日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

いのちの御言葉

2016-08-07 16:17:24 | メッセージ
主日礼拝式 宣教箇所 列王記上17章1~24節 

先週は青年の方々が礼拝のご奉仕を担ってくださり、主にお捧げすることができて感謝でした。又、目には見えませんがお花や受付、台所、お掃除と、世代を越えて共に教会を担い建てあげてゆくゆたかさと広がりを見せられたことも感謝でした。

さて、この8月は原爆投下と敗戦記念の月で、私たちは特に平和を覚えて祈る月間としています。10日ほど前になりますが、又、沖縄高江の米軍北部訓練所周辺で座り込み、軍事ヘリコプターの着陸帯で集落が取り囲まれることに反対の意思を示していた住民らが突如無理やりに排除され、運び出されるということがなされました。中には体調が悪くなり救急搬送された方もいらっしゃるようですが。辺野古でもキャンプシュアブでも、報道されていないのでその現状が見えません。このようなことが現実に起こっているのです。大阪に住む私たちは、原発事故の福島のこと、あの4月の大地震が起こった熊本のことさえも、いまやなかなか報道で伝えられてされていないので、どのような状況であるのかがわりません。痛みや苦しまれている方々の痛みと苦しみが除去されることこそ、私たちの平和につながっていくことになると信じます。イエスさまは「平和を実現する人たちは、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」とおっしゃいました。それは自分が何事もなければよいというのではなく、共に平和を実現する人たちの連帯が示されています。
来週の8月15日の終戦記念日には関西地方連合のおとなとこどもの平和祈祷集会がもたれます。祈り心をもってぜひご参加ください。今年もそれぞれの教会や連合の平和礼拝や集会を経て、また8月を迎えて、与えられた平和への思いを、祈りをひとことにして送ってください、というバプテスト連盟平和宣言委員会より「平和の祈り」の依頼がきております。どうぞ、それぞれのお祈りをお寄せくださると幸いです。よろしくお願いいたします。

「御言葉の飢饉」
さて、本日は列王記上17章から「いのちの御言葉」と題し、聖書から聞いていきます。ここに登場するエリヤという人物は、紀元前9世紀前半、今から約3000年前の北イスラエル王国の預言者でした。彼は決して平和とは言いがたい時代の中で、神のいのちの言葉を語りました。
 その当時の北王国を統治していたのはアハブ王でした。このアハブ王は政略結婚によりめとった異邦人王家妻の影響で神ならざる偶像、バアルの神殿と祭壇を築きそれに仕えました。彼は北イスラエルのこれまでの王の中のだれよりも主の目に悪とされることを行い、主の怒りを招くことを行った、と16章の末尾に記されているとおりです。
預言者エリヤはその王に対して、主の言葉を語ったのです。エリヤの人となりについてはギレアドの住民でテシュベル人であったということ以外、何も記されていません。
彼が誰の子で、どういう家系かということについて何も触れられていません。それはこのエリヤという人が、何か身分や地位のある人から、あるいは権力のある人から遣わされたのではなく、直接「神から遣わされた預言者」であるということを表しています。
そのアハブ王にとってどこの馬の骨か知れないようなエリヤですが、アハブ王の前にただ一人で出て行き、臆することなく主の言葉をまっすぐにこう伝えます。
 「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。わたしが告げるまで(主の御言葉が臨むまで)数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう。」
 それは、アハブが主に罪を犯し、その民にも背信を犯させていることから起こるのだから、それらの罪を悔い改めるように、との警告であったのです。
 それにしても、まあ一国の王様の前でよくぞ言ったものだ、すごい度胸、勇気がある人かと思いますけれども。きっとエリヤだって不安や恐れがなかったわけではないでしょう。唯そこには確固たる神の言葉を示すべき悔い改めの機会があったということです。エリヤは地上の王ではなく、すべてを司る生ける神こそ真に畏れるべきお方であるということを知っていたからこそ、そのように振舞うことができたのではないでしょうか。

ところがアハブ王は「いのちの言葉」を受けても、神に立ち返ろうとはしません。彼は神の言葉を軽んじたのです。
ところで、神が天を閉じ、雨も降らず、露も降りない、となりますと、これは一大事であります。飲み水だけでなく、野菜も作物も採れなくなり、飢餓が来ます。けれども、それが単なる干ばつとして起こるというふうに読むと、ほんとうに大切なことが理解できません。この預言者エリヤが語った言葉に注目してみましょう。彼は「わたしが告げるまで(神の御言葉が再び臨むまで)数年の間、霜も雨も降らない」と言っています。
 つまり大地に露も雨も降らないこの危機的状況は、単なる自然現象ではなく、「神の御言葉の飢饉」であるということです。
 神ならぬ偶像を拝み、目に見えることだけを優先して利をむさぼってきたアハブ王は、神の御言葉がないということの危機的状況が全く理解できません。
 私たちを取り巻くこの今の時代の現象や諸問題の背景にも、このように神の御言葉がないという飢饉とその危機的状況があるのではないでしょうか。いのちの御言葉に生かされる私たちはそのことを見抜き、主の御言葉を乞い求めて祈り続け、御言葉が途絶えることがないように努めべく招かれています。

「神のお計らいと養い」
さて、アハブ王に神の御言葉を告げたエリヤに危険が及んだのでしょうか。
主はエリヤに、「ここを(北イスラエル・サマリア)を去り、東に向かい、ヨルダンの川のほとりに身を隠せ。その川の水を飲むがよい。わたしは烏に命じて、そこであなたを養わせる」というお告げがありました。
 このケリトの川というのは、「断ち切られた小川」という意味があるそうです。その川のほとりはまさにその名のとおり、人里離れ、分断されたような、寂しい地でありました。当然食べ物も無いようなところで、誰だってそんな処に行きたいとは思わない場所であったのです。
 しかしエリヤは直ちにその御言葉に聞き従い、行動に移します。
するとまさに、お告げどおり、「数羽の烏が彼に、朝、パンと肉を、また夕べにも、パンと肉を運んで来た。水はその川から飲んだ」というのであります。それは御言葉に聞き従う者に約束された神の養いの祝福であります。

私どもも時に、ほんとうに神のみ心だと確信し歩み出したものの、まるでケリトの川のほとりのように、寄る辺なく孤独で、想像した以上に厳しい状況に留まる他ない時もあるかも知れません。けれどもほんとうに神の言葉に養われるのは、実にこういった時なんですね。送られて来た1枚の葉書に書かれた御言葉に力を得たり、何気なくかかってきたような信仰の友の電話に、希望を見出せた、というご経験があるのではないでしょうか。そんな時「ああ、主は私のことを覚えていてくださるんだなあ」と深い慰めと励ましを感じることでしょう。

ところで、烏が人間にパンや肉を運んでくるなんて何ともユニークです。天王寺周辺の烏といえば生ごみや残飯の入ったごみ袋を突いて物色し、辺りかまわず散らかしまくって去っていくという迷惑もの、嫌われものという印象があります。旧約聖書の中でも、烏は汚れた鳥として食べることが禁じられていたり、人の目を突き、荒れ果てたような地に住みつくことから嫌われ、不気味な鳥として見られていたのです。

そのような烏ですけども、実はイエスさまのお話にも登場します。
イエスさまは烏を引き合いに出しこうおっしゃいました。
「烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる」(ルカ12章24節)
神は烏にも深いご配慮といつくしみをもっておられるのです。烏も神がお造りになられた神の作品であり、愛されるべき美しいもの、神の目からご覧になれば、つまらないものでも、存在価値のないものでもないとうことです。イエスさまは敢えて空を飛ぶ鳥の中から烏を選び、神ご自身の私たちに対する愛と配慮を教えてくださいました。今日の箇所では、神はその烏をお用いになってエリヤを養われたというのですね。
身も心も疲れ果て、不安の中にいたエリヤ。神の御言葉を伝えても理解されない虚しさと孤立無縁のやるせない状況にあったエリヤに、、嫌われもののカラスが寄り添うように日々食物をもって養った。何という神のお計いでしょうか。「神のなさることは、その時に適って美しい」という伝道の書の御言葉が思い起こされますが。
 私たちも行き詰まったように思える時、万策尽きたと思いあぐねるその時、ある意味もう失うものは何も無いとの思いに至った時、私たちはそこで下を向き続けるのか、主を仰いで一日一日を主に養われて生きるのか。そこで人生の質は大きく違ってまいります。私自身今日、明日の食べるもの、生活の必要がどうなるか、という時に、不思議と必要が満たされた、という経験を幾度となくいたしました。そのような時ほんとうに主は私のことを覚えていてくださるのだと大いに励まされたものです。
 主は今も生きておられます。烏を用いてエリヤを養われたように、時に適った御言葉と共に生きる必要を満たしてくださるお方なのです。

聖書には、「神のお計らいと養い」についてもう一つのエピソードが続きます。
ケリトの川のほとりでカラスに養われたエリヤでありましたしたが、やがてこの地方に雨が降らなくなり、川は枯れてしまい飲み水もなくなってしまいます。

そのとき主の言葉が再びエリヤに臨みます。
8節「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる」。
今度もエリヤは主の言葉どおりに、立ってサレプタの町に行きます。この町は異教徒の地でありましたから、エリヤはそこに入ることに躊躇や戸惑いがあったと思われます。ある意味エリヤは御言葉に聴き従う信仰が試されたのではないでしょうか。しかし彼は主が言われたようにそこに入り、一人のやもめが薪を拾っているのを見つけると、「器に少々の水を持って来て、わたしに飲ませてください」と声をかけます。この時代薪を拾って生活していた人たちは非常に貧しかったということです。それをエリヤは知っていました。その服装から彼女がやもめであることもわかっていたのでしょう。エリヤは、この女性に「パンを一切れ、手に持って来てください」と願ったというのです。まあ、水を分けてくださいというのは許せるかも知れませんが、薪を拾っている貧しいやもめにパンを一切ください、というのはあまりに非常識といいますか、ずうずうしく思えます。

案の定このやもめは、「わたしには焼いたパンなどありません。ただ壺の中に一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油があるだけです。わたしとわたしの息子の食べ物を作ってそれを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです」と答えたというのです。
そこまで言われると、普通人間的に考えればそりゃあ最もで無理も無いことと、相手を思いやることを優先するのではないでしょうか。
ところが、エリヤはそこで引き下がらないのですね。エリヤは彼女に「恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。だが、まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。」 そして、「主が雨を降らせるその日まで、ずっと壷の粉はつきることなく、瓶の油はなくならない」との主の御約束を伝えるのです。
すると、やもめは行って、エリヤの言葉どおりにした、というのです。それは驚きではないでしょうか。今その粉でパンを作り、食べれば死を待つばかりの人が、このどこの誰とも分からない人の言葉どおりに、たとえ小さなパン菓子といってもそのような状況の中で作って持ってきたのです。主はエリヤを養われるのに、何も持たない、何も頼るものがないやもめをお用いになるのです。 それは、かえって神にすがる他ないような貧しい彼女だったがゆえに用いられた、といえるのかも知れません。逆に、これがゆたかで何不自由なく満たされて人であったなら、わずかな粉であっても祈りながら、神の言葉にかけて他人のためにパン菓子を作って持っていくことなど果たしてできたでしょうか。
イエスさまはおっしゃいました。「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」
彼女が主の御言葉に聞き従った時、「主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、壷の粉はつきることなく、瓶の油もなくならなかった」と聖書は伝えます。
いのちの御言葉に聞き従っていく人のうえに、神さまのすばらしい御計らいと養いがあること、そこに証しがゆたかに立てられていくのですね。

「主に祈れる特権」
烏とエリヤ、やもめとエリヤのエピソードから、御言葉に生きる人に臨む主の御計らいと養いについてのメッセージを聞いてきましたが。この17章の最後には、やもめの息子が病気で亡くなるという悲しい出来事が起こります。これには思わず「なぜ、どうして」と言いたくなりますが。悲嘆にくれるやもめの思いはいかばかりであったでしょう。夫を亡くし女手1つで子を養い、その成長だけが彼女の希望と慰めであったのではないでしょうか。
彼女がエリヤに「神の人よ、あなたはわたしとどんなかかわりがあるのでしょうか。あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか」と痛烈な言葉で訴えます。クリスチャンであっても、予期せぬことは起こります。
「聖書の言葉、あるいはイエス・キリストとわたしがどんなかかわりがあるのか」と思ったり、「あの罪のせいだろう」と後悔に責めさいなまれたり、「なぜ神はそのような仕打ちをなさるのか」と感情的になることがあるかも知れません。そしてそんな自分を情けなく思ってしまうものです。
 けれどもエリヤはそんな彼女を一言も責めたりしませんでした。エリヤは彼女の悲しみとその息子の遺体をその身に重ね、主に必死に訴え、「命を元に返してください」と取り成し祈るのです。すると、主はエリヤの声に耳を傾けて、その子の命を元にお返しになった、というのであります。
ここでのエリヤは預言者というよりも神と人との間を取り持ち、つないでゆく祭司のような働きをなしているようにも思えますが。私がここで何より心を動かされますのは、エリヤがやもめと同じように感情をあらわにして「あなたは私が身を寄せているこのやもめにさえ災いをもたらされるのですか」と、激しく主に訴えているということです。又死んだ子どもの身を自分の身に重ねて3度祈ったとあるように、その子の哀れな姿の中に自分を重ねて彼は主に必死に訴え祈るのですね。生と死を司っておられる主なる神さまを一心に信じていたがゆえに、激しいほどに主に強く訴えているその姿であります。
 主は、その信じるがゆえに激しく訴えるエリヤ祈りの声に耳を傾けてくださるのです。
祈りは心の中で祈っていれば主がすべてをご存知なのだから聞いてくださっている、と思われる方もおられるかも知れません。しかし主は何よりも私たちの心のうちにあるほんとうの思いを心開いて表すのを待っておられるのではないでしょうか。ストレートな飾りのないほんとうの思い。心のうちにあるうめきや叫びをまっすぐに神のまえにさらけ出し訴えることを待っておられる。そのことがここに伝えられています。
 私たち主を信じる者にとってのすばらしい特権は「祈り」です。
先週の信徒研修会の中で、今給黎先生が「教会も社会の一部であり、からだ性をもつがゆえに様々な問題や課題があるということを認識する必要がある」ということをおっしゃったんですが。同時に何より幸いなことに、人と人との関係修復が人間の力によってはできないものがあるとき、私たち主に生かされた者は、主に祈り、取り成され、又、祈り合う中で、主のいのち御言葉と聖霊の導きが人知を超えて働かれる。その生ける恵みを私たちは体験することができるということですね。主が生きてお働きになられていることを共に知り、励ましを受けていく。そのようなキリストにある証しと平安を私たちは体験していく機会を教会をはじめとする、あらゆる関係性のの中で与えられているということであります。

 故郷を追われ孤立無縁の中にあったエリヤは、烏に、そして異邦人のやもめに養われ、こうして命が取り戻されるという出来事を目の当たりにすることで、エリヤはさらに神のいのちの言葉を語る預言者としての復活を果たしていきます。
 一方、やもめはエリヤの激しい取り成しの祈りによって、息子の命が元に返ったことによって、主の言葉は真実です、といのち言葉なる神への信仰告白を表明します。眞の主との出会いを経験した彼女の人生も新たなものとされたことでしょう。

 私たちも、世の日々の生活の中で様々な出来事が起こっていきますけれども、私たちの信じる主は、生も死もすべてを治め、私たち一人ひとりの存在を喜び、その一人ひとりの必要をご存知です。私たちのうめきも、痛みも、嘆きもその身に引き受け、知っていてくださる主をどこまでも信頼し、そのいのちの言葉と祈りの武具を身につけて、歩みゆくものでありたいと願います。
コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「悲しみ」を本当に知る | トップ | どっちつかずの民に »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿