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命を守るために

2017-07-23 12:51:38 | メッセージ
礼拝宣教 創世記3章1~19節 

「神と人との信頼関係」
先週の2章において「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。」(7-9節)
さらに「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」(16-17節)とありました。

このように様々な木々とともに、園の中央には「命の木」と「善悪の知識の木」の二つの木が生えていたということです。
ここで注目すべきは、神は園の中央のもう一つの「命の木」については何もおっしゃっていないということです。ただ、園の中央にある「善悪の知識の木から取って食べてはならない」と命じておられるということです。

アダムは当初罪を知らぬ者として創造されました。彼には善悪の知識がありませんでした。それは罪について無知であったということです。
アダムの前には二本の木が植えられていました。それは特別な園の中央にある聖なる木です。神に背く誘惑がやってきたとき、実はそのどちらを選ぶかは、彼自身に委ねられていたのです。
それは「神に信頼していく命の木」の実か。あるいは「神との信頼関係を壊していく死(滅び)の木」の実かです。エバはいかにも美味しそうで、目を引きつけ、しかも立派になれるように見栄えのするその実を自らの手でもぎ取り、そしてアダムと共に自我の欲望のままに口にします。自分たちが神のようになるという誘惑にのって「善悪の知識の木」の実を食べたのです。
こうして人は、すべての判断の基準を神との関係性にではなく、自我を中心におく者となった、ということです。

さあ、そのようになったとき、彼らに一体何が起こったでしょうか。
聖書は、彼らに恥の思いが生じ、神のまなざしを避けないではおれなくなって慌てふためく様子を描き出します。もはや、神の御前に近づくことができなくなり、エデンの園を出て苦労し、やがて朽ちて土に帰る存在として、地にさまよう者となるのです。これは彼自身が何を選択したかということによって自ら招いた結果なのです。

「自由意志」
この箇所を読みますと、神さまはなぜわざわざそんな「決して食べるな」という木を植えられたのかとお思いになる方もおられるかも知れません。けれどそう考えるとき、一方で人には「手をつけずに食べない」という自由な意志が与えられていたということも覚える必要があるのではないでしょうか。私たち人間は神のロボットとして造られたのではないのです。
たとえば、今私たちはソーシャルメディアというものが急速に普及していて、猫もしゃくしもそれを使っているわけですが。しかし、その使い方は千差万別で、それを手にする人が何を見て、どう使っていくかは、その人の自由意志に委ねられています。まあその中で親は子供に注意したフィルタリング機能をかけて、危険なサイトに行かないように気を配るわけですが。しかしそういうのではなかなか難しく、結局は使う人の自由意志に委ねられている状態です。この日本では実に多くの事柄が自由意志に委ねられています。それは幸いなことでありますが、一方で「何を選び取っていくのか」が、人には常に問われているのです。

聖書に戻りますが。
園の中央に「善悪の知識の木」だけしか植えられていなかったのなら、選択の余地はありませんでした。しかし園の中央にはもう一本「命の木」が植えられていたのですね。神さまは人に「これしかない」という道ではなく、神の御心に従うか否かを自由に選びとれる道を示されていたということです。それこそが神の御心であり、神は人間が神に信頼し、祈り、行動することを願われたのですね。その神さまの御心を自ら選び取っていくなら、そこには平安があり、そのことゆえにエデンはまさしく楽園でありました。

しかし、人がその与えられた自由を私利私欲のために乱用し、搾取や乱獲してむさぼり食っていく時、命の神さまとの関係は大きく損なわれ、地は呪われるものとなるのです。それは寓話に過ぎないとは決していえない現実が、今日の私たちの世界にも数知れず拡がっています。経済や利益優先の社会や政治において、又生活に関わる食品の偽装や遺伝子組み換えにおいても、又あらゆる対人との関係においても、そのことが蔓延しているといえるでしょう。
科学や文明が発展していく中で、人があたかも神のように尊大に振舞い、造り主であるお方の愛を知ろうとせず生きていくとき、そこには真の平安はなく、労苦の果てに滅びて土に帰っていく虚しさしかありません。「あなた私たちは与えられた自由の中で、何をどのように選び取り、どう用いていくのか」。神さまは今日も私たち人間一人ひとりに問うておられるように思います。

「祝福をねたむ蛇」
さて、今日の個所を読んでいきますと、人を罪へと誘ったのは蛇であったとあります。この蛇とは一体何ものか?ということが話題にのぼることがありますが。
蛇は自在に体の形を変えて動き回る能力をもち、生命力の強い生き物です。それゆえに古代からよく信仰崇拝の対象ともなっていました。
1節にも「主なる神が造られた野の生き物のうちで最も賢いのは蛇であった」とあります。それだけの力が与えられていたのでしょう。
現代でも、蛇革のバックや財布やアクセサリーを身につけるということも、単なるファッションではなく、御利益があるとして、身につける人たちもおられます。
まあそう考えますと、神に造られたに過ぎないものでありながら、あたかも神のように崇められる力の象徴と考えてもよいと思います。

いずれにしましても、その蛇がここで何をそそのかしているのかが重要です。
それは、人に「不死を手に入れ、神のようになれる」と誘っていることです。
4、5節に「蛇は女に入った『決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ』とあるとおりです。

この蛇は神と人との特別な惠みの関係を妬み、その仲を引き裂こうとする働きを表しています。それは命の神との関係を人が損ない、神ならざるものに従属する者、奴隷となり、遂には死と滅びへ誘う働きです。その力はこのアダムやエバだけではなく、今の時代にも、私たちの日常の中にもているのであります。

さて、蛇は女に「決して死ぬことはない。それを食べると絶えず生き続ける」とそそのかすのであります。
それは2章16節17節の「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると死んでしまう」との神の言葉に対する挑戦であります。

この時のエデンには死もなく、神の造りたもう調和の中で、完全な守りと平安に満ちていたことでしょう。
そこには食べて余りある食糧もあり、人として何不自由なく生きる世界があったのです。
又、男も女も裸であったが、「二人とも恥ずかしがりはしなかった」とあります。

ところが今日の個所で、彼らが善悪の知識の木の実を食べると「二人の目が開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」とあります。
「恥ずかしい」という意味はいくつかありますが。この箇所から読み取れますのは「自らをやましく感じること」又、「過ちや罪などを意識して面目ないと思い恥じる」そのような感情が起こってきたということであります。
言うならば自分の心のうちに罪の自覚が生じ、とても隠さずにおれない部分があることを知り、恥ずかしくなり、うしろめたくなって、いちじくの葉なんかでとりつくろい隠さないでおれなくなってしまったということです。こうして人は神のみ顔を避けて、身を隠したということですが。神との麗しい関係が歪んだものになってしまったとき、人は自らを隠し、顔を背ける者となってしまうということです。それは今も大方の人の心のうちに起こっていることではないかと思います。

まあそうして、神の命令に背いて善悪の知識の木の実を食べたアダムの心が、大きく変わってしまったことを如実に示しているところが、11節と12節の神とアダムとの対話であります。
それは、神が「取って食べるなと命じた木から食べたのか」と問いかけたことに対して、アダムは「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」と答えているところです。アダムは自分が悪かったということよりも、女が勧めたので食べたと弁解し、女に責任を転嫁して、自分を守り正当化します。
これだけでもひどいですが、さらに浅ましいといいますかアダムの大きな問題は、その事の発端は、「あなたにある」と神さまのせいにしているところに何とも人の罪深さが露呈されているのです。否、それは人ごとではなく、わたしたちも何か問題が起こってきたときに、「神がいるならなぜこうなる」と怒ったり、神を恨みさえしてしまう存在であります。
エバも又、神の問いかけに、13節「蛇がだましたので」と、弁解し責任逃れをしていますが。こうして神の平安と守りのうちにあったエデンの園が一変していきます。
彼らが神の御心に逆らうまでは、無垢な存在であったのです。
すべて神のみ心のうちに生きるところには喜びと楽しみが伴う祝福が満ちていたのです。そこに楽園の原型があったのです。

アダムにとって神は祝福を与えて下さるお方でした。そしてエバはその祝福を分かち合い、喜び合う存在として神が与えて下さった対等なパートナーであったのです。
ところが、神に対して罪を犯し、自分の非を認めようとはせず、その責任のなすり合いがなされる中で、本来与えられた祝福は失われていきます。
神との信頼、人間同士の信頼は損なわれ、猜疑心に取りつかれたあげく、人は憎しみ合うようにさえなってしまうのです。神と人との関係の分断、人と人との関係の分断。
それこそ聖書が描く、初めの人アダムとエバから続く人の姿であります。

「命を守るために」
それではもう、その損なわれた関係はもはや元に戻らないのか、修復不可能なのでしょうか?私たちはもう二度とエデンの園に帰れないのでしょうか?
新約聖書はその神と人の関係のゆがみの修復、関係の回復は、神の独り子・イエス・キリストを通して与えられたと記されております。
新約聖書に放蕩息子のお話が出てきますが。放蕩の限りを尽くしていわばどん底に落ちてしまった時、弟はこう告白しました。「父の家には、あんなに食べ物がある」。父の家。それは私たちに「エデンの園」を連想させます。

人はもはや自力で喜びと楽しみの楽園・エデンに戻ることはできません。しかし神さまは人がどんなに罪深い者であったとしても、主イエス・キリストの贖いの御業によって、父の家へと立ち帰って生きる道が備えられたのであります。
新約聖書のメッセージに与っている私たちは、今や罪の恥と恐れから神の御前を逃れ、身を隠すことはありません。それは滅びでしかありません。私たちは唯、罪のあるまま、足らざるまま、そのままの姿で主なる神さまのもとへ立ち返っていくところに、神との信頼回復の道が備えられているのです。

人として生きる上で見える見えないに関わらず罪を犯さずにいることはある意味不可能なことです。聖書の言葉と聖霊のお働きを通して、私たちは自らの至らなさや罪の性質を知らされることも多いでしょう。そこで、どちらの木を選び取っていくのか。それは私たち一人ひとりの自由な意志に委ねられているのです。
だからこそ、十字架の贖いの主イエスのもとに謙虚に、謙遜に、大いなる赦しを乞い求めて、主の深い愛と憐れみ立ち返って生きることが必要なのです。

エデンの園に植えられた「命の木」は、イエス・キリストの救いの木、贖いの木を表しています。神は私たちが虚しく滅びることを許さず、神に祝福された存在として造られた者としての関係が取り戻され、回復されるためにイエス・キリストなる命の木をこの地に植樹してくださったのですね。私たちは神さまとのそういった信頼関係、命の交わりがこのイエス・キリストによって回復されるのです。
エデンの園・喜びと平安のパラダイスに通じる道。
この救いの道を主と共にあゆんでまいりましょう。今週もこのみ言葉を携えて、ここから遣わされてまいりましょう。
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