日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

エリコの町の周りを回りなさい

2011-11-20 17:57:56 | メッセージ
宣教 ヨシュア記6:1-21

近年の考古学の調査によりますと、このエリコの起源はヨシュアの時代よりずっと遥か昔であり、その時代から分厚い石造の城壁で囲まれ、それほど大きな町ではなかったのですが、驚くほど高度な文化的発展を遂げて来たといわれます。エリコの城壁が堅固で高かったのは海面下250mという低地であったことから、外部からの侵入を防ぎ防御する必要があったからでしょう。

先週はヨシュア記4章のろころで、モーセから引き継がれた新しい指導者ヨシュアとイスラエルの人々が、神の箱、それは石の板に書かれたみ言葉の納められた箱に導かれながらヨルダン川を渡りカナンの地に歴史的一歩を踏み入れるという記事を読みました。本日の個所もその神の箱(み言葉)が中心におかれる中でエリコに入っていく出来事となっています。
ヨシュアは2章のところで、エリコに2人の斥候(スパイ)をエリコに送り、予め周辺を探らせていました。その時今日の17節に登場する遊女ラハブが、この2人の斥候をエリコの兵士からかくまって助けます。彼女は「イスラエルの民と共に神がおられること、又神がこのエリコの町をすでにイスラエルのの民にお与えになったこと」を伝え聞いていました。そこで彼女は助けた斥候にイスラエルが攻め込む時、「彼女と親族らを助けてくれるように神のみ前で私に誓ってください」と約束させるのです。それで17節に彼女の名が出てくるわけですが。彼女は、主を畏れ、御心は必ず成ると信じた信仰によって救い出されるのです。新約聖書のマタイによる福音1章のイエス・キリストの系図に、このラハブの名が連ねられているのは驚きでありますが、その信仰のゆえにであったのでしょう。

さておき、イスラエルの民にとってエリコはカナン定着のためには確保したい大事な要の町であったわけです。しかし、エリコの城壁は外部からの攻撃に対して非常に堅固なものであり、城門はかたく閉ざされていました。

ここでまず、主はヨシュアに2節「見よ、わたしはエリコとその王の勇士たちをあなたの手に渡す」と約束されます。この先立つ主の約束がまず重要であります。ヨシュアはその主のみ約束に信頼することが求められます。

続けて主はヨシュアのなすべきことを命じます。
3節「あなたたち兵士は皆、町の周りを回りなさい。町を一周し、それを六日間続けなさい。七人の祭司は、それぞれ雄羊の角笛を携えて神の箱を先導しなさい」。
ヨシュアは主の命じられたとおり、まず祭司たちを呼び集め、6節「契約の箱を担げ。七人は、各自雄羊の角笛を携えて主の箱を先導せよ」と命じ、次に民に向かって、7節「進め。町の周りを回れ。武装兵は主の箱の前を行け」と命じました。

七人の祭司は、それぞれ雄羊の角笛を携え、それを吹き鳴らしなら主の前を行き、主の契約の箱はその後を進みます。又、武装兵は、角笛を吹き鳴らす祭司たちの前衛として進み、また後衛として神の箱に従います。行進中、角笛は鳴り渡っていた、とあります。このような事が7日間に渡って繰り返されたのです。この記述からイスラエルの民はそれぞれにヨシュアの命じることを忠実になしたことがわかります。
又、ヨシュアは他の民に対しては、10節「わたしが鬨の声をあげよと命じる日までは、叫んではならない。声を聞かれないようにせよ。口から言葉を発してはならない。あなたたちは、その後で鬨の声をあげるのだ」と命じます。不思議に思えるのですが、これも実は主のご計画であり、7日目に行なうようにと命じられたのです。
六日間に亘って、イスラエルの民はエリコの町の周りを一周回ることを繰り返しましたが、
ヨシュアは、15節「七日目には朝早く、夜明けとともに起き、その町の周りを七度回った。町を七度回ったのはこの日だけであった。七度目に、角笛を吹き鳴らすと、ヨシュアは民に『鬨の声をあげよ。主はあなたたちにこの町を与えられた。町とその中にあるものは、ことごとく滅ぼし尽くして主にささげよ』」と命じます。
20節「角笛が鳴り渡ると、民は鬨の声をあげた。民が角笛の音を聞いて、一斉に鬨の声をあげると、城壁が崩れ落ち、民はそれぞれ、その場から町に突入し、この町を占領した」とあります。

ここを読みますと、主のみ約束、すなわち「エリコとその王と勇士たちをあなたの手に渡す」とのみ約束のもと、それが実際に成就していく2つの過程(プロセス)が示されていることに気づきます。
一つは、イスラエルの民には六日間という備えの時と申しましょうか、ただ沈黙と信じ従うことに努める時が必要であったということです。「鬨の声をあげよと命じる日までは、叫んではならない。声を聞かれないようにせよ。口から言葉を発してはならない」とあります。己の思いで先走って行動することによって主のご計画が台なしにならないように釘をさしているのです。
この時はひたすら主の計画に信頼してエリコの町の周りを黙して回る時であったのです。
イスラエルの民は六日間淡々と言われたことを行います。何のためかわからないけれど、どんな意味があるのか、この事がどう戦いの勝利に結びつくのかわからないけれど、主にただ信頼することを自らに言い聞かせ、エリコの町を回ったのです。これはある意味、霊的訓練の時ということができましょう。
もう一つは、「鬨の声をあげる時」があるということです。
この七日目は先の六日間と明らかに違っていました。この日は六日間の集大成ともいえましょう。六日間エリコの町の周りをただ回るという積み重ねの中で、遂にこの七日目が訪れるのであります。イスラエルの民はこの日エリコの町の周りを集中的に七度回ります。事に当たるときに集中的になさねばならない時があります。そして七周目、それを終えた後、祭司の角笛が響き渡る中、ヨシュアは民に命じます。「鬨の声をあげよ。主はあなたたちにこの町を与えられた」。遂に鬨の声をあげる時が訪れるのです。
このように2つの時といいますか、ただ主に信頼して従う時。そして、集中して事を行い、信仰を持って成し遂げる時。そのようなプロセスを経て、主のみ約束が実現されるのです。
ここに七人の祭司、七日目、七周という七という聖書で言う完全数が三度も記されていますが、主のみ約束の完成が実現されるためには、しかるべき従う人たちと、それだけの備えの時を要し、普段の七倍くらいのパッション;情熱と気力をもって成し遂げてゆく信仰が必要とされた事が、象徴的に示されているように読めます。
大事なことは、主のみ約束はみ言葉に聞き従うことによって実現するということですが、それはまた「備えの時」と「行動(アクション)の時」があるということです。「すべてに時がある」というあの伝道の書3章のみ言葉にも通じます。備えの時と、行動の時。このことは私たちの信仰の旅路においても共通することであります。

さて、聖書教育では本日の個所、殊に21節「エリコの町にあるものはことごとく皆殺しにした」ことについて、ヨシュアの行きすぎた行為と指摘されています。今の私たちからすれば指導者や兵士だけを処罰すればそれでよいのではないかと読むこともできるでしょう。しかし、旧約聖書では宗教的な意味での破滅、絶滅について確かな規定、律法があり説かれていたのです。これを「聖絶」といいます。聖なる戦いによって勝利し残された敵やその町、財産はすべて主にささげられなければならなかたのです。これを怠り、勝手に自分たちのものとすることは偶像に身を汚したものとして、呪われ、処罰されたのです。17節にあるように「町とその中にあるものは、ことごとく滅ぼし尽くして主にささげよ」というそれが規定であったのです。ですから、これをヨシュアの行きすぎた行為として今日的視座から捉えるには無理があります。7章には、アカンの罪が指摘されています。これはアカンが滅ぼし尽くしてささげるべきものの一部を盗み取ったことをに対して、主がイスラエルの民全体に激しく憤られたとあるとおりです。
しかし、イエス・キリストの到来によって、預言者イザヤが語った、「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」というキリストの福音が私たちのもとに今や実現しているのです。ですから、私どもはこのキリストの平和を造り出す者、実現する者として今、この時代を主イエスはどう捉え、何を願っておられるのか、ということをいつも思い巡らして祈り、行動していくことが大事であります。そういうことで、ヨシュアの態度を行きすぎと捉える聖書教育の読み方には異議といいますか、無理があると思います。
今日の個所から私が祈りのうちに示されましたことは、主のみ約束のもと、「エリコの町の周りを回りなさい」というみ言葉に示される信仰のチャレンジであります。イスラエルの民に与えられた信仰のチャレンジへと、今日私たちもまた招かれているということであります。

最後に、本日は子ども成長感謝を覚えての礼拝でもあります。私は思うのですが、赤ん坊には赤ん坊として大いに泣く時、がむしゃらに自己主張したり甘える時というものがあり、その時を着実に通過することで成長していきます。大人になってからもう赤ん坊や幼児のようにはなれません。赤ん坊、幼児、そして子ども、少年少女、青年と、それぞれに通過していくべき時というのがあるでしょう。そういう、それぞれの「時に適った体験」を与えられ、それを十分に満喫していくことができる人は幸せです。昨日この場で、連合の少年少女会が行われました。私は今だに少年少女会の顧問をさせて戴いているのですが。彼らに対しては、自分が少年少女の時のことを思い返しながら向き合うことをしています。私がその頃教会の関わり、交わりの場を通して得た経験は、その時に適って私によい成長を与えてくれるものでした。それは家庭や学校の勉強では得難い豊かな体験でした。そこに主が共におられ、いやしがあり、励ましがあり、よき仲間が与えられたのです。それで、私は大人の視線からでなく、自分が少年であった時の思いをもって、関わることにしています。幼子には幼子としての時、幼児には幼児の時、少年少女には少年少女の時があり、その時にしか体験できない事柄があります。その時に適った輝きが大事にされ、よい成長が与えられるように祈り、覚えていきたいものであります。もちろん、青年になっても、中年、高齢になりましても、それぞれの時に適った輝きがあり、また成長があります。聖書にございますように、「成長させて下さるのは神であります」。これまでの歩みに感謝しつつ、新たな命の力により、成長させてくださる主に信頼してまいりましょう。今の時を生かすためにも。今日は特に、主の時を意識しながら、子ども成長感謝、また収穫の恵みを感謝する時として、主に祈り、祝福をお祈りいたします。
コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 御言葉の生きた証し | トップ | 逃れの町 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿