い作品だが、それが人々に膾炙されていくのも興味ある現象だ。
――自然に対して忘我の境なるまで観察し、それを書きだすということが即ち「写生」をするということに外ならない(大正11年12月号「鹿火屋」)――と石鼎は同じ年度の雑誌で述べている。あくまで虚子の客観写生論を基本においた俳句論である。冒頭の句は写生の果てに生み出された作品であることを知れば、俳句の可能性への奥行きを教えられる作品でもある。(岩淵喜代子)
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