「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

荷馬車で引越しした69年前の強制疎開の頃

2014-03-22 05:44:06 | Weblog
69年前の昭和20年3月22日、僕は生まれて14年育った東京.目黒川沿いの家を強制疎開で取り壊された。3月10日の下町大空襲の後、東京では駅前や軍需工場の周囲は強制疎開の対象になった。有無を言わせない命令であった。亡父の22日の日記には”家の周囲はまるで戦場、もうもうたる埃と騒音の中で、人々は取り壊しと引越しに追われた”とある。

当時、僕は中学2年生で、工場へ学徒動員されていたが、この日は強制疎開のため休みを貰い、両親と3人だけで作業に当たった。戦争中でトラックなどなく引越しは荷馬車で行われた。やっとのことで、近所の運送会社から荷馬車2台が調達でき、五反田駅近くから、現在住んでいる自由が丘近くの目黒通りの家まで2往復して荷物を運んだ。

70年近く前までは東京の区部でも荷馬車が走っていたのだ。五反田駅脇の三業地の入口には蹄鉄屋もあった。馬一頭入れば一杯の小さな店だったが、膠の融けるような悪臭がいつもしていた。僕ら小国民は、日曜日にはシャベルを持って道に落ちている馬糞拾いをした。4月15日の空襲にあった学友の一人は、焼け野原の中を飼い主を失った馬が走りまわっていた記憶があると、今でも当時の思い出を語っている。

勤労動員先の工場近くの京急雑色駅前の商店街の疎開取り壊し工事にも動員された。僕らは当時”ぶっ壊し作業”と呼んでいたが、家の大黒柱に荒縄を巻き、綱引きのように、一斉に綱を引っ張るのであった。子供だった僕らには、工場の仕事よりは面白かった。しかし、亡父も日記に書いているが、庶民にとって、やっと退職金で建てた家が、戦争とはいえ、一日で取り壊されるのは、耐えがたいことであっただろう。

僕らは工場で新型の特殊兵器の部品を製造していたが、工場から駅までの運搬は牛車がしていた。そんな矛盾に満ちた時代であった。