
もう一週間もたってしまいましたが『ホーム脇の女亭主』終演後、いろいろ差し入れありがとうございました。
で、相馬さんからはなんとDVD!を差し入れ(?)。
相馬さんのお兄さんが監督を務めているCGアニメーション作品『不思議の国とアリス』。相馬さんが言うには「構想10年の作品」で、なんと相馬さんご自身も声で出演しているというのだ。相馬さんとは遊園地再生事業団『トーキョー/不在/ハムレット』の時に知り合ったのだが、恥かしながら僕は相馬さんのことも、相馬さんのお兄さんのこともあまりよく知らないでいる。今でもよく分かっていない(すいません)。ただ、ただならぬクリエーターであることは、宮沢さんの相馬さんに対する絶大な信頼を寄せる日記を読めば分かるし、そもそも相馬さんのホームページを見れば一目瞭然だ。
僕はアニメーションが好きなようで、特にクレイアニメはつい食い入るように観てしまう。だからといって特別なにかが好きだとかそういうことではなく、そういう表現が好きだということにここ数年前くらいから自覚するようになった。僕の好きな演劇の表現もどこかしらアニメーションのような非現実的かつ超世界ともいうべき奇妙なリアリティが存在する演劇・舞踊世界がある。大好きなコンプリシテもそうだし、僕のいたカンパニー、パパ・タラフマラもそういう世界観があったと思う。当然僕自身のソロアクトや、演じ方もそのような方向性があるように思える。いつも自分の身体が粘土のようであればいいなと思って演じている。そういえば、今度出演する羽衣さんも、粘土人形のような役者であればいいと考えている。きっとそういう世界観が羽衣さんの表現には感じていたのである。
ついでにアリスも好きだった。中学の頃ルイス・キャロルの『不思議の国』も『鏡の国』も読んでいた。ああいう不思議文学が好きだった。『オズの魔法使い』も『ガリバー旅行記』も僕の中では同じ文脈で読んでいる。(そうそう、「ガリバー」は今年の秋にパパ・タラフマラで作品のモチーフとして発表するようだ。)
思わず見入ってしまった。本番の疲れも、羽衣稽古疲れも、仕事疲れも重なったある夜に、クタクタの身体のままこの『不思議の国とアリス』を見ていた。もう頭がトロトロに溶けていくのを感じる。僕はだいたいこういう表現を見るとそんな感じになる。疲れているからもあるのだけど、これはなんなのかな、「喜び」とか「笑い」とか「感動」とかそういうことではなく、「恍惚」なのだろうと思う。
「恍惚」か。そうか…、
とここまで書いて気がついたのだけど、僕にとって表現とはそういうものなのかもしれない。「不思議」とか「妙」とか言ってしまえばそれは表面を体現するための言語だろうが、「恍惚」となれば、これは感受性の言葉で、表現そのものでもある。僕が手がけ目指す作品もきっと、この「恍惚」をいかに感じさせるかが問題になってくるのだろうな。
で『不思議の国とアリス』。
実は、最後はどのように終わってしまったのかあまり記憶にない…。
でもこれは僕にとっては恍惚に浸ったあとの僕としてはいつものことだ。
不思議の国のアリスの結末なんて憶えてないし、オズの魔法使いの最後がどうなったのかは分からないし、ガリバーがどのように本国に帰ったのかも憶えていない。ヤン・シュヴァン・クマイエルに至っては、ものの10分であっという間に恍惚に導かれてしまって、あとは目だけが画像をとらえているだけで、命一杯のバケツに、これでもかと水を注ぐようなものなのだ。
さまざまな色と、形と、音と、グロテスクなキャラクターが“イタイケなアリス”をいじっては消えていく…。そして、アリス自身もまたその世界をいじって消えてく。僕はそれ以上何も分からなくなっていた。なにせもうトロトロなのである。…思考停止の恍惚。
で、相馬さんからはなんとDVD!を差し入れ(?)。
相馬さんのお兄さんが監督を務めているCGアニメーション作品『不思議の国とアリス』。相馬さんが言うには「構想10年の作品」で、なんと相馬さんご自身も声で出演しているというのだ。相馬さんとは遊園地再生事業団『トーキョー/不在/ハムレット』の時に知り合ったのだが、恥かしながら僕は相馬さんのことも、相馬さんのお兄さんのこともあまりよく知らないでいる。今でもよく分かっていない(すいません)。ただ、ただならぬクリエーターであることは、宮沢さんの相馬さんに対する絶大な信頼を寄せる日記を読めば分かるし、そもそも相馬さんのホームページを見れば一目瞭然だ。
僕はアニメーションが好きなようで、特にクレイアニメはつい食い入るように観てしまう。だからといって特別なにかが好きだとかそういうことではなく、そういう表現が好きだということにここ数年前くらいから自覚するようになった。僕の好きな演劇の表現もどこかしらアニメーションのような非現実的かつ超世界ともいうべき奇妙なリアリティが存在する演劇・舞踊世界がある。大好きなコンプリシテもそうだし、僕のいたカンパニー、パパ・タラフマラもそういう世界観があったと思う。当然僕自身のソロアクトや、演じ方もそのような方向性があるように思える。いつも自分の身体が粘土のようであればいいなと思って演じている。そういえば、今度出演する羽衣さんも、粘土人形のような役者であればいいと考えている。きっとそういう世界観が羽衣さんの表現には感じていたのである。
ついでにアリスも好きだった。中学の頃ルイス・キャロルの『不思議の国』も『鏡の国』も読んでいた。ああいう不思議文学が好きだった。『オズの魔法使い』も『ガリバー旅行記』も僕の中では同じ文脈で読んでいる。(そうそう、「ガリバー」は今年の秋にパパ・タラフマラで作品のモチーフとして発表するようだ。)
思わず見入ってしまった。本番の疲れも、羽衣稽古疲れも、仕事疲れも重なったある夜に、クタクタの身体のままこの『不思議の国とアリス』を見ていた。もう頭がトロトロに溶けていくのを感じる。僕はだいたいこういう表現を見るとそんな感じになる。疲れているからもあるのだけど、これはなんなのかな、「喜び」とか「笑い」とか「感動」とかそういうことではなく、「恍惚」なのだろうと思う。
「恍惚」か。そうか…、
とここまで書いて気がついたのだけど、僕にとって表現とはそういうものなのかもしれない。「不思議」とか「妙」とか言ってしまえばそれは表面を体現するための言語だろうが、「恍惚」となれば、これは感受性の言葉で、表現そのものでもある。僕が手がけ目指す作品もきっと、この「恍惚」をいかに感じさせるかが問題になってくるのだろうな。
で『不思議の国とアリス』。
実は、最後はどのように終わってしまったのかあまり記憶にない…。
でもこれは僕にとっては恍惚に浸ったあとの僕としてはいつものことだ。
不思議の国のアリスの結末なんて憶えてないし、オズの魔法使いの最後がどうなったのかは分からないし、ガリバーがどのように本国に帰ったのかも憶えていない。ヤン・シュヴァン・クマイエルに至っては、ものの10分であっという間に恍惚に導かれてしまって、あとは目だけが画像をとらえているだけで、命一杯のバケツに、これでもかと水を注ぐようなものなのだ。
さまざまな色と、形と、音と、グロテスクなキャラクターが“イタイケなアリス”をいじっては消えていく…。そして、アリス自身もまたその世界をいじって消えてく。僕はそれ以上何も分からなくなっていた。なにせもうトロトロなのである。…思考停止の恍惚。











CGという表現の性質上、いつも「身体」とか「物質」とかにはあこがれと劣等感をいだいているのですが、その辺のスペシャリストであるところの熊谷さんに認めて頂けたのはなんかとても嬉しい気がします。
100%感想記事というわけではないのですが、もしこの稚拙な文章が販売の役に立つのであれば使って下さい。時間があれば、分かりやすくするために手を加え直すかもしれません。
ちょうどアニメーションについて思うところがあったので僕の中ではタイムリーな作品でした。
そうまあきらさんのブログの中の言葉。。。
>大脳新皮質の活動を止めて、古い部分の脳の活動を
>促すこと、あるいは夢、もしくは瞑想、と同じ状態
>を(見ている人の脳に)作り出すこと。それが密か
>な目標だったもので。
これは凄く胸にきます。
これだけで、一つの記事がかけそうです。