映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

やさしい女

2015年04月24日 | 洋画(15年)
 『やさしい女』を新宿武蔵野館で見ました。

(1)高名ながらあまり見たことがないロベール・ブレッソン監督の作品が上映されているとのことで、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、ネオンが瞬く繁華街の夜の光景(パリなのでしょう)。街路には車がひしめいていて、歩道にも人が大勢歩いています。

 場面は変わって、マンションの一室。ベランダに出るドアが開けられていて、机や椅子が倒れています。白いスカーフが風になびいて落ちていったと思ったら、女が道路で倒れて死んでいる様子。

 次の場面では、その女がベッドに横たえられていて(注2)、ベッドサイドでは老女が祈っていますし、部屋には男が一人います。

 再度場面が変わって、片方の手にノートを持った女が質屋に入ってきます。
 男が、その女から持ち込まれた指輪を見て金を渡します。
 彼女が次ぎに来た時はコンパスの入ったカバンを持ってきましたが、その次にはカメラを出します。男が「いい品だ」と言うと、彼女はそのカメラを持って店を出ていってしまいます(注3)。

 ここで、ベッドに女が横たわり、男がベッドのそばにいる先ほどの場面に変わり、男の「あの時から彼女を特別視した」との声が入ります。



 どうやら、ベッドに横たえられている女(ドミニク・サンダ)は、マンションの上階から飛び降りて自殺した模様で、部屋にいる男(ギイ・フランジャン)は彼女の夫であり、質屋を経営していますが、彼女がなぜ自殺するに至ったのかを考えめぐらして、そもそもの二人の出会いから回想しているようです。
 いったい二人の間にはどんなことがあったのでしょう、………?

 本作は、結婚しながらも自殺してしまう若い女の話であり、台詞が大変少なく、また俳優の動きもぎこちなかったりして、なかなか映画の中に入り込みづらいのですが、今時量産される映画とは随分と違った雰囲気があり、たまには、本作のような色々議論したくなる興味深い作品を見るのも良いかなと思いました(注4)。

(2)本作についての情報を何も持っていいないので、まずは、以前見たことがあるブレッソン監督の『スリ』(1960年)のDVDをTSUTAYAから再度借りてきて見てみました(注5)。
 同作はモノクロでミシェルマルタン・ラサール)という青年が主役、他方、カラーの本作の主役は若い女、また同作は専らスリという犯罪行為が描かれますが、本作は若い女と男との二人の生活が描かれる、などという具合にかなり違っています。

 それでも、同作は本作と類似している点もあります(注6)。
 まずは、両作で印象的なのは主人公の大きな眼です。それも、『スリ』の主人公のミシェルは、絶えず鋭い目つきをして獲物を狙っていますし、本作の主人公の女の夫を見る目つきは、愛のこもったうっとりとしたものというよりも、むしろ、いつも一歩下がって客観的なところから“あんた誰?”と言っているような鋭さをもっているように思えてしまいます。

 次に、主人公を演じる俳優が、どちらもそれまでに演技の経験がなかったこともあるのでしょう、二人の動きはひどくぎこちない感じがします。特に、同作の主人公のミシェルが、駅とか競馬場とかで歩く場合、やや猫背気味で、なんとなく手足がバラバラな感じがしますし、本作の主人公の女が、例えば、バスタオルを付けたままベッドにいる夫に向かって行く場面も、なんとなくプールの飛び込みのような感じになってしまっています。

 それに、『スリ』では所々で主人公が綴るノートが読み上げられて、また本作では男のモノローグが所々に挿入されて、物語が進行していくこともあって、両作とも主人公が直接語る台詞はかなり少なくなっています。同作に登場する他の人物はかなり喋るのですが、ミシェルは寡黙と言っていい感じがしますし、本作に登場する質屋の主人は、妻の自殺の原因についていろいろ饒舌に語る一方で、主人公の女はほとんど何も語らずに死に至ってしまいます。
 その上、フランス語ですから確かなことはわからないとはいえ、誰もが皆ボソボソと明瞭ではないしゃべり方をしているようでもあります(注7)。

 こうした共通すると思える点は、あるいはブレッソンの映画に特有のことなのかもしれません。

(3)そこで、昨年の11月に出版された三浦哲哉著『映画とは何か フランス映画思想史』(筑摩選書)の第3章が「ブレッソンの映画神学」と題されていますので、ほんの少しだけ覗いてみましょう。

 同書のP.130に、「ブレッソンが望んだことは、俳優の自己への意識が消えることで、イメージそのものが自律することだった。作為的な表現を禁じられ、イントネーションをつけて話すことも禁じられたモデルたちの自動的な身体は、「自己」を意識の上で喪失している」などとあります。
 具体的には、ブレッソンは、「職業俳優を起用することをほぼ完全にやめる」と述べ、「撮影中はモデルたちに現像したフィルムを一切見せなかった」そうですし、アフレコで台詞を吹き込む際にも「モデルたちに映像を見せることなしに作業を進めた」とのこと。

 なるほど、そういうことの結果として、上で申し上げたような共通項が見出されるものと思われます(注8)。

 このところの映画で言えば、例えば、『フォックスキャッチャー』におけるスティーヴ・カレルとか、『イミテーション・ゲーム』でのベネディクト・カンバーバッチや『博士と彼女のセオリー』のエディ・レッドメインなどの演技が絶賛されているところ、確かに類稀な演技であることはそのとおりだとしても、同時にかなり胡散臭さ(もしくは、押し付けがましさ)を感じてしまうのは、もしかしたら本作や『スリ』における俳優たちの動きとくらべてみることによって説明できるかもしれません。

(4)なぜブレッソンがそうした考え方・方法を採るに至ったのかについての詳細な考察は三浦氏の著書自体に譲るとして、その背後にはカトリシズムがあるようながら、三浦氏によれば、「ブレッソンの宗教性は、頭でっかちの教条主義でもなければ、無味無臭の禁欲主義を勧めるものでもなかった」とのこと(P.110)。
 確かに、『スリ』のラストシーンには、三浦氏の言葉を使えば「生々しいエロティシズムが脈打っている」(P.111)と言えるのではないかと思えますし、本作におけるバスルームのシーンも(注9)、ある意味で本作の一つの山場と言えるのかもしれません。
 そんなところを起点に、今度は原作と本作との比較を行ってみる必要があるものと思いますが(というのも、原作には、そんなバスルームの場面など描かれてはいないからですが)、記事があまりに長くなりすぎますので、ここまでは入り口でこれからが本論ではないかと思うものの、又の機会といたしましょう(注10)。

(5)外山真也氏は、「ブレッソン作品を見ることは、映画を見ることと=(イコール)だから。言い換えれば、その画面には、映画とは関係のないもの、“映画的”ではない要素は一切映っていないのだ」などとして★5つを付けています。
 藤原帰一氏は、「夫の存在が妻を押し込める牢獄になっており、妻はそこから逃れようと藻掻いている。言葉にするといかにも陳腐ですが、それを台詞も演技も取り去った空間、挙動、そして目線だけで伝えてしまう。とんでもない表現力です」と述べています。
 廣瀬純氏は、「手が一階で視線が二階。マルクス経済用語で言えば、下部構造と上部構造のような関係があります」云々と述べているようでう(注11)。



(注1)監督・脚色・脚本・台詞はすべてロベール・ブレッソン。
 今回上映されたのは、1969年に公開されたもの(日本公開は1986年)のデジタル・リマスター版。
 原作は、ドストエフスキーによる同名の短編小説〔『やさしい女 白夜』(井桁貞義訳、講談社文芸文庫)〕。

(注2)原作小説(文庫版)の冒頭の「作者より」では、「テーブルの上には妻の遺体が横たわっている」と書かれており(第1章の冒頭でも、「彼女はいま、応接室のテーブルの上に横たわっている。トランプ用のテーブルを二つ並べた上に」と書かれています)、訳者・井桁貞義氏による解説「訳者の夢」には、「ロシアでは棺が届けられるまで、遺体を清めたり、別れを告げたりするのにあたって、寝台でもなく、床でもなく、テーブルの上に横たえられる」と述べられています(P.226)。
 ブレッソンは、舞台を、原作のロシア・ペテルブルグからフランス・パリに変えるにあたって、テーブルをベッドに変えたものと考えられます。
 ちなみに、時代も90年ほど新しくされていて、例えば、本作における二人の部屋にはテレビが設けられており、女は、大きな爆音を立てているカーレースの番組を見たりしています(テレビにはナチスのゲーリングが映し出されたりしますが、だからといって、時代設定が戦前ということはないでしょう)。

(注3)なお、女は、キリスト像の付いた十字架まで質屋に持ってきますが、質屋の男は、金でできた十字架の重さだけを測って、象牙細工のキリストの方は女に返却します。これは、ブレッソンが敬虔なカトリック信者であることによるのでしょうか?

(注4)主演は、その後『暗殺の森』などで世界的に名が知られるようになるドミニク・サンダで、当時17歳とのこと!
 他に、ギイ・フライジャンジャーヌ・ロブル(老女役)が出演していますが、前者はその後の出演作は不明ですし、後者もトリュフォー監督の『緑色の部屋』に出演したことしかわかりません。

(注5)あらすじは、例えば、このサイトの記事

(注6)何より、両作ともドストエフスキーの小説によっています(このサイトの記事によれば、『スリ』は『罪と罰』にインスパイアされた作品だとする向きがあるようです)。

(注7)アンドレ・バザンの『映画とは何か』(野崎歓他訳、岩波文庫)の「9.『田舎司祭の日記』とロベール・ブレッソンの文体論」には、「ドラマチックな要素を持つ多くの優れた会話が、俳優に課された一本調子のせりふ回しによって押し殺された」とか(P.184)、「せりふを体で表現することも求められず、ただせりふをいうことだけが求められた」(P.193)、「棒読みの文章」(P.205)といった表現が見られます。

(注8)ブレッソンの映画に見られる登場人物のなんとなくぎこちないような動きは、俳優による作為的な表現を抑えこむために、実に沢山のテイクを重ねたことによっているように思われます(三浦氏の著書のP.140)。このサイトの記事によれば、ドミニク・サンダは、「(ブレッソンは)同じテイクを60回撮り直すこともありうると聞いていましたが、私は12テイク以上撮りませんでした」と回想しています。

(注9)バスタブに入っている女が石鹸を落としてしまい、それを外にいた夫が拾って女に手渡すのですが、バスタブから女の美しい足が差し出されているにもかかわらず、女の目付きもあり、お互いに黙って見つめ合うだけで、夫はその濡れた足に触ることができません。

(注10)上記「注9」で触れたシーンを見ると、上記「注7」で取り上げた『映画とは何か』で、アンドレ・バザンが、「小説から派生した第二次の作品としての映画について、原作に「忠実である」というだけでは十分ではない。なぜなら映画はそれ自体が一篇の小説だからだ。そして何と言っても、映画は小説よりも「優れている」わけではないにしても(そもそもこうした価値判断には意味がないのだが)、小説「以上のもの」であることは確かだからである」と述べていることが想起されます(文庫版上巻P.212)。
 とはいえ、同書の第9章は、あくまでもブレッソンの『田舎司祭の日記』についての論考であり、その記述がそのままブレッソンの他の作品にそのまま当てはまるとも思えません。
 特に、バザンは、「ブレッソンにとって小説は生のままの事実であり、与えられた現実であって、状況に合わせて書き換えたり前後のつじつまを合わせるために手を加えたりするべきではなく、反対にありのままの姿で認めるべきものなのだ。ブレッソンは原作の文章を削ることはあっても、決して要約することはない」と述べています(P.198)。
 とはいえ、原作では物語を語る質屋の主人があくまでも主人公でしょうが、本作ではその男は女の行動を説明するナレーターの役割しか与えられておらず、主人公はむしろ質屋の主人の妻となっています〔そのためでしょう、彼女は色々と肉付けされています。例えば、原作の女より遥かに教養のある人物として(補注)〕。



 ですから、例えば、原作文庫版の「作家案内」において山城むつみ氏は、「『やさしい女』の主人公は、まず女から銃口を突きつけられて自分の死(とその向こう側)を凝視するが、最後には彼女の遺体の傍らでこの他者の死(とその向こう側)を正視させられる」と述べているところ、本作においても妻が夫の頭に銃口を向ける場面が描かれているとはいえ、そのシーンにそんなに重きが置かれてはおらず、単に彼女の様々の行為の一つにしか見えないところです。

(注11)ですが、店が1階にあり、住まいが2階にあるというのは、パリではよく見かける構造なのではないでしょうか?そんなところにマルクスの「下部構造と上部構造」を持ち出すのは大袈裟すぎるように思います(『アントニオ・ネグリ 革命の哲学』の著者の廣瀬氏は、ブレッソンを自分の庭に引き入れるべく、彼の映画を手垢にまみれた古めかしい用語で包み込もうとしているにすぎないのではないでしょうか?)。

〔補注〕なにしろ彼女は、自然史博物館に行くと、「生き物の構造はどれも同じ、配列が違うだけ」と言ってみたり、「ハムレット」を観劇した後、家で、「わざわざ省いてある台詞がある」と言って、戯曲の当該箇所を夫に示したり、さらにはゲーテの『ファウスト』からの引用に応えたり(この記事)、H・パーセルのレコードに聞き入ったり(この記事)するくらいなのですから!




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