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拙ない仕事人

2017-04-10 | 雑記
拙者、という自称があった。正確には今もある。それは、時代劇だとかそういうノリでしか使われないという意味で存在しているので、今もあるとなる。

この言い方は、かつて大学で言語学を習ったときに、教授が言っておったものである。構造学とかいうものの言い方で、共時的な分析というやつである。

さて、拙者というのは本当なのか?という話をちょっとする。別に学術的な考察をしようというわけではない。

明治以前の日本人は、喋る時と文章で書き表す時とがまるで違ったのである。

漢文を習ったことはあるかと思うが、それと同じく、というよりそれを下敷きにしているのであろう文語文と、喋っている風に書く口語文という分類である。

これは本当なのかは知らないが、拙、という自称があるという。セツ、である。

漢文調で文を認めると、「拙は」、と書くと「拙者」になるのじゃないか?という疑問がふと思い浮かんだのである。

時代劇で「せっしゃ」と言っているのは、残っている文語調の文書を現代の感覚で読んだせいで出来上がったものかもなぁ、などと、想像を逞しくしている。

というわけで、これからは「わし」といわずに、拙、で行くことにする。どういうわけかはまったく判らない。

ちなみに、この「拙」という自称は、とある格闘ゲームの忍んでいない忍者の自称だとかいう。知ってたらかなりマニアック。

わし、というのは、基本的に目下に対するぞんざいな言葉遣いなのと、某漫画家の真似という謗りを受けるのを避けるためである。

別に謗られた覚えはないのだが、ノリである。多分、酔っ払ったら「わし」とは喋ってる。

以後、自称を間違えたら拙は切腹する所存である。それくらいの覚悟で変えるのである。いや、本当に切腹したら死ぬからやらんが。



余談はこれぐらいにして、拙の日常をツラツラと述べようと思う。最初から最後まで余談を許さないのである。


ここ最近、というかもうずっとかもしれないが、所謂スピリアルっぽい話を書いている。

何せ、なんだか見えるとか、手を当てたら何か感じて温まって痛みが治まるとか、何を食っても美味いが別に飛び上がるほど感激するわけでもなく、「美味いみたいだな」となんとなく思うぐらいになっているだとか、寒いのに震えない上に、手足が寒さを感じたら、勝手に温まりだすだとか、言っている本人も訳が判らんところである。

多分、野口晴哉の言っていた気とかいうものなんだろうと。特に、先日書いた「愉気」についての実感による処といえようか。

「愉気」については、野口晴哉は、「誰でも出来ることです」と言っている。これが出来るから私は特殊な人間だ!とか舞い上がる人は間抜けだと言っておこう。


さて、なにやらオーラとか呼ばれたりしているものが見えるらしい、と書いてきた。

色によって特性が違うそうで、拙は一体何色なのか?と疑問に思い、試してみた。誕生日だとかで判るのだろうか?と思ったのと、色の分類が曖昧というか、人によって数や分類が違いすぎる。

試し方は以下である。

1.自然光、もしくは白色の伝統、じゃなくて電灯の元に立つ。立たなくてもいいが。

2.白い壁に手を置く。拙が行った時は、仕事場の机で、真っ白だったので試した。

3.その手をぼんやり眺める。目を離してはいけない。また、手に目玉をくっつけてもいけない。目が潰れるから。

4.お楽しみください。

とのことであった。お楽しみください、は書いてなかったが。

するとあら不思議。拙の場合は、水色っぽく輝きだしたものである。

水色?簡単な診断だと青だとか言われたし、水色と書いているのはなかったような?と思い調べてみたところ、水色の分類と特性を見つけた。

本当のところを言うと、その分類を書いてあったところに、上記の見方を書いてあったので試したら、水色が現れたというところではある。

さて、水色の特性は何かというと、賤しい、じゃなくて癒すらしい。

仕事場で見ていたページを見つけたので、他の色と一緒に併せてご覧あれ。

ああ、だからか。かつて大きな鳥やら竜と戦うオンラインアクションゲームをやっていた時、知り合ってよく一緒にプレイしていた方が、「あなたと話してると落ち着いてしまって、寝てしまう」なんぞと言っていたのは。

いや、これから狩りにいくんだけど?と、当時の拙はやきもきしたものである。

色々流し読みしてみると、必ずしも身に纏うオーラというのは一定しているわけでもないらしい。この色だからこれと、必ずしも決まってないのだとか。

とりあえず、昨日、仕事場で試した時に見えたのは、水色で白っぽく輝いている感じだった。電灯がLEDのせいで、ブルーライトの影響か?と思ったが、多分関係ない。

気やらオーラやらというのは、物質以前のものだというのだから。


癒し。確かに、拙は拙自身を癒したかったのである。他はどーでもいい、というとメチャクチャだが、最近も似たようなことを書いたものである。

というのも、わたしとはわたしとその環境である、というオルテガの命題に則って言うならば、二番目に書いてある「わたし」を変えれば、嫌でも環境は変わるはずだ、という考えが前提にあるからである。

それを忘れて、外、つまり、上で言う「その環境」をいじっても、「わたし」が前の環境の状態のままなら、また元に戻るだけなのだと。


恐らく、昔からそういうことを感じていたのだと思われる。風邪引いても薬を飲もうとしないし(身体の抵抗力が怠ける、と高校くらいから思っていた)、生まれ故郷より東京は寒いからと、寒さに耐えられるようにしようとちょっと心がけていたりだとか。某宗教団体の大学が東京にあるわけで、拙の親はそこに放り込むつもりだったからである。

一人でも寂しくないように、精神修養も欠かさなかった!といったら大嘘だが、なんやかんやで、目の前に他人がいないとつまらないだとか寂しいというのは無意味だと思い至ったのは事実である。

何で一人になるのだろう?と思わなくもなかった。とはいえ、愚兄に「一人になるな!」とか散々説教されたのは、鬱陶しいことこの上なかった。

それを思ったせいなのかは知らないがオーラの診断していたの同時くらいに、前々から名前は聞いたことのある、「ライトワーカー」とかいう存在の内容を読んでいた。

いわく、ライトワーカーは孤独な人が多いだとか、過酷な人生の場合もあるのだとか。

過酷かはしらんが、孤独といえば孤独かもしれない。親や兄貴に「某宗教団体含めて宗教はキチガイ沙汰だ。国内の他の宗教的伝統を貶すのは、自分たちが伝統になってふんぞり返りたいだけだろう」なんぞと言った所で通じないのは判っていた。

当時は別のものにかぶれていた。それは「日本的」という宗教だったから、拙自身も同レベルでしかなかったのだなと、今は思う。


それで、何でライトワーカー?と思われるかもしれないが、別に拙が光の国からやってきたとか言いたいわけじゃない。

二番目のリンクに書かれた、アメリカのスピリチュアルカウンセラーの方が示した具体的な特徴の最後の行が、正に拙のことだったからである。


世界を癒すための第一段階として、自分の人生を癒したいと思っている



世界とは大きく出たなぁ、と思われるだろうが、別にそれほど大きくない。というのも、世の中が言ってくる世界というのも、誰かのでっち上げた見た目は大きいが小さな見せ掛けなのだから、自分から見た世界を癒そうというだけの話である。

他に世界などない。己のうちから広がっていく世界を見ずして、何を語ろうというのか、というわけである。

だから、こうして延々書いているのだろう。これではLight workerじゃなくて、Wright workerだが。


今までずっと切なかった理由は、「拙」がなかったからなのだろう。もしくは見失っていた。

それで、「拙」ないことはもうやめにしようと相成ったわけである。

記事タイトルの「拙ない」は「つたない」の書き間違えではないことをお断りしておく。

まあ、色々と拙いのはご愛嬌ということで、御免被る。


では、よき終末を。