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主のために共に生きる

2017-06-18 14:11:06 | メッセージ
礼拝宣教  ローマ14章1節~12節 

本日は沖縄(命どう宝の日)を覚える日として、先ほど祈りとアピールがありました。
命どぅ宝、命こそ宝。それは鉄の雨といわれた爆撃とねじ曲げられた教育、思想統制によって集団自決に追い込まれ、犠牲となった方々の祈りの言葉に思えました。
個々人の内心の自由を侵害してきた戦前の治安維持法によって歯止めが効かなくなっていた戦争への動き。この過ちがどうか二度と繰り返されることのないように祈るばかりです。

本日の14章を読みますとローマの教会内には菜食主義者や特定の日を重んじるキリスト者たちがいたことがわかります。
ユダヤの人々は律法に定められた食物規定を守ることや特定の日を重んじる慣習があり、それを神の民のなりわいとして生きていたのであります。
それが、主イエス・キリストを信じて義とされてキリスト者とされたとき、もはや食物規定や特定の日を重んじるという、こだわりや捕われからの解放が、恵みによって与えられるのであります。
しかし、中にはその捕われから抜け出すのが困難な人たちもいました。キリスト者であるからには、「こうあらねばならない」「こうでなければふさわしくない」と、自らを律することは良いのですが。それが高じて、自分と違う考え方の人を裁く人たちもいたようであります。

1節のパウロのいう「信仰の弱い人」というのは、主イエスにある救いの確信が弱いために、そのように「かくあるべき」という決り事、規定を守っていたおそらくユダヤ人キリスト者の一部の人たちを指していたようであります。

主を信じているクリスチャン、キリスト者は、律法を守るから救われるのではなく、
イエス・キリストの救いの恵みを、ただ信じ受け入れて救われているのです。その恵みに感謝をもって応えて生きる。それは各々に委ねられていることで、全く自由なのです。きまりなどないのです。
そのように「キリスト者」は形骸化した規定や戒めから解放されています。けれども、そのことに何らかの疑いや懸念を抱いていた人たちがいた。
「キリストを信じるだけで救われるなど虫がよすぎる」「もっと清い生活に心がけるべきだ」と、食物規定や特定の日を重んじ、ストイックな生活をしていた人たちがいた。そういう人をパウロは「信仰の弱い人」と呼んだのでありましょう。

ローマの教会内には、そういった立場の人は少数で、数のうえでは「何を食べてもよいと信じていた人たち」が多数を占めていました。

そのようになっていきますと、今度は何を食べてもよいと信じる人たちが、野菜だけしか食べない人を信仰が足りないということで批判したり、軽蔑するようになっていくのです。
このようにローマの教会は、互いに主張し合い、軽蔑と裁き合いによって主の交わりが損なわれていくような残念なことが起こっていったということなのでしょう。残念といえばこんな残念なことはありません。せっかく救われて神の子とされて神の家族とされたのに、優劣をつけたり、軽蔑したり、蔑んだりと、神の恵みが躓きを与える場になっていきます。

パウロ自身はキリスト者となってからは、「なんでも食べてもよい」と信じていたのでありますが。それは彼自身が単に律法を厳格に守り、行うからといって罪は解決され、救われる者ではないということを、イエス・キリストの十字架の福音と出会い、身をもって知ったからです。
どんなにがんばっても、善行を積み、人から称讃されようとも、一方で罪を繰り返し犯してしまう。そんな罪ある自分のためにイエス・キリストは十字架にかかられた。人にはなし得ない罪からの解放が、イエス・キリストによって与えられた。そのことを受け入れたとき、パウロはもはや、すべての律法の縄目から解放されたことを知ったのです。

さて、そういうパウロはまず、「何を食べてもよいと信じているキリスト者」に向け、
1節「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません」と非常に強い口調で勧告します。

実はコリントの教会もローマの教会とは異なりますが、それと似たような問題を抱えていました。それはコリント一8章の「偶像に供えられた肉」というところに詳しくあります。
当時ギリシャ神話など偶像だらけであったその所では、食用にする前に肉を供え物にして献げ、その肉を市場などに卸して売買していたのです。
パウロ自身は、そういう「偶像の神」にたとえ供えられた肉だとしても、主イエスのもとにあるならすべては清い。信仰をもって頂くのなら、それを食べて汚れるということはないとの考えをもっていました。そもそも「偶像の神など存在せず、神は唯一なるお方である」との信仰のうえに立った知識をもっていたからです。

そのパウロはこうも述べています。
「この知識がだれにでもあるわけではありません。ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです。わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません。ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい」。
主にある信仰によって選びとった行動が、パウロのいう弱い人、つまりあの人がやっているから、やってもいいのかな、と信仰によらないで迷いのうちにやってしまう。すると神の前に弁明の余地無く罪を犯すことになるということを、パウロは言っているのです。
さらに、パウロは述べます。「知識をもっているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを、だれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか。そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。この兄弟のためにもキリストは死んでくださったのです。・・・中略・・・食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません」。
私たちの教会においても10数年前でした。イースターエッグをお近くにある他の宗教のもとへもっていった折に、お返しにお供えの赤飯を頂いたということがあったとき、それをどのように扱ったらよいか、という物議が起こったそうです。
まあ、それを感謝していただいて食べるという方がいる一方で、私は頂いて食べるには抵抗があるという方もおられたようです。そう言う中、各々の信仰で選ぶこととなり、ローマやコリントの教会のように裁き合う事は無かったようで、そうように互いの信仰観を尊重できるということが大事だと思います。

その8章の冒頭で述べているパウロの言葉をお読みします。
1-2節「偶像に供えられた肉についていえば、『我々は皆、知識をもっている』」ということは確かです。ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです」。

そこには、自らの信仰的な考えと異なる人を非難したり、軽蔑するようなことが決してあってはいけない、と厳しくいさめるパウロがいます。

パウロは、すべての信仰者が食べものについて、同じ意見でなければならないとは考えていません。肝心なのは、6節にあるように「食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も主のために食べない。そして、神に感謝しているのです」と、双方がそれぞれのあり方で神に感謝している。そのことが尊いと言っているのです。
もしみんな自分と同じ意見や考えでなければならないとなったらどうでしょう。意見や考えを同じくする者同士でグループを作ってしまい、意見を異にする者とは関わりを持たなくなります。どこの世界でもそうやって分裂や分派ができていくのが世の常ですが。しかしそれが主に救われた者同志、キリストのからだなる教会でなされたならどうでしょう。私の信仰観こそ正しいと主張し、いがみ合うクリスチャンを見て多くの人が躓き、神の国はどこにあるのかという事態に陥ってしまうとしたなら、それこそ本末転倒です。

さて、4節でパウロは「他人の召使を裁くとは、いったいあなたは何ものですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです」と述べます。

ちょっと私たちには分かりにくい表現です。
これは当時のローマの家の奴隷を引き合いに出したたとえなのですが。
召し使いは各々主人のもとにいるのであり、裁くのであれば、その主人に権限があるわけで、召し使いの間では裁く権限はありません。なぜなら各々は主人のものだからです。
同様に私共キリスト者は、イエス・キリストによって罪贖われて、主のものとされたのであります。その主のもとにある一人ひとりですから、当然、裁くとすれば主がお裁きになるのであり、クリスチャン同志があなたは罪人だと裁いたり、レッテルを貼るようなことはできないということです。私たちは裁く立場、また人から裁かれる立場にはないということであります。
召し使いが「立つ」も「倒れる」も、この主人である主の意のままであり、たとえ信仰のうえで倒れるようなことがあったとしても、主がその人を立たせることがおできになる、ということをパウロは確信をもって言っているのです。

ここで大切なのは、主人である主の心を自分の心としていくいとき、主は兄弟姉妹をも憐れまれたことを考えなければならない、ということであります。もう一度言いますが、主の御心を生きていくとき、主はどの兄弟姉妹も同様に愛しておられる、ということを忘れないようにしなければなりません。多くの場合そのことを忘れたために裁いたり、見下したりしてしまうからです。
何を選び取るにしても、「私はこう考えるが。しかし主は何とおっしゃるだろうか」「主はどのようにお考えになるだろうか」。そのことを祈り求めていくことは大事です。

5節には、「ある日を他の日より尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます」と、まあ、祭儀やまつりごとにおける守り方について様々な考えの違いがあったようです。これは日本という社会において他宗教の方の葬儀やクリスチャンでない家族が亡くなった後の供養や祀りごとと如何に関わっていくかとも関連していますが。
それらのことについてパウロは、「各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです」と述べます。
肝心なのは、各々が神との交わりの確信に基づいて決めるべきことであり、一人ひとり
の主に向かう心が尊重されなければならないという勧めであります。

今日は読みませんでしたが先の22節以降に、「自分の抱いている確信を、神の御前で心のうちにもっていなさい。自分の決心にやましさを感じない人は幸いです。疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動しないので、罪に定められます」と語られています。

その「確信」とは、主イエスがわたしのために血を流し、肉を裂いて罪の束縛から解放し、救い出してくださったという恵みであり、その恵みにただ感謝し、よろこんで主のために仕えて生きる心にあります。何事も、その感謝の思いから出ることを神は喜ばれるのですね。

何を選択するにしても、人と比較するのではなく、私の感謝を捧げて生きる。そうであるなら私たちは知識によって高ぶることはないでしょうし、愛は立て上げるという信仰の恵みに生きることができます。
主に喜ばれることを目指して生きようと願う人は、食事にせよ何にせよ、神に感謝してなすなら、人を裁くようなことは起こり得ないはずです。
それが、喜びや感謝からでなく、義務感、さらには自己満足のための裁きや要求になっていくとき、それは本来の祝福を見失っている状況に陥っているかも知れません。何をするにしても、しないにしても、初めの喜びを見失うことのないようにしたいものです。主の愛と感謝のうちに留まり続けること。これに尽きます。

そういうことで、本日のみ言葉の中心メッセージは8節-9節にございます。
「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです」。

キリスト死と復活のバプテスマに与ったキリスト者は自らの生も、そして死すらも、主イエス・キリストに結びついているのです。
今、私の生きているありとあらゆる時間・場所・生の全領域のことがらは、主との結びつきにうちにすべてがあるのです。ここにキリスト者の根源的な安らぎと平安がございます。
同様に救いに与ったどの兄弟姉妹も尊い者とされている。主のものであるのですね。
何を食べているか、食べていないか。かの日を尊んでいるか、否かといった偏見の眼で高ぶり、見下し、主の兄弟を裁く者に対して、パウロはだれもが主のものとして尊い存在ではないのか!10節「それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです」と訴えるのであります。

主イエス・キリストが再び来られる主の勝利の完成の時、すべての人が神の裁きの座の前に立つのであります。
その時、12節にあるように「わたしがなしてきたことについて、(このわたしが)神に申し述べることになるのです」。

人間一人ひとりの考え方やその思想はみなそれぞれに違います。それは又、時と共に移ろい行くものでもあります。教会はそういう中で、何を大事にしてきたのか、何を基としていくのか、ということを聖書から聞いていく必要があります。
今日の荒波の時代にあっても、私がキリスト者として、又教会がキリストのからだとして神のいのちのことばである聖書から聞いていく。

キリストに罪贖われて「主のもの」とされた私です。教会に連なるだれもが、私と同様「主のものである」という尊敬の念をもって接し、お互いに神の愛によって仕え合い、立て上げられていくようにと、招かれています。

今週も今日の御言葉をこころにとめ、ほんとうに人を生かす福音の歩みへと導かれてまいりましょう。

最後に14章17-19節と22節を読んで宣教を閉じます。
「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか」
「あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい」。

今日もここからそれぞれの持ち場へと遣わされてまいりましょう。祈ります。
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