日本バプテスト大阪教会へようこそ!

大阪の天王寺駅近くにある創立66年目のキリスト教会です。吹き抜けの新会堂が完成しました。ぜひお立ち寄りください!

キリストと共なる死といのち

2017-05-14 14:54:00 | メッセージ
礼拝宣教 ローマ6章1~14節 


はじめに、このローマの教会には、バプテスマに与った異邦人と共に、クリスチャンとなったユダヤ人たちがいましたが。異邦人のクリスチャンの中には「もはや、すべての罪が赦され救われているのだから、何をしてもよい、ゆるされるのだ」という誤った教えを主張、そんなローマ人やギリシャ人がいたのです。その一方で、ユダヤ教から改宗しクリスチャンとなった人の中で、バプテスマを受けた後も、ユダヤの律法にまだ縛られ、自分の義を立てることを重んじるばかりか、異邦人のクリスチャンに律法を強要するという人たちもいたようであります。

先週の5章で使徒パウロは、律法を守って救いを得ようとすればするだけ自分の罪を思い知る経験をするなかで、主イエスがその自分の身代わりとなって、罪を贖ってくださった事実を知り、主イエスを信じて救われたのです。パウロはその体験によって、「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」と言っています。

クリスチャンとなりバプテスマを受けるとき、みなさまも又、それぞれに神から罪を赦され、新生の恵みに与った喜びを体験なさったのではないでしょうか。

今日の6章の冒頭で使徒パウロは、「では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちがどうして、なお罪の中に生きることができるでしょう」と述べます。

異邦人のクリスチャンのある人たちのように、「何をしてもキリストの十字架の業でゆるされる」と主張する人々、逆にユダヤ人クリスチャンの中の「これをしなければ救われない」と主張し強要する人々に対して、使徒パウロはこの6章で、「キリストと共に罪に死に、キリストと共に生きる」ことの内実について説いた、それが今日の箇所であります。

さて、ここには主イエスを信じる信仰告白をされ、バプテスマを受けられた方がおられると思いますが。ご自分の信仰告白やバプテスマの時の事を覚えておられますか?
何度も礼拝宣教でお話しましたが、私は高校1年のイースター礼拝の時に、主イエスを告白し、バプテスマを受けました。今、その時に言い表した信仰告白の内容についてはほとんど覚えてはいませんが。それはある意味未熟な私の信仰告白であったと思います。
けれども私はそのことを後悔していません。その内容はともかく、あのときの決心とバプテスマの事実があるからこそ、今日があるのだと信じています。もしあのとき、バプテスマを受けていなかったなら、恐らく教会から離れていたかも知れませんし、ましてやこうしてキリスト者として生きることはなかったかも知れません。たとえつたなくとも、そのとき主を信じたありのままでバプテスマを受けたときは、いわば生まれたての赤ちゃんのような状態で、実にそこからがクリスチャンとしてのスタートなのです。
人はある出会いや体験によって人生が大きく変わっていくという事がありますが。バプテスマを受けたという体験のある人は、その後の人生で様々な出来事が起こったとしても、神さまと共に生きているという確信と支えを戴くことで、人生の質が全く違ってまいります。私は最終的に神のみ手のうちにあり、その神の御もとにこそ私の帰る場所がある。その信頼と平安はどんなものにも代えがたいものですね。バプテスマはその原点とも言えるものです。

まあ、そのようにクリスチャンの人生における決定的瞬間、それがバプテスマでありますが。使徒パウロはそのことを6節のところで、「わたしたちの古い自分(先週お話したアダム以来の罪の性質)がキリストと共に十字架につけられた」と、こう述べています。さっと素通りして読んでしまうかも知れませんが、これは実は大変なことを言っているのですね。

私にとってはあの高校一年生のイースターの礼拝で、主イエスを救い主と信じる告白をし、バプテスマを受けたそのとき、この罪ある私は4節にあるとおり、「キリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなった」のです。それは単にキリストだけが十字架にかかって私のために死なれた葬られた」ということではなく、そのとき私が十字架のキリストと共に葬られ、その死にあずかるものなった」。「罪に対して死んだ」者となったということであります。
この事実を私が改めて知ったのはバプテスマを受けて4年後の20歳のときでした。
そしてそのときこのローマ6章の中でも5節、6節の言葉が私の胸の深いところに響いてきたのです。
「もし、わたしたちがキリストと一体になってその死にあやかるならば、その復活の姿にあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています」。

ここに「わたしたちがキリストと一体となって」とある、一体というのは「結ばれる」とか、「継ぎ合わされる」という意味です。キリストのうちに私がいる。又わたしのうちにキリストがおられる。ちょっとわかりにくいなあとお感じになる方もおられるでしょう。神学者であり伝道者であった中国のウオッチマン・ニーという方が、その著書の中で次のような体験を話しておられます。
彼が一人の兄弟のバプテスマに際して、今日のこの「キリストに結ばれて」ということを強調したいと思った時、ちょうど彼の前におかれていた紅茶に角砂糖をおとし、それをかきまぜて、2~3分経ってから「紅茶と砂糖の区別ができますか?」と尋ねたそうです。バプテスマを控えていた兄弟は「いいえ、あなたが一緒になさったので、溶け合ってしまいました。ですから区別がつきません」と答え、そうして「私たちがキリストに結ばれて、その死の様に等しくなる」「キリストと決定的に、しかも密接に結合されている」ということを理解した、ということです。
「キリストと一体」というのはそういうことで、わたしたちはキリストと共なる死にバプテスマされ、そのキリストと共に新しい生命にあやかるものとされているのですね。

それはまあ、あのゴルゴダの丘で、キリストが十字架につけられた時から2000年の時を経、地理的、文化的隔たりがあるわけですから、その方と自分が一体とされたというのは、世の常識からすれば考え難いことでしょう。しかし確かに、キリストは歴史において唯一度の決定的なとき、神の救いのご計画によって全人類の罪に対して死なれたのであります。
それは、その神の救い業を信じ受入れるすべての者に与えられている恵みです。
神は永久に全世界を統べおさめたもうお方です。2000年経っていようが、国は違おうが、文化や風習が異なっていようが、この神が全世界の救いを成し遂げてくださったのですから、この私も、みなさま方お一人おひとりもそれぞれに、バプテスマを通してこの十字架のキリストに結ばれた者、ウオッチマン・ニーの言葉によれば「キリストと密接に結合さえて、罪に死んだのです」。私は高校一年生のときでありましたが。罪ある一人ひとりが主イエスの御救いに与ったそのときについては、みな同じではないということなのです。そしてその、私がキリストと共に十字架につけられ、罪に死んだという決定的な出来事を知ることが如何に大事であるかということですね。

そのバプテスマですが。ある方から聖書事典でバプテスマの項を引くと、「ユダヤ教徒となるために割礼があったように、クリスチャンになるためにバプテスマがある」というような解説がなされていたと伺いました。確かにそのようにもいえるのかも知れません。しかし、割礼はユダヤ教徒となるための儀式であり、どこまでも人間の業によるものです。
けれども、イエス・キリストのみ名によるバプテスマは単なる儀礼、又教会員になるために行なわれるものではありません。それはまさに、人の力や業によってではなく、神の先立つ「愛による恵みの御業」なのです。
バプテスマ(バプティゾー)はもともと「沈める」「浸す」という意味があります。
私どもの日本バプテスト大阪教会は、その名のとおり「沈め」「浸す」のバプテスマを大事にしてきた群といえます。
何度かお話しましたが。釜ケ﨑の三角公園の前に建つふるさとの家という施設で日雇い労働者や野宿生活者の支援をしておられるカトリックの本田哲郎神父とある集会でお会いした時、神父は私に「バプテストは上流から下流に流れるヨルダン川の一番底に全身を沈めるバプテスマを大事にしてきた。いわば最も低くみに全身を沈めて見直していくことを実践してきた教派ですね」とおっしゃたんですね。
私はその言葉に、こそばゆいような気持ちになった事を思い起こします。こそばゆいというのは、私どもバプテストの教派を「ほめられたのか」「皮肉におっしゃられたのか」は定かではありませんが。私自身、果たしてそんなに立派だろうかと思えたからです。名実ともに全身全霊「キリストと共に」罪に死に、「キリストと共に」新しい生命に生きる、そういう実践を伴う人生を歩んでいきたいと願うものです。

聖書に戻りますが、はじめに当時のローマの教会の問題について触れましたが。
バプテスマを受けながら、まだ自我への執着、神の生命の木ではなく、自我を選び、押し通してゆく罪の性質に引きずられ続けたり、反対に、こうあるべきという自分の決めつけで、自分ばかりか人を裁き、神の恵みを損なっているそんな状態から抜け切れずに、真に救いの喜びと感謝をおぼえる事がないなら、それは誠に残念なことです。
キリストと共に罪に死んでいない。キリストと共に自我の罪が死んでいない。主と共に生きる新しい生命に生きていない。そこには真の解放はありません。それは信仰の年月や知識とは関係ありません。奉仕の数や出席率で計れるものでもありません。何人救いに導かれたかということさえ、救いに与る基準とは言えないのです。

唯11節にあるように、「罪に死に、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きていく」。その感謝と喜びの実体こそが、日常の生活に反映されることを主は期待しておられるのではないでしょうか。

この最後の「考えなさい」は命令形です。それは単に考えたる思ったりという意味ではありません。立ち止まって自分がキリストに結ばれている者としての「自己吟味して生きなさい」「キリストと共なるバプテスマに与った原点に立返って生きなさい」。そのような強い促しを伴う恵みの言葉として受け取っていきたいと思います。今日がその新たな日となりますよう共に祈りましょう。



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