見ないフリ

一時的な対応策にしかならない現実逃避をずっとするブログ

三度目の殺人

2017-10-06 | 本と漫画と映画とテレビ
誰が殺した コマドリの雄を
それは私よ スズメがそう言った
私の弓で 私の矢羽で
私が殺した コマドリの雄を

―童謡・マザーグース『コマドリのお葬式』より


だ~れが殺したククロビン。



パタリロ懐かしい。
小さい頃、夕方のアニメ観てたな~。
バンコランの恋人・マライヒが、
服を脱いでも胸が平らなことが謎だったっけ・・・

いや、パタリロの思い出はどうでもよくて。


結局、いったい誰が殺したんだ…!!!

『三度目の殺人』

監督・脚本:是枝裕和
撮影:瀧本幹也
音楽:ルドヴィコ・エイナウディ
出演:福山雅治、役所広司、広瀬すず



強盗殺人罪で起訴された容疑者(役所広司)と
彼の弁護を担当することになった弁護士(福山雅治)、
そして被害者の家族(妻:斉藤由貴、娘:広瀬すず)の物語。


いつだったか、福山雅治が自身のラジオ番組で
「是枝監督作品の中で、一番しゃべりが多い映画だと思う」
的なことを語っていたのがずっと頭に残っていて、ようやく観に行く。

内容はいわゆる「法廷もの」。

映画の主要な舞台となる裁判所や弁護士事務所の渋い雰囲気から、
シドニー・ルメットの『十二人の怒れる男』や『評決』的な逆転劇を期待して
最後まで観ていたんだけれど・・・。

最終的にはなんか、黒澤明の『羅生門』だった。

事件の解釈は人それぞれで、
真相は、<藪の中>っていう。


確かに、映画の中盤で、
福山雅治の同僚役の吉田鋼太郎が
「群盲象を評す(※)」の話をしていたけども。。。

(※数人の盲人が象の一部だけを触って感想を語り合う、というインド発祥の寓話。転じて、人は大きな事物・人物の批評に対し、その一部分を見るだけで、正しく全体を把握することができないという意味で使われる。真実の多様性や誤った理論に対する教訓として使用されることが多い。ちなみに、コロンバイン高校銃乱射事件をテーマにした2003年のガス・ヴァン・サントの映画『エレファント』のタイトルも、この「群盲象を評す」という言葉が由来のひとつになっているのだとか)


まさか、エンドロールを眺めながら、
「分かんねぇ。さっぱり分かんねぇ」つってひとりごちる
『羅生門』の志村喬状態になるとは思わなかった……。




こんなに惑わされるのも、
ひとえに、役所広司の演技がすごいからだと思う。
「怪演」ってこういうことをいうのね。

もしも、彼の弁護士がドラマ『リーガルハイ』の古美門さんだったら、
検事がドラマ『HERO』の久利生公平だったら、
現場の刑事が古畑任三郎だったら、
名優・役所広司演じる容疑者・三隅の態度も変わってくるんじゃ…?

そのパターンの演技も観たい。是非。
だって「器」だもの。

なんて、無粋なことを考えてしまいます。


事件の真相だって、
弁護士役の福山雅治が唱えた説がいちばん美しいけれど・・・
役所広司の怪演にひっぱられて、登場人物すべてが
ウソっぽくみえてくるから怖い。

被害者の娘(広瀬すず)、ウソ泣きじゃない?
弁護士の娘は「私はウソ泣きが得意」って披露してたよね?

被害者の妻(斉藤由貴)、怪しくない?
夫が殺害されて、裁判も終わっていないのに
家の中であんなフルメイクする?

(斉藤由貴は、この映画の公開に合わせて
週刊誌にネタを提供したんじゃないかと疑うくらい
役柄とプライベートがリンクしていて感心した。三度目の不倫)


あと、裁判そのものに加えて、
裁判前に、裁判官と弁護士、検事の三者が集まって
事件の争点などを整理する「公判前整理手続」というものが
がっつりと描かれるせいか、
検事役の市川実日子の存在感のせいか、
ちょっと『シン・ゴジラ』や『踊る大捜査線』っぽさも感じられます。

裁判に限らず、どんな仕事でも、
進み始めたプロジェクトにNOというのは難しいもんです。

そして、
「裁判の結果≠真実」というのは
真理だけれど、それってかなり恐ろしい。


最後に。
さんざん「誰が殺したの?」と騒いでみたけれど、
きっと、この映画では、犯人が誰かということは重要じゃないだと思う。
(ヒッチコック映画でいうところの「マクガフィン」的な存在?)

容疑者とその弁護士、そして、被害者の娘が
1つの殺人事件を通して、己の意識を変えていく(過去の自分を葬る)。
この過程を味わう作品なのかな? (知らんけど)


なんていうか、自分の目が小さすぎて
狭い視野でしかこの映画を観られていないような気がする。悲しい。

コメントを投稿