ウヰスキーのある風景

読む前に呑む

到る処青山あり

2017-03-30 | 雑記
今日は久しぶりに、家で米でも炊いて味噌汁も作ろう、などと思い立ち、ゼーキンを払うのをすっかり忘れたことにして、近所の米屋に向かう。

ようやく、『森のくまさん』が入荷したようで、いつもより少し高くはあったが、購入した。

なんせ、熊本の米である。地震があった、あの熊本である。

陰謀論的には起こされた、というべきである。震源地は何故か自衛隊の駐屯地だったとかいう話もあった。

そこは措く。名前が気に入っていたので、よく買っていたものをようやく購入できたわけだ。

スーパーに向かい、味噌汁の具として長ネギ、ほうれんそう、日本酒、何故か卵、さらに四個入りの砂肝なんぞも買い、自宅に戻り仕込み始めた。

ほうれんそうと砂肝は、食前の酒肴というやつで、米の浸水やら味噌汁の出汁を取るまでの時間つぶしでもある。


そのとき、不思議なことが起こった・・・。ブラックがRXになったわけではない。


ほうれんそうを御浸しにして、砂肝を焼いて、日本酒を熱燗にして、まずは一献と、日本酒を呑んだ。


味がおかしい・・・。腐っているわけではなく、妙に美味い。料理酒としても使ったりする程度の、純米酒とはいえ、パック入りの安めの奴である。

それが、例えるとおかしいのだが、天然酵母と無農薬栽培のぶどうで作った白ワインを呑んだように、やたらすっきりと呑める。

そういうのを呑んだことのある人には判るが、その手の酒というのは、体に障るようなものが少なく、水でも飲んでいるような具合の呑み心地だったりする。ワインアドバイザーの人がこだわって仕入れているお店でもかつて、同じ事を聞いた。

いきなり、スーパーの酒を天然酵母の無農薬米で丁寧に作り出した、というのは考えられない。だったらわざわざ書くのが今の流行り。

その酒が美味かったせいか、美味いと感じたせいだというべきか、飯が進みすぎて、ご飯と味噌汁と溶き卵だけで炊いておいた二合を食べきる有様だった。

ついでに、さすがに腹は一杯だったが、その前の日に買っておいた小さなケーキも食後に食べていた。

それでいて、近日の腹具合からした多少過ぎたかも、という程度で、気分は悪くなく、眠くもなかった。

食べようと思って食べれば、しっかり食えるらしい。とはいえ、丸一日ほどの間で、それまでに食べたのは、夜中に小さなカップケーキだったから、空腹だったというべきか。

「世の中美味いものだらけなんだなぁ」と、感慨に耽りつつ、それを忘れるかのようにコントローラーの設定でイライラしていたのは内緒である。


さて、無駄に長い余談が過ぎたが、タイトル通り、到る処青山あり、である。到る処美酒あり、でもいいや。

そんなはずはない!人間が骨を埋めるべき青山はそこだ!いやあそこだ!という声が一般的である。一般的かはしらんが、よくあると思われる。


かつて読んだ本で、その言葉、「人間到る処青山あり」の人間の読みと意味を聞いたものである。

ちなみに、このことわざは、「世の中、人が骨を埋めるところなんてそこら中にある」と、読んだままの意味ではそうなる。

この直前にネットで調べた場合は、「にんげん」であり、「じんかん」とも読むとなっていた。


「にんげん」の読みはかなり新しく、昔は「じんかん」だったそうな。

信長が好んだという、『敦盛』の一節で、「人間五十年云々」とあるのだが、あそこも当時は「じんかん」と読んでいたのだろうとのこと。

そして、「じんかん」というのは、世の中だとか世間という意味なのだとか。

同じ字を配して、微妙に意味の違う言葉になっているといえよう。

世の中、という意味の言葉ではあったのに、人のこと自体を指すことになった。

読みを変えて、違うようにはしているが、今は基本的に「にんげん」と読む。


以前、わしが定義した人類についての分類をおさらいする。似たような話は他でもあるかしらんが、とりあえず。

大別して三種類で、「人」と「ヒト」もしくは人でなし、後はその他諸々である。

三つじゃないぞ!とかいうこの流れは、以前もやった。突っ込みもないので、一人突込みである。


これは昔、人類の脳機能の分類に絡めてやった話でもあるのだが、そこからは大して変わってなかったものである。

それはともかく。脳の基底部が、無意識を司っており、息やら心臓の拍動やら、意識せずに肉体の調整を行っている。

R複合体という部分が、個体の最低限の生存を司っていて、アイクが言うには、レプティリアンはここをやたら刺激して、人類の認識を狭いものにしている、とはここで書くまでもなく知っている人もいるだろし、何度も書いてきた。

そして一番上の方に目を向けると、大脳新皮質だとか言われている表面の部分があり、そこから額に繋がって、額のところは前頭葉とか前頭前野とかいわれていて、ここが人を人たらしめている、最も進化した脳だという。

しかし、中間部分がある。

これは、動物的な脳と言われていて、レプティリアンが攻撃しているとかいう部分の上で、大脳新皮質だとかの上の部分から言うと、下にある。

人類は猿から進化したから、その時の脳だ、と言えなくもない。進化論は嘘っぱち、という話はここでも以前伝えたものであるが、その点は措く。進化論は嘘ではない、という意味でもないので、割愛である。

以前聞いた話では、元々地球にいた人類の先祖にあたる猿を、やってきた宇宙人が遺伝子改造して労働させていて、今の人類の全部かは不明だが、その末裔が我々だという。


その話からすると、ただ単に猿の時の名残なのかだろうか?と少々疑いたくある、というわけである。


遺伝子改造で生み出されたという人類は、レプティリアンの先祖の一つといわれているその宇宙人の命令に従って働くように作られた。

所謂「人間らしい」というのは、利他的である、ということは以前書いた。三つの分類の件である。
それが進化したという脳の部分が担っているのなら、これは他人、この場合は宇宙人の命令に従うようにした思考回路だといえる。

その逆に、動物全般持っている、個体の生存本能が、脳の基底部にあるわけで、不安を煽れば、生存本能といわれる思考回路通り動くことになる。

人類を作ったという宇宙人は、スナック感覚で人を食べていたそうだ。スナック感覚かはしらんが、「働かんと食うぞ!」と実際食ったりして脅せば、嫌々でも働かざるを得なかっただろう。

それなので、「人」も「人でなし」も、行動内容や表現が違うだけで、論理は変わらないというわけである。


「人」と「人でなし」の間という「じんかん」。これが、中間にある脳みそとなっているのだと考えている。

「人」でも「人でなし」でもない状態というのは一体如何なるものなのか?それはわしにもよくわからない。


ニーチェは、道徳として作り上げられるきっかけとなった行動を起こした人物は、例えば自己犠牲とも見受けられる英雄的な行動を行ったものは、道徳的に行ったのではなく、その当人の生命力から発した欲望から、それだけの事を起こしていたという。
そして、道徳的な結果から、「あの行いは道徳的だ。お前らも見習え」という流れで仕立てられてきた、という風に書いている。
自発的でない道徳的行いは、押し付けられたものの生命力を、「権力への意志」と書いていたと思うが、それを萎えさせるという。


進化した脳といわれるところも、生存のための脳も、宇宙人からのラジオ電波受信装置の名残か、今も続いているというのなら、我々は自身の「じんかん」を自覚せねばならないといえよう。

己自身の「じんかん」を探り、そこに「人」でも「人でなし」でもない「人間」という動物を見出す。

これが人間だ、という表現はつまり、出来ないといえる。ただ、人の姿を通しての表現の端々に感じられるだけだからだ。


しかし、重要なことを思い起こしていただきたい。

松果体という重要な、そしてとても小さな器官がある。

それが、人類の脳の真ん中に鎮座しているということを。


最も進化した脳にも、個体の最低限の保存のための部分にもなく、その間にある。これこそ、「人間」なのだろう。


それを少しでも実感できたならば、「人間到る処青山あり」となる。
そもそも、この世はホログラムなのだといわれているのだから。


では、よき終末を。

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