たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

日本というもの <熊本・阿蘇の立野峡谷 別の柱状節理「破壊予定」・・>などを読みながら

2017-09-16 | 公共事業と多様な価値

170916 日本というもの <熊本・阿蘇の立野峡谷 別の柱状節理「破壊予定」・・>などを読みながら

 

私は日々、目の前に広がる高野の山々がどうしてできあがったのか、紀ノ川は・・・などとふと考えるのです。日本人の起源とか、気質とか、いろいろ研究があるようですが、列島の成り立ちも長い研究史があるようですね。その一端は、先頃NHKで放送された日本列島の成立を描いた番組では大陸から弓状に分離された2つの島弧が結合し、当初は平坦だったのが1500万年前の連綿する火山噴火で紀伊山地を含む列島の山々ができあがたということだったかと思います。

 

でもその後の1500万年間になにがあったのでしょうね。紀伊山地ができても、現在の山脈の形状になるには幾多のプレートとプルームテクニクスによる変動で説明が必要なのでしょう。

 

ところで、『大峰山・大台ヶ原山 自然のおいたちと人々のいとなみ』は、その一部を解説してくれています。見出しの記事に関係する柱状節理の部分を少し引用します。

 

「奈良県曽爾村の扉風岩や兜岩は柱状節理が絶壁をつくっています。柱状節理は溶岩や溶結凝灰岩が冷えて収縮する時に割れ、たくさんの柱が立つように見えるものです。扉風岩の溶結凝灰岩は曽爾村や大和高原南部付近に広く分布しています。この溶結凝灰岩は約1500万年前の巨大噴火で噴出した大量の火山灰が火砕流となって大和高原などを埋めつくしてできたものです。火砕流の火山灰が熱をもったままたまると、やわらかくなって飴のようにベタッとくっついてしまいます。これが溶結凝灰岩で、高温の火砕流堆積物がよくつくる岩石です。」(65p)と。

 

では立野峡谷の醜状節理はどうでしょうか。1500万年も前のものでしょうか。そこに入る前に、少し事件の概要を記事から引用してみましょう。

 

今朝の毎日記事は<熊本・阿蘇の立野峡谷別の柱状節理「破壊予定」 国、ダム建設で数年後>とあり、<世界ジオパークに指定されている熊本県・阿蘇の立野峡谷の柱状節理(ちゅうじょうせつり)が国の復興工事で破壊された問題で、峡谷内にある別の柱状節理も国が進めるダム建設で数年後にほとんどが削り取られる予定であることが分かった。>

 

前者の破壊は後で取り上げるとして、後者の工事計画は今回破壊された<現場の約1キロ下流の白川右岸にも高さ約60メートル、幅約300メートルにわたって溶岩が柱状に縦に割れた柱状節理がある。板状に横に割れた「板状節理」と交互に重なっている。>とのこと。

 

立野ダム(同県南阿蘇村、大津町)の建設計画では<本体工事に伴い幅約200メートル、高さ約90メートル、厚さ最大約40メートルにわたって削りコンクリートで固める予定になっている。>ということですから、たしかにほとんど削り取ることになるでしょうね。

 

<九地整立野ダム工事事務所は「柱状節理の掘削を最小限にするなど十分配慮する」としている。>ということですが、現在の柱状節理の幅300mのうち200m、高さ60mのところを90m、しかも厚さ最大で40m削り取るのですから、この計画をどうすれば最小限になりうるのか、その趣旨がわかりません。

 

前日の915日毎日記事では<阿蘇の柱状節理無残 国、復興工事で破壊 世界ジオパーク指定>ということで、<現場では、国土交通省熊本復興事務所が阿蘇大橋に代わる新しい橋の建設を進めている。長さ250メートルの工事用道路を川岸の崖上から下に向かって新設するため、柱状節理を含む幅110メートル、高さ70メートルの川岸を削った。>とのこと。

 

関係者の発言については<阿蘇ジオパーク推進協議会の構成員である県阿蘇地域振興局によると、熊本復興事務所から橋を架ける場所の説明は受けたが、工事手順や柱状節理を壊すことなどは聞いていなかったという。

 熊本復興事務所は毎日新聞の取材に対し、道路工事について「復興復旧を急いでほしいとの声もあった」と述べるにとどまった。>とジオパークの担当も、復興工事の担当も、ジオパーク保全への注意が払われていないと思わざるを得ません。

 

この点、朝日の記事は<ジオパークの「岩のカーテン」、国の工事で破壊 阿蘇>という見出しで、写真もよくわかるものになっていて、関係者の意識の欠如もよくわかります。

 

<昨年7月、県や学識経験者らが集まって新しい橋の計画について協議した際、建設予定地に柱状節理があることも報告された。新しい橋が「観光の玄関口となる」として周辺の景観に配慮することなどは確認したものの、ジオパークとの説明はなく、保存の話などは出なかったという。>

 

そして柱状節理は当然認識していたわけでしょうが、ジオパークであることを知らなかったというのですから、お粗末ではないでしょうか。

 

<熊本復興事務所の今村隆浩副所長は「柱状節理の存在はわかっていたが、ジオパークという認識がなかった」。県道路整備課の担当者は「国から説明がなく、ジオパークとは意識していなかった」と話している。>

 

こういった公共工事について、いつも思うのですが、環境アセスメントの対象となるか否かにかかわらず、多様な専門スタッフが工事関係者に入る必要を感じるのです。

 

ただ、<日本ジオパークネットワーク>は日本にある世界ジオパーク認定箇所をすぐにわかるようにしていますね。ただ、ウィキペディアでは、世界ジオパークネットワークの設立自体が2004年で、ユネスコの正式事業として認定されたのが15年ですので、認知度が低いのは確かですね。その価値や保全の必要について、理解がそれほど進んでいないのが現状でしょうか。

 

私自身、2000年代初め頃に、この分野の研究者である小泉武栄氏からこのジオパークの価値について懇切丁寧なレクチャーを受けて、日本がその宝庫であることも初めて知ったくらいでした。当時勤務されていた東京学芸大学を訪ねて分厚いジオパークの書籍で説明を受けたりしたことを思い出します。ま、目から鱗のような感じでしたか。

 

ところで、この柱状節理が破壊されたり、破壊計画のある立野峡谷の成り立ちとか、その価値について、少しウェブを調べていたら<阿蘇火山と立野峡谷の生い立ち>というのが参考になりました。

 

どうやら1500万年といった遠い昔ではなく、<阿蘇火山は、約27 万年前を初めとして、14 万年前、12 万年、9 万年前と、4度にわたる大火砕流噴火を起こしました。>ということですから、まだ歴史の浅い火山でした。

 

しかも立野峡谷の成り立ちになると、<阿蘇外輪山を断ち切る立野火口瀬。神話では、健磐龍命(たけいわたつのみこと)が蹴破って、尻もちをついて「立てんのう」と言ったからだと伝えられます。

阿蘇の大噴火によりくぼんだカルデラに雨水がたまったカルデラ湖は、複数回出現したと考えられます。最初のカルデラ湖(古阿蘇湖)は、約9万年前の4回目の大噴火によるカルデラ生成後にできました。>

 

そして<立野火口瀬(古火口瀬)はその後、阿蘇火山の溶岩で埋まるなどしてせき止められて、阿蘇谷と南郷谷は複数回、雨水がたまってカルデラ湖が出現しました。最後のカルデラ湖は阿蘇谷で8900 年前頃、南郷谷で4 万年前頃まで存在していたと考えられます。

このように、断層が落ち込んでできた立野火口瀬が、溶岩でうずまっては浸食されることを繰り返し、現在の立野峡谷ができました。外輪山が立野で切れて白川ができたときの土石流堆積物の上に、熊本市はあるのです。また、阿蘇の火山灰が有明海に流れ込み、有明海の干潟や濁りを生み、そのことが生物の多様性をつくり上げています。>

 

その柱状節理の成り立ち自体までは触れていませんが、阿蘇火山の中でも最も新しい火口瀬で、溶岩でうずまったあと浸食を繰り返す中で形成されていったのでしょうか。そうするとまさに人類史というか、日本人の歴史とも重なりますね。

 

まんざら記紀の世界の伝承が絵空事でもなく、そことも結びつくような時代かもしれません。そういった意味のこの柱状節理をよりリアルに考えてみてはどうでしょうか。それは考えすぎという声が聞こえそうですが、火の国日本の、人の歴史と重なる大地の躍動が残っているという感じは、なかなか魅力があります。

 

いずれにしても、日本人が生まれ育った大地の痕跡ですから、復興や治水利水といった現在の公共的価値も大事ですが、それこそ延々と連なってきた大地の刻印を簡単に壊していいものではないと思うのですが、いかがでしょう。

 

今日はこの辺で終わりとします。