「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

国防色が消えた 敗戦直後の庶民生活 

2017-08-17 06:21:43 | 2012・1・1
72年前、戦争に負け僕が軍需工場からの動員を解除され、学校に登校したのは8月26日であった。その間、何をしていたのか、はっきり覚えていないが、疎開していた小学校時代の友人を訪ねて、南多摩郡南村(現在の町田市)へ泊まりがけで遊びに出かけたのを覚えている。子供ながらに解放され嬉しかったのだ。

鈴木貫太郎.挙国一致内閣に代わって東久爾内閣が成立したのは終戦2日後の8月17日であった。その2日後の19日、日曜日であったが、天皇陛下は東久爾総理を呼び、閣議の後、燈火管制を廃止し”街を明るくし、娯楽を復活せよ”と発表した。戦争中は敵の空襲に備えて家々の電気は管制され、真っ暗の夜が続いていた。その日の父の日記には、政府の発表を待たず、庶民は”防空頭巾と巻ゲートルから解放され、街行く人の服装からも国防色が減りつつある”と記している。

8月22日には戦争で中止されていた気象情報(天気予報)が3年8か月ぶりに復活した。といっても、当時は電力不足から停電が多く、ラジオからの情報は得られなかったが、進駐軍の先発隊が台風の到来で2日遅くなったという情報は得られた。この年の9月はじめ戦後最大の台風の一つ、枕崎台風が襲来したが、気象情報がなければ、もっと被害が大きかったかも知れない。

学徒動員で僕らが登校したのは8か月ぶりだったが、5月23日の空襲で校舎はコンクリートの本校舎を除き全焼、その本校舎も窓ガラスは破れ、床板は抜けていた。焼け出された一家が、片隅で風雨をしのいでいた。180人いた級友も疎開などで100人に減っていたが、とにかく、工場へ行かず教室で学べる喜びは大きかった。戦闘帽型の学帽はすぐかぶらなくなったが、カーキ色の制服はものがなくそのままだったが。
コメント (2)
この記事をはてなブックマークに追加