歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

昔話は為になる(桃太郎 三世十方を貫くもの、貫かないもの)

2020年05月10日 | 語り継ぎたい昔話
昔話は為になる(桃太郎 三世十方を貫くもの、貫かないもの)

何時でも、何処でも貫くもので
なければ真理といわれぬ。

これを三世十方を貫く真理という。
三世とは過去・現在・未来ということ。
十方とは東西南北上下四惟のことである。

仏法の法とは
過去・現在・未来を貫き、
どの国へ持っていっても
変わらない真理を法と
いわれる。

だから身近なことでも
法と使われているのは
滅多に変わらないものに使用される。

憲法―――男女同権が毎年ごとに
     変えられては大変だ。
法律―――決まった年金支給が
     急にストップされたらたまらん。
交通法規-信号機の赤青黄色の意味が
     毎日変わっていたら、
     大事故が頻繁に起きるに違いない。

それに対して、水戸黄門の印籠はどうだろう。
いつも同じパターンで悪代官と悪徳商人に
お仕置きをして、

「よっ、待ってました」

と最後に決めゼリフ。

三つ葉葵の紋所が描かれた印籠を見せて

「控え居ろう! この紋所が目に入らぬか」

と黄門の正体を明かす。
これを見る度に
ボコボコにしてから出さずに
もっと早く見せたらいいのにと
思えてくるのは私だけだろうか。

それはさて置いて、
水戸黄門の印籠は果たして
三世十方を貫くだろうか?

現代に持ってきたらどうだろう。
歌舞伎町で怖いお兄さん方が
女性を恐喝していた。
それを見た助さん、格さんが
助けに入った。

いつもの通り

「この印籠が目に入らぬか」

それを見たヤクザさん達。
こんな印籠、誰が見ても知らない。

「何じゃ、これ」

と逆にボコボコにされてしまう。

この設定を江戸時代、
アメリカにもっていったらどうなる。
ブロードウェーで
ギャングが少女を脅している。

それを助けようと助さん、格さんが
印籠を前に出す。
すると男たち、
印籠を見ても分からない。、

「What is this?」

と逆にピストルを撃って
水戸黄門一行は
殺されてしまうだろう。

黄門様の印籠も
何時でも何処でも
通じる品物ではなかたようだ。
しかし、桃太郎の話は違う

三世を貫き、十方を普く真理が
説かれている。


語り継ぎたい昔話の伝えておきたい深い意味(はじめに 「昔々、ある処に」)

2020年05月10日 | 語り継ぎたい昔話
語り継ぎたい昔話の伝えておきたい深い意味(はじめに 「昔々、ある処に」)

「昔々、ある処に」

日本昔話はこの言葉から始まる。

夜、なかなか寝付かれない時、
親のオトギ話に胸躍らせたもの。
同じ話を何度聞いたか分からないが、
毎回、初めての話のようにきけたのが不思議だ。

ところが現代、子育ては大変である。

「昔々、ある処に」

と、話し始めると、現代っ子なら

「おかあさん、昔々って、いつの時代、平安時代、室町時代。いつ?」

「いつ」と聞かれても答えられない。

「おとうちゃん、あるところって、東京、大阪、京都、どこ?」

そんなこと言われても知らないぞ。
内心穏やかでない。

しかし、そんな質問にはこう答えたらいい。

「昔々とは何時の時代でも、こんな話はあるんだよということだよ。
 千年前の時代でも、現代でも、これから何千年たった未来ても、
 このような話はあるのだよ。

つまり、多くの昔話はいつの時代にも通じる話なのである。

じゃ、ある処とは、どこを指しているのだろう。

私がアメリカへ行った時、ロサンゼルスに住んでいた友人に
桃太郎の話をしたことがあった。
するとアメリカ育ちの彼が

「その話、幼稚園の絵本で読んだころがあるよ」

と一冊の絵本を持ってきた。

その本は英語で「Old Stories of Japan」(日本の昔ばなし)と
いう題名だった。
その最初の話が「TAE PEACH  BOY」

「Long, long ago, there lived an old man
and his old wife in a village.
He went to the mountain to gather woods.
She went to the river to wash clothes,
when a big peach came floating down the river.」

読んで見ると桃太郎の話が英語に訳され、アメリカの子供達にも
読まれていたのには、ビックリ。

日本の昔話は全人類に重要な何かを教えていることが
分かる出来事だった。

何時でも、何処でも貫くものでなければ真理といわれぬ。
これを三世十方を貫く真理という。
三世とは過去・現在・未来ということ。
十方とは東西南北上下四惟のことである。

仏法の法とは過去・現在・未来を貫き、
どの国へ持っていっても変わらない真理を法と
いわれる。

だから身近なことでも法と使われているのは
滅多に変わらないものに使用される。

憲法―――男女同権が毎年ごとに変えられては大変だ。
法律―――決まった年金支給が急にストップされたらたまらん。
交通法規-信号機の赤青黄色の意味が毎日変わっていたら、
     大事故が頻繁に起きるに違いない。

それに対して、水戸黄門の印籠はどうだろう。
いつも同じパターンで悪代官と悪徳商人に
お仕置きをして、「よっ、待ってました」と
最後に決めゼリフ。
三つ葉葵の紋所が描かれた印籠を前にかざし

「控え居ろう! この紋所が目に入らぬか」

と黄門の正体を明かす。
ボコボコにしてから出さずに
もっと早く見せたらいいのにと
思えてくるのは私だけだろうか。

それはさて置いて、
水戸黄門の印籠は果たして三世十方を貫くだろうか?

現代に持ってきたらどうだろう。
東京歌舞伎町で怖いお兄さん方が女性を恐喝していた。
それを見た助さん、格さんが助けに入った。
いつもの通り「この印籠が目に入らぬか」
それを見たヤクザさん達。
こんな印籠、誰が見ても知らない。
「何じゃ、これ。どこの組のもんじゃ」
と逆にボコボコにされてしまう。

この設定を江戸時代、アメリカにもっていったらどうなるか。
ブロードウェーでギャングが少女を脅している。
それを助けようと助さん、格さんが印籠を前に出す。
すると男たち、印籠を見ても分からない。
「What is this?」
と逆にピストルで撃たれて水戸黄門一行は殺されてしまう。

黄門様の印籠も「いつでも、どこでも」通じる品物ではなかたようだ。

しかし、これから始まるオトギ話は違う
三世を貫き、十方を普く真理が説かれている。

子供の為のオトギ話かと思ったら大間違い、
これは全人類が知らなければならない
大切なことを教えられた、貴重な話なのだ。

親がその意味を知って、子供に聞かせることができれば、
こんな立派な親はいないと思う。
子に尊敬される親になろうではないか。





昔話は為になる(桃太郎 桃から生れた桃太郎)

2019年09月21日 | 語り継ぎたい昔話
昔話は為になる(桃太郎 桃から生れた桃太郎)

(原文)
=================
おばあさんが川で洗濯をしていると、
ドンブラコ、ドンブラコと、
大きな桃が流れてきました。

「おや、これは良いおみやげになるわ」

おばあさんは大きな桃を
ひろいあげて、
家に持ち帰りました。

そして、おじいさんとおばあさんが
桃を食べようと
桃を切ってみると、
なんと、中から元気の良い男の赤ちゃんが
飛び出してきました。

子どものいなかったおじいさんと
おばあさんは、大喜びです。

桃から生まれた男の子を、
おじいさんとおばあさんは

「桃太郎」

と名付けました。
================

これは不思議な話である。

今の子供は、
赤ちゃんがコウノトリが
運んできたのでもなければ、
桃から生まれた訳でもないことは、
よく知っている。

だから、

「桃から子供が生まれたんだ」

と話しをしようものなら
馬鹿にされてしまう。

これは昔の性教育。

今では赤ちゃんはお母さんから
生まれてきたことは
子供でも知っている。
テレビでも堂々と
出産の映像が映される。

おばあさんは息子の嫁探しに
昔は近くの川に出かけたものだ。

川では近所の娘さんたちが
お母さんの手伝いで
着物を腰まで上げて、
お尻丸出しで
洗濯をしている。

おばあさんは、
リンゴのようなお尻、
ミカンのようなお尻
色々な形の中で、
桃の形の安産型のお尻を発見。

「この娘はいい子じゃ」

と息子と見合いをさせる。
息子も

「いい娘じゃないか」

と承諾する。
そして、オメデタク結婚、出産。

では、桃とは何か、もう想像できるだろう。
お母さんのお尻は、
みな桃のような形を
しているではないか。
全人類、すべて、
あの桃の形をした
お母さんから生まれきたのだ。

桃から生まれてきた
桃太郎とは全人類のことを指す。

女の子なら、名づけて
桃子さんといったところだろう。

みな
「○○桃太郎君」
「○○桃子さん」
分かったかな。

また、「ジジ、ババ」の点を取って
「チチ、ハハ」と
言っているものもいる。
どちらにしてもお母さんからしか
私たちは生まれてこないのだ。


これから始まる桃太郎の話は
全人類の相を教えられた
ものなのである。

人間の実相を語る歴史人(桃太郎 桃から生れた桃太郎)

2018年04月21日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(桃太郎 桃から生れた桃太郎)

(原文)
=================
おばあさんが川で洗濯をしていると、
ドンブラコ、ドンブラコと、
大きな桃が流れてきました。

「おや、これは良いおみやげになるわ」

おばあさんは大きな桃を
ひろいあげて、
家に持ち帰りました。

そして、おじいさんとおばあさんが
桃を食べようと
桃を切ってみると、
なんと、中から元気の良い男の赤ちゃんが
飛び出してきました。

子どものいなかったおじいさんと
おばあさんは、大喜びです。

桃から生まれた男の子を、
おじいさんとおばあさんは

「桃太郎」

と名付けました。
================

これは不思議な話である。

今の子供は、
赤ちゃんがコウノトリが
運んできたのでもなければ、
桃から生まれた訳でもないことは、
よく知っている。

だから、

「桃から子供が生まれたんだ」

と話しをしようものなら
馬鹿にされてしまう。

これは昔の性教育。

今では赤ちゃんはお母さんから
生まれてきたことは
子供でも知っている。
テレビでも堂々と
出産の映像が映される。

おばあさんは息子の嫁探しに
昔は近くの川に出かけたものだ。

川では近所の娘さんたちが
お母さんの手伝いで
着物を腰まで上げて、
お尻丸出しで
洗濯をしている。

おばあさんは、
リンゴのようなお尻、
ミカンのようなお尻
色々な形の中で、
桃の形の安産型のお尻を発見。

「この娘はいい子じゃ」

と息子と見合いをさせる。
息子も

「いい娘じゃないか」

と承諾する。
そして、オメデタク結婚、出産。

では、桃とは何か、もう想像できるだろう。
お母さんのお尻は、
みな桃のような形を
しているではないか。
全人類、すべて、
あの桃の形をした
お母さんから生まれきたのだ。

桃から生まれてきた
桃太郎とは全人類のことを指す。

女の子なら、名づけて
桃子さんといったところだろう。

みな
「○○桃太郎君」
「○○桃子さん」
分かったかな。

また、「ジジ、ババ」の点を取って
「チチ、ハハ」と
言っているものもいる。
どちらにしてもお母さんからしか
私たちは生まれてこないのだ。


これから始まる桃太郎の話は
全人類の相を教えられた
ものなのである。



人間の実相を語る歴史人(桃太郎 三世十方を貫くもの、貫かないもの)

2018年04月21日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(桃太郎 三世十方を貫くもの、貫かないもの)

何時でも、何処でも貫くもので
なければ真理といわれぬ。

これを三世十方を貫く真理という。
三世とは過去・現在・未来ということ。
十方とは東西南北上下四惟のことである。

仏法の法とは
過去・現在・未来を貫き、
どの国へ持っていっても
変わらない真理を法と
いわれる。

だから身近なことでも
法と使われているのは
滅多に変わらないものに使用される。

憲法―――男女同権が毎年ごとに
     変えられては大変だ。
法律―――決まった年金支給が
     急にストップされたらたまらん。
交通法規-信号機の赤青黄色の意味が
     毎日変わっていたら、
     大事故が頻繁に起きるに違いない。

それに対して、水戸黄門の印籠はどうだろう。
いつも同じパターンで悪代官と悪徳商人に
お仕置きをして、

「よっ、待ってました」

と最後に決めゼリフ。

三つ葉葵の紋所が描かれた印籠を見せて

「控え居ろう! この紋所が目に入らぬか」

と黄門の正体を明かす。
これを見る度に
ボコボコにしてから出さずに
もっと早く見せたらいいのにと
思えてくるのは私だけだろうか。

それはさて置いて、
水戸黄門の印籠は果たして
三世十方を貫くだろうか?

現代に持ってきたらどうだろう。
歌舞伎町で怖いお兄さん方が
女性を恐喝していた。
それを見た助さん、格さんが
助けに入った。

いつもの通り

「この印籠が目に入らぬか」

それを見たヤクザさん達。
こんな印籠、誰が見ても知らない。

「何じゃ、これ」

と逆にボコボコにされてしまう。

この設定を江戸時代、
アメリカにもっていったらどうなる。
ブロードウェーで
ギャングが少女を脅している。

それを助けようと助さん、格さんが
印籠を前に出す。
すると男たち、
印籠を見ても分からない。、

「What is this?」

と逆にピストルを撃って
水戸黄門一行は
殺されてしまうだろう。

黄門様の印籠も
何時でも何処でも
通じる品物ではなかたようだ。
しかし、桃太郎の話は違う

三世を貫き、十方を普く真理が
説かれている。




人間の実相を語る歴史人(桃太郎 昔々)

2018年04月07日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(桃太郎 昔々)

(原文)
===============
昔々、ある処に、
おじいさんとおばあさんが
住んでいました。

おじいさんは山へ柴刈りに、
おばあさんは川へ
洗濯に行きました。
===============

「昔々、ある処に」

桃太郎はこの言葉から始まる。

現代っ子に、
おとうさんが話を始めると

「パパ、昔々って、
 いつの時代、平安時代、
 室町時代。いつ?」

いつと聞かれても答えられない。

「おとうちゃん、あるところって、
 東京、大阪、京都、どこ?」

そんなこと言われても知らないぞ。
内心穏やかでない。

しかし、そんな質問には
こう答えたらいい。

「昔々とは何時の時代でも、
 こんな話はあるんだよ
 ということだよ。
 千年前の時代でも、
 現代でも、これから
 何千年たった未来ても、
 桃太郎のような話があるのだよ」

つまり、この桃太郎の話は
いつの時代にも通じる話なのである。

「昔々、ある処に」

じゃ、ある処とは、
どこを指しているのだろう。

この桃太郎伝説で
ここが鬼が島のあった所と
名乗り出ている県は
一県や二県ではない、
全国各地で桃太郎伝説はある。

それはこの話は
岡山県でも香川県でもない。
日本でなくても、アメリカでも
ブラジルでもアフリカでも、
こういうことがあるんだ。
だから何処でもということ。

アメリカへ行った時、
ロサンゼルスに住んでいた友人に
桃太郎の話をしたことがあった。

するとアメリカ育ちの彼が

「その話、幼稚園の絵本で
 読んだころがある」

と、一冊の絵本を持ってきれくれた。

その本は英語で

「Old Stories of Japan」
 (日本の昔ばなし)

という題名だったと記憶している。

その最初の話が

「TAE PEACH  BOY」

という題名だった。

「Long, long ago,
 there lived an old man
and his old wife in a village.
He went to the mountain
to gather woods.
She went to the river
to wash clothes,
when a big peach came
floating down the river.」

読んで見ると桃太郎の話が
英語に訳され、
アメリカの子供達にも
読まれていたのには、ビックリ。

桃太郎の話は全人類に
重要な何かを教えていることが
分かる出来事だった。

人間の実相を語る歴史人(落語、桃太郎)

2018年04月07日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(落語、桃太郎)

落語の中でも桃太郎の話が
興味深く話しされている。
その始まりはこうだ。

「這えば立て、立てば歩めの親心、
 と申しますが、
 昔の子供はなるほど、
 可愛らしゅうございました。

 夜、なかなか寝付かれん、
 こんなときには親が話しを
 聞かせたりしたものです。
 
お父さん
「いつまで起きてんねん、
 早う寝なさい。
 子供があんまり遅うまで
 起きてるもんやない。
 こんな遅い時間まで起きてたら、
 恐ぁいお化けや幽霊が出て、
 お前なんか頭からガリガリッと
 齧られてしまうぞォ。
 そのうしろの暗いとこから、
 アッ、お化けが...
 さあさあ、大人しくに寝なさい。
 寝床へ入ったらもう
 恐いお化けも出ないからな!
 さあ、布団へ手入れて、
 おとうちゃんが面白い話しを
 してやるから、
 それを聞きながら
 ねんねするんや、ええか。」
     
昔々、あるところに
おじいさんとおばあさんが
住んでいたのや。
おじいさんが山へ芝刈りに、
おばあさんが川へ洗濯に行った。
おばあさんが川で洗濯をしていると、
川の上の方から大きな桃が流れてきて、
おばあさんはこれをうちへ持って帰って、
ポンと割ったら中から
元気のいい男の子が生まれてきた。
これに桃太郎という名前を付けた。
この子が大きくなって、
鬼ケ島へ鬼退治に行くと云うので
キビ団子をこしらえて持たしてやると、
犬と猿と雉が出てきて、
一つ下さい、その代わりお供します。
三匹を引き連れて鬼ケ島へ攻め込んだ。
この桃太郎が強い。
三匹もよく頑張った。
とうとう、鬼が降参や、
山のように宝物を出して謝った。
車に積んだ宝物、
エンヤラ、エンヤラと
持って帰って来て、
おじいさんやおばあさんに
孝行したのや。

なあ、面白いやろ。
桃太郎さんのお話し。
もう、寝てしもうた。
えぇ、子供というのは罪が無いなあ。

こんなことを云っていたのは、
もう昔の話しです。
今日の子供はなかなか、
こんなことくらいでは寝ませんわ。





人間の実相を語る歴史人(桃太郎 日本一読まれている御伽噺)

2018年04月03日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(桃太郎 日本一読まれている御伽噺)

親が子供に読ませる童話は数多い。
日本昔話、グリム童話、
アンデルセン童話と
あげればきりがない。

しかし、日本でいえば、
ダントツ一位で
読まれているのが桃太郎だろう。
滝沢馬琴の『童蒙話赤本事始』でも
五大昔噺の冒頭を飾っている。

子供の為のおとぎ話かと
思ったら大間違い、
これは全人類が
知らなければならない
大切なことを教えられた、
貴重な話なのだ。

親がその意味を知って、
子供に聞かせることができれば、
こんな立派な親はいないと思う。
子に尊敬される親になろうではないか。

鬼退治で有名な桃太郎の話が
できたのは室町時代以前で,
一説によると鎌倉時代まで
遡(さかのぼ)ると言われている。

日本のおとぎ話で
桃太郎ぐらいに各地方で語られ、
ながきに渡って
伝えられてきた話はなかろう。
これだけの年月、多くの親子を
魅了した桃太郎には
どんな真実が隠されているのか。

第二次世界大戦の時、
この桃太郎はアメリカ・イギリスを
中心とする連合軍を鬼に見立て、
その鬼畜米英の魔の手から
世界を守る桃太郎こそが
神国日本であると、
桃太郎のおとぎ話を
軍国主義徹底に利用した。
敗戦後、戦勝国アメリカにより、
桃太郎の話は一時、
話をしないように
規制されたほどである。

桃太郎が軍国主義に
使われようとは、驚きだが、
それだけ日本の多くの人に愛され、
伝えられていたからだろう。

おとぎ話は諸説があり、
色々手を加えられ、現代版の
桃太郎になってきた。

だから桃太郎も現代版が
人生に如何に有意義で大切な
意味を持っているかを、
未来ある子供達と共に
勉強してみよう。






人間の実相を語る歴史人(邪慢)

2013年05月17日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(邪慢)

「邪慢」とは、とんでもないことを
自慢する心だ。
自惚れてはならぬことを自惚れるのだ。

刑務所は邪慢大会である。

窃盗犯が

「どうだ、オレほど素早く他人の者を
 盗める者はいないだろう」

と機敏さを自慢する。

殺人犯が

「俺は女一人を殺害して入ってきた」

「なんだ一人か。
 俺なんか3人殺してきたぞ」

「俺なんか秋葉原で無差別殺人で
 8名の殺したんだ」

と残虐ぶりを自慢すると聞くと
アキレルだろう。

身近にもあるだろう。こんな会話が、

「今度の試験に不可が2つもあった」

「俺なんか5つ不可だぞ」

と落第点を自慢そうに話しする。

「この間、ネズミ捕りにひかかって
 1万円の罰金だった」

「俺は飲酒運転で1年間の
 免許取り消し」

と、これまた恥ずかしいことを
誇らしげに話しをしている。

しかし、自分のことは皆、良いようにしか
思えないのだ。


人間の実相を語る歴史人(卑下慢)

2013年05月13日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(卑下慢)

「卑下慢」とは、
「私ほど悪い者はおりません」
「こんな未熟者ですが、ご鞭撻よろしく
 お願い申し上げます」と、
深々と頭を下げることによって、
「どうじゃ、こんなに頭の低い者は
 おらんだろ」
とニンマリする心。

自惚れていないと自惚れる。
こんな性質の悪い自惚れはない。

日本人はすぐ卑下する。
これを美徳のように思っている。

「綺麗な字ですね」
「いや、ミミズが走ったような字ですよ」
「そんなことないですよ。
 書道何段を持っておられるのですか」
「小学校の時、ちょっと習っただけです」

「ステキなドレスですね」
「こんな物、安物よ」
「私もこんなドレスを探していたのですよ」
「銀座のちょっとした店で買った安物です」

「立派なお宅ですね」
「いえ、ウサギ小屋ですよ」
「そんなことないですよ。
 この町内でも一番素敵な
 お宅じゃないですか」
「知り合いの人が建築家で、
 頼んだだけですよ」

このような会話をよく聞く。
卑下した分、ひと回り大きなホメ言葉が
返ってくることを期待している。

これを卑下慢という。

親戚・知人が食事会を開くと
卑下慢と高慢がその力を競い合う。

「叔父さん、叔父さんが上座に
 座ってもらわなければ
 誰が座るんですか。
 お願いしますよ」

「そうかワシが座らなければ
 始まらんか。
 それなら座らせてもらうかな」

ところが心の中では

「何よ、偉そうに。
 ただ、年だけとっているだけじゃない。
 この叔父さんが親類で
 一番の高慢な人よね。
 それに比べて私より
 頭の低い者はいないでしょう」

「なんだ、あの卑下した態度は。
 自分だけ良い子ぶって。
 あんな女が何かたくらんでいる奴なんだ。
 気にくわん」

卑下慢も高慢もどちらも
自惚れに間違いないのに。






人間の実相を語る歴史人(増上慢)

2013年05月10日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(増上慢)

「増上慢」とは、覚りを開いてもいないのに、
覚ったと自惚れている心のことだ。

今までは生きがいも趣味も持たなかったものが
大学に行き、何かのサークルに入ったり、
仕事の帰りに思わぬ趣味の活動を見つけたりすると
一心不乱に没頭する。

すると今までの人生が生まれ変わってしまう。
そんな時、何も生きがいも持たない人をみると

「何だ。生きがい一つないのか。
 可愛そうな奴」

と趣味や生き甲斐のない者が無償に馬鹿に
みえてくるから不思議なものだ。

しかし、何年かすると
その趣味が続いているかというと
大抵の人は昔の自分に戻っているのだが。

生き甲斐を見つけていた時も、それも
「増上慢」の一つだろう。

昔から、日本ではのぼせて、増長して、
手のつけようがない人のことを
「天狗になっている」という。

この天狗だが、もとは、インドの
サンスクリット語でウルカーという。
流れ星のことである。
それが転じて、仏道修行をあやまって、
俺ほど偉い者はないという増上慢に
陥った者を指すようになったのだ。






人間の実相を語る歴史人(我慢)

2013年05月09日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(我慢)

「我慢」とは自分の間違いに気づきながらも、
どこどこまでも自分の意見を
押し通そうとする心。

「這っても黒豆」という諺がある。

床にある黒いものを指さして、
「虫だ」「いや黒豆だ」
と二人が言い争っていたところ、
モゾモゾ動き出したので虫だとハッキリした。
ところが黒豆だと言っていた男は

「這っても黒豆なんだ」

と言い張ったそうだが、
こんなのを「我慢」というのだ。

「年寄りの冷や水」ということわざを
よく使う。意味としては、
「年甲斐もなく、無理をする事」

実はこの諺の起源は新しく、江戸時代である。

昔、江戸では夏場になると、水を売る商売があった。
桶に水を満たして氷を浮かべ、
天秤に担いで売り歩いた。
この商売をしている人を「冷や水屋」、
売っている水の事を「冷や水」と
呼んでいた。

昔は、川の真中の水がキレイだと
いう迷信があった為、
隅田川の真中から水を汲んで来てたそうだ。

隅田川の水質は、今とは比べ物にならないが、
それでも汚い事には変りはない。

だから、お年寄りや子供等の、
少し体が弱っている人が「冷や水」を飲むと、
必ずといっていいほど下痢になったり、
体調を崩したりした。

夏の暑い日、若い人がお爺さんをたしなめる。
「年寄りがそんな水を飲むと、
 腹を壊すよ」

すると頑固爺さん、
「ワシは何十年とこの水を飲み続けているが
 一度として、腹を壊したことなどない。」
と、いつもより水をがぶ飲みをする。
案の定、夜に酷い下痢で、医者を呼ぶ大騒動。

そこで、年甲斐もなく無理をする事を
「年寄りの冷や水」と
言う様になったのだそうだ。



人間の実相を語る歴史人(慢過慢)

2013年05月08日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(慢過慢)

「慢過慢」とは、
間違いなく自分よりも
相手が優れているのに、
素直にそうとは認められず

「オレの方が上なのだ」

と思う心をいう。

相手が九十点で自分が八十点だったときでも、

「あいつは高い金払って塾に通っているからだ。
 条件が同じならオレの方が断然上だ」

と思ったり、

「あいつは勉強は少しはできるかも知れないが、
 スポーツはまるでダメじゃないか。
 その点オレは両方できるから」

などと、得手のよい理由を色々見つけて
相手の上に立とうとする心である。

週刊誌が売れるのには2つ理由がある。

①皇室、有名芸能人の幸せそうなスナップを
 トップに据える。

②有名芸能人の離婚、破局を生生しく掲載する。
 これに限るのである。

酒井法子が麻薬で捕まった事件は
週刊誌が飛びついた。
妻にしたい清純派女優では
ダントツの彼女だから
各誌、報道には熱が入っている。
見る方も胸ワクワク。

これが慢過慢の自惚れとも知らずにね。




人間の実相を語る歴史人(過慢)

2013年05月07日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(過慢)

「過慢」とは、同じ程度の相手なのに、
自分の方が優れていると威張る心をいう。

テストの点数が同じだったのに、
「本当はオレの方が上なのだ」
と自惚れる心だ。

大学に入学すると
一度はサークルに入る。
その歓迎会の自己紹介。

「僕は前期は○○大学を受けたのですが、
 後期でこの大学に来ました」

という学生をよく見る。
知らず知らずの内に、

「同じ大学に入っていても
 俺はお前達とは違う。
 本当はもっと上の大学でも
 入れる実力があって、
 こちらに来たんだ。」

という自分の方が優れていると
思いたいのだろう。

これが過ぎたる慢「過慢」である。

女性でも友達をよく見たらいい。
大体、器量も勉強もスポーツも
同じような子を友達にする。

しかし、仲が良くても心の中では

「確かに、器量も勉強も
 色々な面で同じかもしれないが、
 私は料理のことだけは、
 あの子には負けないわ。
 結婚は私の方が断然有利よ。
 必ず、いい人と結ばれる筈よ」

と淡い期待を持ち続ける。

「過慢」とも知らずに自惚れる。



人間の実相を語る歴史人(慢)

2013年04月30日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(慢)

最初の「慢」は、自分よりも劣った相手を
情けない奴だとバカにする心のこと。

テストの点数でいうと、
自分は八十点で相手は七十点とすると、
「どうだ、オレの方が上だろう」
と相手を見下げる心である。

そう思うのは当然ではないかと
思われるかも知れない。


「年寄りを笑うでないぞ、
 行く道じゃ。
 子供を叱るでないぞ
 来た道じゃ」

若者が年寄りの仕草を見ていると
何をもたもたしているかと
馬鹿にしたくなる。
同じことを何度もいう親に
呆れ変えて笑うしかない。
しかし、笑うなよ。
俺も後、何年かで笑われる身に
なるのだから。

じゃ、子供を見ていると
勉強もせずにゲームばかりに
没頭しているのを見て、
将来が危ぶまれる。
つい、小言がでる。
「ゲーム機、取り上げるぞ」
しかし、俺の若い頃は
勉強もせずに将棋、囲碁、
高校ではマージャンに
はまっていたか。
叱れぬな。

今の自分より劣っている人を
見ると、つい馬鹿にする心が
吹き出てしまう。
そう思うのは当然ではないかと
思われるかも知れないが、
相手を踏みつけている恐ろしい心なのだ。