「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

大寒 都会では見られなくなった寒中行事

2017-01-20 06:01:20 | 2012・1・1
今日1月20日は二十四節気の「大寒」である。新歴と旧暦とのタイムラグから、よく”暦の上では”という言葉がが常套句として使われるが、「大寒」は文字通り一年中で一番寒い季節である。立春までのこの時季を寒中といい、昔は”寒詣で””寒中水泳””寒稽古”など「寒」を冠した行事があったが、最近、東京ではあまり、見られないし、聞かれなくなった。

「寒」の時季というと、戦争中小学生だった僕は、霜をサクサク踏みながら通学したのを想い出す。各家ごとに空襲に備えた「防火用水」があり、それを石で壊しながらの集団登校であった。まだ東京23区内にも泥道があり、石もゴロゴロあったのだ。先日テレビ番組で、最近の子供には手の霜やけやあかぎれがなくなった、と言っていたが、戦前は童謡「たき火」にも出てくるように”霜やけお手てがかゆい子供が多かった。

戦争中は武道(剣道か柔道)が必修であり、寒中には「寒中稽古」がった。僕らはまだ早朝、明けきらないうち道場に集まり、素足で稽古をした後、バケツに水をくんんで来て、雑巾で床を拭いた。子供心に手がこじえ、耐えられない冷たさであった。しかし、一方では子供たちは、寒風の中、外でよく遊んだ。霜やけやあかぎれが多かったのも当たり前だ。

戦前、東京の小学校の暖房は石炭ストーブが多かった。学校給食はなかったので、子供たちは弁当を、ストーブの上の網の上に載せ、温めて食べた。昼前になると、その匂いが教室に広がり、おなかがキュウキュウなったものだ。当時、家庭の事情で弁当を持参出来ない子供がクラスで10人以上はいた。彼らにとっては,より以上に耐えられない匂いだったかもしれない。

暦通り、日本列島は極寒である。しかし、70年前の「大寒」の頃とは随分と変ってきた。霜焼やけにも悩まされずヌクヌクと暖房に温まりながら、こうして、ブログを発信できるのだから。