「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

”遺骨を抱いて” 激戦で入城式もなかったシンガポール攻略戦

2018-02-15 06:38:35 | 2012・1・1
昭和17年2月15日は大東亜戦争緒戦の勝利を象徴する一日であった。亡父の日記によると、夕刻5時、大本営から海軍空挺隊(落下傘部隊)が1月11日にセレベス島に降下していた旨の発表があり、その10分後にが陸軍空挺隊が見事スマトラのパレンバンに降下したとの発表が”敵は幾万”の勇ましい軍歌にのってラジオから流れた。そして夜10時には、また”敵は幾万”が流れて、南方作戦の勝敗を決するとさえいわれたシンガポールの陥落が発表になった。

シンガポール攻略戦は、1月31日対岸のジョホールバルからの敵前上陸に成功、紀元節(2月11日)までの占拠を目指していたが英国軍の激しい抵抗にあい、戦後、この作戦参謀だった国武少佐がが回顧しているように”勝利はどちらが手をあげてもおかしくない”ほどの激戦であった。10日間の攻略戦で日本軍は戦死者1713名、戦傷者5387人を出している。軍歌”遺骨を抱いて”がそれを物語っている。
◇ 遺骨を抱いて(遼原實作詞 海軍軍楽隊作曲)
  一番乗りをやるんだと 力んで死んだ戦友の遺骨を抱いて今入るシンガポールの街の朝
  男だなんで泣くものか嚙んでこらえた感激も山から起る万歳に思わず頬がぬれてくる(以下略)

亡父の日記によると、シンガポールの勝利は国をあげての祝賀であった。18日を第一次戦捷日として催しを開き、小学5年生であった僕も学校の旗行列に参加、万歳を叫びながら日の丸の小旗を振って行進した。しかし、戦後知ったのだが、現地では普通,戦勝のあと慣例の入城式も行われず、師団ごとに犠牲者の慰霊祭が挙行され、次の作戦準備へと移っていった。激戦の資料は皮肉なことに、現在、日本国内にはなく、英国軍が降伏したシンガポールのブキティマ戦争博物館に保存されている。

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2 コメント

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なんてこと (chobimame)
2018-02-15 09:30:19
日本に資料がないなんて、なんてことでしょう。
日本政府は、もう収集する気はないのでしょうか。
戦後レジュームからの脱却とは、一切を忘れるのではなく、作られた歴史ではなく、本当にあった事を伝えてから、初めて脱却出来るのだと思います。
臭い物に蓋状態では、戦地に行かれた人たちがあまりにも哀れです。
戦時資料の保存 (kakek)
2018-02-15 09:52:16
chobimame 様
英国軍が降伏したブキテイマにシンガポール政府の博物館には、当時の日本映画社が撮影した日本側が写した記録映画まであります。事前に頼めば見せて貰えます。残念ながら、遊就館にはありません。これでは、後世の人は正しく歴史を理解できません。観光地セントーサ島にある降伏式のパノラマについて、どれだけの日本人が理解できるかどうかです。
戦後、お付合いを願った先輩二人がシンガポール作戦でケガを負った傷痍軍人で、うち一人は左足を失っていました。

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