「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

札幌から届いた取りたてのインゲン 終戦記念日

2017-08-15 06:06:45 | 2012・1・1

小ブログを通じて知り合った札幌在住の「頑固親父」さんから郵便局のLP(レター.パック)に入った取りたてのインゲンが贈られてきた。僕がその昔、札幌に住んでいたのをブログで知り、季節折々の野菜をお送り頂いている。頂戴したインゲンは東京のスーパーでは見られないほど新鮮でみずみずしい。それに嬉しいのは、インゲンには自家製の鰹節とレシピまで添えらえてあった。その暖かい心遣いが嬉しい。

今日は72回目の終戦記念日である。昭和20年8月15日正午、母親と一緒に自宅庭先の、小さな防空壕で天皇陛下の「玉音」放送を聞いたのが昨日のようだ。僕は中学3年生、軍需工場へ動員されていたが、たまたま工場が電力不足から電休日だったので、警戒警報下、壕にラジオを持ち込み聞いた。僕が”玉音”を聞いて第一に思ったのは、明日から工場へ行かずに済むという単純な喜びであった。

母親は当時50歳前後だったが、今思うと大変だった。1年前の19年5月、一人娘(僕の姉)を21歳の若さで肺結核で亡くし、その心痛の中で,食糧難のなかで一家の生活を切り盛りをしていた。週に一回は家から電車に乗って、元住吉(川崎市)まで野菜の買い出しに出かけていた。野菜といっても、カボチャとかサツマイモといった、腹が一杯にするものが多かった。政府の方針で葉類の野菜はあまり生産させなかったのであろうか。当時、動員先の軍需工場脇の多摩川の土手から野アザミを摘んできて食べた記憶もある。

今は平和な有り難い時代である。取りたてのインゲンが札幌から飛行機で運ばれ、その日のうちに食卓に上がるのである。終戦の日、モンペ姿で買い出しにかけずり回った亡き母親を想い出し改めて感謝する次第である。




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2 コメント

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なんでも売る (chobimame)
2017-08-15 09:21:34
終戦後は、みな苦労したでしょうね。
特に家を焼かれてしまった人は、大変だったと聞きます。
食料に変えるべき、売れるものなら何でも売った。
治外法権をたてにとり、闇で儲けている朝鮮人にまで娘を嫁がせたなんで話も聞きます。
混乱した毎日を生きるのに必死とは、想像が出来ません。
今は、ネットで注文すれば、世界中の商品が自宅に届きます。
恵まれた時代です。
こうした平和が、ずっと続くようにしないといけません。
タケノコ生活 (kakek)
2017-08-15 17:52:19
chobimame さん
当時の流行語で”タケノコ生活”という言葉がありました。一枚一枚皮をはいで食料と代えていった生活です。しかし、皮がある家はよかったですが、家を焼かれた家は大変だったです。元住吉(今は高層ビルの町になっていますが)の農家とは戦後25年ぐらいまでお付き合いをしていました。
食糧だけでなく、衣類もナイナイづくしで、古い洋服を裏返しにして着たりしていました。
北海道の取りたての野菜が、その日のうちに食べられるなんて夢のようです。いまでこそシシャモやホッケは東京でも食べられますが、昭和30年代には冷凍技術がなく売っていませんでした。

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