「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

69年目の”ホームカミングデー” 母校は創立154年

2017-03-26 06:19:48 | 2012・1・1

昨日、母校の攻玉社中学(旧制)の”ホーム.カミング.デイ”に招かれて出席した。(写真)僕ら老人には聞きなれない名前だが、ネットの辞書によれば、主として米国の大学で年に一回、卒業者が母校に集まる親睦会のようである。攻玉社では10年ぐらい前から10年、20年、30年、の節目ごとの年次の卒業生を母校が招待してくれていたが、今年から85歳以上の超OBも特別に招かれた。

僕が母校を卒業したのは昭和23年3月(1948年)、もう69年も前の事だ。18年に入学した僕らは、戦中から戦後すぐの、まさに激動の時代を母校でお世話になった。母校は20年5月の空襲で鉄筋校舎を残して焼失し、往時の面影はほとんどないが、地形は昔のままで、昔、教練で汗を流した校庭では生徒たちがバスケを楽しんでいた。資料室には当時、教練でつかった銃が戦後焼跡から掘り出され復元されて展示されていた(写真)

攻玉社は文久3年(1863年)三重県の鳥羽潘士、近藤真琴先生によって、東京の芝.新銭座に創立された。今年で154年の古き歴史を誇る。僕らが生徒だった時、歌った応援歌「大洋の水」の一節は”歴史は古き80年”だったが、昨日会場で貰った応援歌は”歴史は古き百余年に変っていた。その古き歴史の中で、母校は明治時代は、海軍兵学校の予備校であった、その関係で15人もの海軍大将を輩出している。戦前まで「軍神」と歌われた広瀬中佐も佐久間艇長も卒業生である。

会場の一角に、今年の卒業生の大学別合格者の名前が大きく張り出されていた。母校は今、全国的に知られる中高一貫の進学校になった。69年前、僕が入学した大学(当時有名校ではなかった)は、現役は僕一人だったが、張り紙には42人の名前が載っていた。ネットで調べると、その大学合格高校のベストテンに入っている。素直に誇りと喜びを感じた一日であった。

(広瀬中佐)日露戦争の旅順港閉塞作戦のさい、沈船の段階で部下の杉野兵曹長が不明になり、艦内を捜索中敵弾に当たって死亡。戦前、この話は教科書にも載り、東京万世橋駅(廃駅)前に銅像があり、小学唱歌にも歌われた。
(佐久間艇長)第六潜水艇長。1910年、山口県沖で潜水訓練中、機器の故障で浮上出来ず、部下14名と殉職。死ぬ寸前までの記録を残していたことからその「沈勇}が讃えられ、教科書にも掲載された。