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マンチェスター・バイ・ザ・シー

2017年05月30日 | 洋画(17年)
 『マンチェスター・バイ・ザ・シー』を渋谷シネパレスで見ました。

(1)アカデミー賞の主演男優賞と脚本賞を取った作品ということで、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、「マンチェスター・バイ・ザ・シー」(注2)という町の漁港から船が、外洋に向かって出ていきます。操舵室にはジョー・チャンドラーカイル・チャンドラー)がいて、舵を操っています。また、船尾の方には、ジョーの弟のリー・チャンドラーケイシー・アフレック)と、ジョーの一人息子のパトリック(幼い頃:ベン・オブライエン)がいて、ふざけ合ったりしています。



 リーが、「地図のように全体を見ていけば、物事がうまく進む」と言うと、パトリックが「地図を読めるの?」と尋ねます。リーは、「そうだ。お前のパパは全く良いやつだが、そこがわかっていない」と答えます。それから、リーが、「パパと俺のどちらかを選べといったら、どちらを選ぶ?」と尋ねると、パトリックは「パパ」と答えます。

 次の場面は、真冬で雪が降っている中、リーがアパートの周囲の雪かきをしています。
 場所は、ボストン郊外(注3)。
 リーはこのアパートの「便利屋」といったところで、そのメンテに関し様々なことをしています。雪かきの他にも、部屋の天井に取り付けられている扇風機の修理とか、ゴミ出しなどなど。

 例えば、浴室の水漏れのことで、リーはオルソン夫人(ミッシー・ヤガー)の部屋にいます。
 オルソン夫人が「何回直せばいいの?」と怒るものですから、リーは「配管工を呼びます」と答えます。そして、浴槽を見て「さっき、シャワーを使いましたか?」と尋ねます。彼女がが「使った」と答えると、リーは「シャワーを使ってみて、水が階下に漏れるかどうか見てみましょう」と言います。すると、オルソン夫人は、「私がシャワーを使っている最中に、漏れている箇所を探すの?」「よくもそんなことが言えるのね!」「いますぐ出ていかないと警察を呼ぶわよ」と猛烈に怒り出します。

 その後で、リーは上司(ステファン・ヘンダーソン)から、「どうして無礼な口の利き方をする?挨拶一つもない」「とにかく、オルソン夫人に謝ってくれ」と注意されますが、リーが「遅刻もせずに、アパート4棟の面倒を何から何までみてる」と反論すると、上司は「わかった、わかった、自分で話すよ」と矛を収めます。

 また、バーで独りで酒を飲んでいる際、リーは、前のカウンターに座っていた2人の客に近づいて、「前に会ったことがあったか?」と尋ね、その客が「いいや」と答えると、「どうして俺のことを見ていたんだ」と難癖をつけて殴りかかって喧嘩となります。

 これが本作の始めの方ですが、さあ、これからどんな物語が展開していくのでしょう、………?

 本作は、ボストンで働く主人公は、故郷のマンチェスター・バイ・ザ・シーで暮らしている兄の急死を聞いて、急ぎ戻りはするものの、兄の遺児の後見人になるのを嫌がったり、早くその街を出たがったりします。というのも、主人公は、過去に、その街である重大事を引き起こしていたからであって、云々という物語。
 最初のうちは、回想シーンにいきなり移ったりすることが多く、筋をつかむのに骨が折れましたが、話がわかってくると深く引き込まれてしまい、主人公の内面が次第にほぐれてきて、兄の遺児らとの関係も変化する最後の方になると、深く心を動かされました。さすが主演男優賞と脚本賞を獲得した作品だな、と納得したところです(注4)。

(2)上記(1)で触れたバーでの喧嘩の後のこと、リーがアパートの周囲の雪掻きをしていると、携帯に「ジョーが危篤」という連絡が入ります。リーは「今すぐそちらに向かう。1時間半で着く」と答え、ボストンからマンチェスター・バイ・ザ・シーへ車で向かいます。

 この物語も、ある意味で、『カフェ・ソサエティ』についての拙エントリの(2)で触れた「二都物語」といえるかもしれません。
 ただ、本作は、ディケンズの『二都物語』のようにパリとロンドンを巡る歴史絵巻ではありませんし、『カフェ・ソサエティ』のようにロサンゼルス(ハリウッド)やニューヨークといった都市の様子を描き出すことを狙いとするものでもありません。なによりも、ボストンは、人口60万人を超える大都市であるにしても、マンチェスター・バイ・ザ・シーは、人口5千人ほどの小さな町なのですし。
 それでも、本作の主人公のリーは、何らかの理由で故郷のマンチェスター・バイ・ザ・シーを離れてボストンで暮らしているものの、兄・ジョーの急死で急遽故郷のマンチェスター・バイ・ザ・シーに出向き、そしてまたボストンに戻ることになるのです。
 それに、ボストンでのリーの暮らしぶりとか、マンチェスター・バイ・ザ・シーでの出来事といったものが映画の中でじっくりと描き出されてもいるので、「二都物語」的な感じがするところです。

 加えて、本作では、リーを巡る人間関係で、ことさら「二」が強調されているようにも見えます。
 本作で中心的に描かれるのは、リーと、兄・ジョーの息子のパトリックルーカス・ヘッジス)の二人の関係です(注5)。



 また、その背後にあるのは、リーと兄・ジョーと二人の関係(注6)。



 さらには、リーとその元妻のランディミシェル・ウィリアムズ)との二人の関係もあるでしょう(注7)。

 リーにしても、マンチェスター・バイ・ザ・シーでの出来事の前までは、上記(1)の冒頭で見るように兄・ジョーやその子供のパトリックと一緒に遊んだり、友人を大勢自宅に招いたりして(注8)、ごく普通に振る舞っていました。ですが、その重大事が起こった後は、自分の殻に閉じ込もってしまい、ボストンにいる時は、仕事で必要最小限の付き合いをするだけですし、マンチェスター・バイ・ザ・シーに戻った時も、わずかの人と1対1で話をするだけでした(注9)。

 もう少し本作について言うと、映画で描き出される場面の時点が、最初のうちはなかなか掴み難い感じがしました。
 例えば、上記(1)の冒頭で記した場面と、次のリーが雪掻きをする現在時点の場面とでは、時点が8年ほど違っているようですが(注10)、突然画面が変わるので、つながりがよくわかりません。
 でも、途中から、なぜリーがマンチェスター・バイ・ザ・シーを離れざるをえなかったのかがわかってくると、最初の場面の意味合いも理解できるようになり、逆に、これはこれで脚本構成(あるいは編集)の一つの巧みなやり方なのだなと思えてきます。

 また、本作の山場のところで流れる曲名は何かなとネットで調べてみましたら、レモ・ジャゾット作曲の『アルビノーニのアダージョ』(1958年)であることがわかりました。
 メロディそのものはよく耳にするものの、名前まで知らなかったのですが、さらにWikipediaによれば、「トマゾ・アルビノーニの『ソナタ ト短調』の断片に基づく編曲と推測され」てきたが、「この作品はジャゾット独自の作品であり、原作となるアルビノーニの素材はまったく含まれていなかった」とのことで、驚きました。
 こうした曰くのある曲をこの場面に使うことに何か意味が込められているのかなとも、見る者に考えさせるところです(注11)。

 なお、本作でアカデミー賞の主演男優賞を獲得したケイシー・アフレックについては、クマネズミはこれまで数少ない作品しか見ておりませんが、本作における演技は、この人以外にありえないと感じさせるほど素晴らしいと思いました(注12)。

(3)渡まち子氏は、「ボソボソと口ごもりながら話し、視線を落として猫背で歩くリーは、まるで自分で自分を罰しているかのように、影が薄い主人公だ。最小限のセリフと、表情や仕草だけでリーの絶望を演じ切ったケイシー・アフレックの抑えた演技が素晴らしい」として85点を付けています。
 前田有一氏は、「ケネス・ロナーガン監督の長編3作目だが、とてもそうは思えないほどドラマの組み立てがうまい。とくに年齢なりに人生経験を組み立ててきた大人が見れば、この映画の良さはすぐにわかる」として70点を付けています。
 中条省平氏は、「アカデミー賞に相応(ふさわ)しい緊密なシナリオを、脚本家自身が堅実な演出を積みかさねて見応え十分な作品に仕上げた。とくに素晴らしいのは役者たちだ」として★4つ(「見逃せない」)を付けています。
 稲垣都々世氏は、「声を押し殺して泣いた。人が生きていくとはこういうこと。もがき、苦しみながらも生きようとすることの重みが、静かに心に染み入ってくる」と述べています。
 藤原帰一氏は、「演出は上手と言えませんが、ここまで俳優と脚本がいいとそれだけで映画になってしまう。「ムーンライト」と並んで、アメリカ映画における人間描写の深まりを感じさせる作品です」と述べています。



(注1)監督・脚本は、ケネス・ロナーガン
 原題は「Manchester by the Sea」。

 出演者の内、最近では、ケイシー・アフレックは『インターステラー』(主人公の息子役)や『キラー・インサイド・ミー』、ミシェル・ウィリアムズは『テイク・ディス・ワルツ』、カイル・チャンドラーは『キャロル』で、それぞれ見ました。

(注2)ほとんど情報を持たずに映画館に行ったものですから、てっきり、著名なサッカークラブがあり、先般テロ事件(5月22日)が起きた大都市の「マンチェスター」を巡るイギリス映画なのではと思っていましたが、見てしばらくしたら、マンチェスター・バイ・ザ・シーというのは、アメリカ東海岸にあるボストン近くの漁港の町(ボストンの北東)の名前であり、本作もれっきとしたアメリカ映画であることがわかり、驚きました。

(注3)時点は現在時点。なお、下記「注9」をご覧ください。

(注4)アカデミー賞の作品賞には『ムーンライト』が選ばれましたが、同作も確かに優れているとはいえ、クマネズミに投票権があるとしたら、「作品賞」としては本作を推したいところです。

(注5)下記「注6」に記すように、リーはパトリックの後見人に指名され、弁護士から、ボストンを引き払ってマンチェスター・バイ・ザ・シーの方に住居を移すように求められます。ですが、リーはそれを受け入れることが出来ず、兄・ジョーの残した財産を処分して、パトリックについては、別の州にいる親族のもとで面倒を見てもらうことを考えます。これに対して、パトリックは、自分の生みの母・エリーズグレッチェン・モル)の元で暮らそうとします(エリーズは、アルコール依存症で、ジョーと別れていました)。しかしながら、これもうまく行かず、結局、パトリックは、リーの取り計らいによって、ジョーの親友のジョージC・J・ウィルソン)の養子となって、そこで暮らすことになります。
 パトリックの面倒を誰が見るのかという問題に対するリーの取り組み方が、最初と最後の方ではかなり異なってきますが、その違いにはリーの心のほぐれが感じられるところです。

(注6)兄のジョー(「うっ血性心不全」のため、余命が5~10年だと医者から言われていました)は、その遺言書において、リーがマンチェスター・バイ・ザ・シーで引き起こした事件を知りながらも(むしろ、知っていたがために)、リーを自分の息子・パトリックの後見人に指名していました。そうすることによって、ジョーは、リーの立ち直りを期待したのかもしれません。

(注7)偶然出会ったリーとランディとの会話のシーンは、とても感動的です(ランディは友人と一緒だったのですが、その友人は2人で話せるようにその場を離れます)。



 ランディが、「あの時、心が壊れたの(my heart was broken)。ずっと壊れたまま。あなたの心も壊れた。あなたに酷いことをした。ごめんなさい。愛してるわ。でも手遅れね。死なないで」と言うと、リーは、「俺は大丈夫。話せてよかった。もう何も思っていない」と応じるのです。

(注8)家の地下室で、リーとその仲間たちが、酒を飲みながら卓球に興じたりして、皆が大声で喚き散らしていたために、ランディから「うるさい、静かにして!」とたしなめられるほどでした(それで、皆を帰した後、飲み足りないと、リーはアルコールを買いにコンビニまで歩いていったのですが、………)。

(注9)「二」についてもう少し言えば、例えば、パトリックの彼女はシルヴィー(カーラ・ヘイワード)とサンディー(アンナ・バリシニコフ)の二人いますし、サンディーの母親・ジル(ヘザー・バーンズ)とリーは、その家で二人で向かい合わせに座ったりします(尤も、リーが世間話もしない硬い態度をとるので、ジルの方で音を上げてしまいますが)。

(注10)IMDbのこの記事(Synopsis)によれば、本作の現在時点は、冒頭のシーンから「roughly eight years」経過しているとのこと。すなわち、本作の冒頭シーンにおけるパトリックは小学校に通っていましたが、本作の現時点では高校の最上級生のようです(ラストの方で、リーが「ボストンで、予備の部屋の付いたアパートを探している。お前がボストンの大学に通うかもしれないから」と言うと、パトリックは「大学に進学しない」と答え、それに対しリーは「それじゃあ物置に使おう」と応じます)。

(注11)逆に、アチコチの作品で使われている通俗的な曲なので(例えば、この記事をご覧ください)、本作の山場の雰囲気が損なわれてしまったのではないか、との意見もあるようです(例えば、この記事)。

(注12)元々はマット・デイモンが自分で監督・主演をやるつもりだったところ、スケジュール調整がうまく行かずに、ケイシー・アフレックに譲ったとのこと(この記事)。ケイシー・アフレックが演じているところをマット・デイモンに置き換えてみたらどんな感じになるかを想像してみるのも、楽しいかもしれません(クマネズミには、とても憎めそうにない顔つきをしているマット・デイモンに、他人を拒絶しているリーの雰囲気を、ケイシー・アフレックほど巧みに演じられるとは思えないのですが)。



★★★★★☆


象のロケット:マンチェスター・バイ・ザ・シー




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4 コメント

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Unknown (クマネズミ)
2017-06-01 18:58:25
「atts1964」さん、コメントをありがとうございます。
おっしゃるように、ケイシー・アフレックは、「壊れて修復できない、笑いが消えた男を本当に上手く演じていた」と思いました。
でも、マット・デイモンが演じたらどうなっていたのか、とちょっぴり想像してみたくなってしまいますが。
Unknown (atts1964)
2017-06-01 10:38:54
そうか、マット・デイモンが最初主演予定だったんですね。でもこれはケイシーの作品にしっかりなりました。
壊れて修復できない、笑いが消えた男を本当に上手く演じていました。
でも、強くて優しい男なんでしょうね。私なら立ち直れないし、孤独視しているかもしれない、どうしようもない悲しみを背負った男、最後の彼の選択は、できる限りのベターな事だったと思います。
いつもTBありがとうございます。
Unknown (クマネズミ)
2017-05-31 18:39:47
「ここなつ」さん、TB&コメントをありがとうございます。
おっしゃるように、「この作品の根底にあるものは、二度と戻らないモノやコトにどう対峙していくのか、ということ」でしょう。
そして、リーも「二人が失ったものは戻らない」という意識からなかなか立ち直れないままです。
でも、ランディと話をし、その赤ん坊を見、またパトリックと何度も議論し、ジョが遺した船を操るのを見て、リーの心も、ほぐれてくるものがあったのではないでしょうか?
よく考えてみれば、誰にだって失われる人間関係はいくつもあるわけで(例えば、両親)、いつまでもそれに捉えられたままということもないはずです。失われるそばから新しいものが生まれてくるので、要は目をどちらに向けるかということではないでしょうか?リーも、ラストの感じからすれば、徐々にではあるものの、新しい人間関係に目を向けていくものと思います。
こんにちは (ここなつ)
2017-05-31 15:28:51
こんにちは。弊ブログにご訪問&コメントをいただきありがとうございました。
この作品の根底にあるものは、二度と戻らないモノやコトにどう対峙していくのか、ということだと思います。
リーとランディの再会は、少し観ているこちらをほっとさせるものではあったと思いますが、それでもやはりどうしたって、二人が失ったものは戻らない…
そんな部分を誠実に描いていた作品だったと思います。
アルビノー二のアダージョ、使われ方も曲調も、本作では抜群でしたね。

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