「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

南房総への旅と橘丸事件

2014-04-08 06:00:03 | Weblog
南房総市に住む先輩I氏の百歳の誕生日のお祝いに老妻と一緒に出掛ける。東京駅前から高速バスに乗り、アクアラインで東京湾を横切り、さらに高速道路を乗り継いで95分の旅だ。便利で早くなったものだ。戦前は両国駅からSLで、ゴトごゴトとトンネルを抜け舘山までは3時間ぐらいかかった。夏休みには、海水浴客用に芝浦港から舘山まで、普段は大島通いの船が特別に仕立てられ就航した。これだと4時間は要した。

僕もひと夏、たしか菊丸という船で両親に連れられて乗船したが、舘山には港がなく、沖合から小さな艀に乗って上陸した。当時就航船の中には「東京湾の女王」と呼ばれた橘丸(1,722トン)があった。流線型の船体が人気を呼んだが、、昭和13年、陸軍に徴発されて病院船に改造された。中国戦線からの傷病兵を本土に運ぶのに活躍していたが、戦争の激化とともに南方へも就航した。

戦争の末期、橘丸は南方の豪北地域から兵員の運搬船に使用されていた。戦争の激化で艦船の消耗が激しく病院船まで使用せざるを得なかった。これは国際法に違反するため、苦肉の策として兵隊に全員白衣を着せ、傷病兵に仕立てた。しかし20年8月初め、米国の駆逐艦に発見され艦船ごと拿捕された。兵員は豪北のケイ諸島に駐屯していた第五師団の歩兵連隊1200名で、ジャワに運ぶ途中であった。この責任をとって、敗戦の日の15日、第五師団長の山田清一中将と浜島巌郎参謀長の二人が自害している。

先輩I氏も当時第五師団の給水部隊の兵士で、ケイ諸島近くのセラム島にいて餓えと戦っていた。昨年暮病死した学友のY君も東チモールから傷病兵にさせれ橘丸でスラバヤまで運ばれた一人であった。現在、就航している橘丸は三代目で、運よく戦争に生き残った先代は、戦後も活躍していたが、廃船となりスクラップ化されたと聞いている。