石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

安息に入るための戦い

2017-09-21 20:23:15 | Weblog


いつの間にか沈んで行く心を止められなかった。
「ただの言い放しで何も出来ないではないか・・それでは何も変わらない。」そんな惑わしの声を聞いてしまってから・・。
わかってはいるのだ。主に聞いたことを語るだけの者であることも、見張ったり心配して気落ちすることは僭越なことであることも。

ずっとみことばから、救いは主のみわざであると聞き続けているけれど、それは心までで腹に落ちてこないのだ。心などはコロコロと揺れるものである。腹に据わるところまで落ちないといのちとならないのだ。
腹に落ちる一つのことばを探して、聴き続け賛美しつつみことばを待っていた。

神の安息に入った者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。
ですから、私たちは、この安息に入るよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。(ヘブル4:10~11)


「安息に入るように力を尽くして努め」休むために力を尽くす?なんと変なことばだろうと思った瞬間、腹に落ちた。
安息に入るには努力が要るのだ。渇いてみことばを求め続ける中にあった主の安息。探しものをしている間も、主に在って安息の中に居たのだ。確かに、ただ主を求めていたから・・「勝った!」と思った。



ごめんなさい。「タイトル」が間違っておりましたので、投稿しなおさせていただきました。
先ほど、「いいね」を付けてくださった方、本当に申し訳ありません。お気を悪くなさらないでください。感謝いたします。
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美しい傷跡

2017-09-16 20:04:35 | Weblog



「港町のカフェテリア」さんのブログにいつも心を揺さぶられる。
若い頃、貧しさと孤独の恐怖の中で聞き続けた曲たち。モノクロの世界に閉じ込められて、心の痛み止めのように聞いていた・・。

生きる苦痛の中で、自身を守る言葉さえ失って聞いていたのに・・、今は何と美しく聞こえることだろう。
半世紀を経て、よく熟成されたワインのようにじ~んと心の深い襞に落ちてゆく・・。

耳の聞こえない息子にこんなことを話すなんて・・。
でもね、イエスさまに出会った私には、もうどこにも傷は残っていないから、あなたに痛みがあったとしても、
「ちっとも恐くはないよ」と思うのです。

しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。(イザヤ53:5)


イエスさまの十字架のあがないによって癒され、私たちはまったく新しくされるのです。
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大雨警報

2017-09-12 14:01:59 | Weblog



 昨夜、「イエスさま。今日の平安を感謝します。買い物をしている間も楽しかったです。帰り道のバイク同士の事故から守ってくださって感謝します。眠っている間も共に居てくださることを感謝します。」お布団の上でお祈りをして眠りに就いた。
眠りは小さな死、夢で主にお会いしているかもしれないと思うと、ふわぁっと幸せな気持ちになれるのだ。

 今朝7時すぎに目覚めて、いつものように枕元のラジオのスイッチを入れると、地域に大雨警報が出ていることを伝えていた。
安全の中で充分眠らせてくださったことを感謝して起き出す。
窓ガラスが濡れていて強い雨が降ったことはわかるけれど、今は「雨がふっているなぁ」という感じ・・。
双葉が出たばかりの菜花が気になって、首を伸ばしてプランターを見ると小さな小さなピースサインが並んでいた。

 嫁さんがラインで「大丈夫?」、「ぜんぜん大丈夫だよ~」と返事を送ってちょっと嬉しかった。私はイエスさまのお守りの中でたいがいのことは平気、それは逃げ込める所を持っているということなのだけれど・・。
でも、気遣われることが嬉しいのも事実だと認めさせられた。少しは可愛い気がある方が楽しい。

 主人が天に召されてからは、お店などで地域の方に出会った時「何で来ているの?」と尋ねてくださる。鈍感な私は、初めはその意味がわからなかったけれど「車で送ってあげようか」と言う親切だった。
頑張っていると優しさに鈍感になってしまう。気付かない間に、自立に必要以上の誇りを持ちすぎていたのかも・・、
それはキリストの謙遜とは真逆。

今朝のみことばを、「私にも与えてください」と祈ったことを思い出した。イエスさまに願わないと、私には無い謙遜と柔らかな心を・・。
わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。(エゼキエル11:19)

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風見鶏

2017-09-10 17:45:33 | Weblog



 風見鶏はとは世の風向きによって動く定見のない人・・ともあるけれど、キリスト者は世の嵐の中で、聖霊によってイエス・キリストを常に指し示す風見鶏。
世の問題に吹き回されることなく、聖霊が語ってくださるキリストの言葉を提示する。

たいがいの問題は、心や体に絡みつく死の絶望から出ており、罪の結果である死から解放してくださるのは、十字架で人の罪をあがなわれたイエス・キリストだけである。
救いのわざは主のなさることで、その人が信じたみことばが成就するのであり、キリスト者はキリストの土台に据えられて、十字架の完全な救いのありかを示すだけである。

罪から発した悲しみ、恐怖、飢え、行き詰まりは、主が救いのために用いられる道具でもある。
頑なな者も、生きて行けなくなるところまで追い込まれた時、カインのように「私の咎は大きすぎて担いきれません」(創世記4:13)と、救いを求めて主にひざまずくかもしれないからである。

私はそのようにして、滅びから平安ないのちに移していただいた。
キリスト者にある確かな望みは一つ。救い主を知らせることができる望みである。

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。(1コリント1:18)
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たぼちゃんさんへ (一粒の麦)

2017-09-08 11:04:09 | Weblog



まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。(ヨハネ)

私は子育てに行き詰まってイエスさまに救われた者です。
イエスさまが十字架で一粒の麦となって、人の罪を負って死んでくださったことを信じるた時、過去、現在、未来のすべての罪が赦されたとわかりました。

もう罰せられることも責められることもないと知って、とても楽に生きられるようになりました。
子育ての知恵もチャンスもイエスさまが準備してくださいました。

「豊かな実を結ぶ」とはキリストを信じる多くの人が、罪の赦しによる滅びないいのちを持つようなるということですが、今生きている間にも平安な豊かな命が与えられることを経験しています。

私が信じているのは自分自身でもなく息子でもないのです。私たちの中に居てくださるイエスさまです。
この、みことばをご存じのたぼちゃんさんが、どうか豊かな救いの実をお受けなさいますように、心からお祈りしています。
「イエスさまを知りたい。その救いの実が欲しい」とイエスさまに祈ってくださいますよう、心からお祈りしております。
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種まき

2017-09-07 23:51:50 | Weblog
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細かな細かな種を土に落として、
土を掛けることは葬りの儀式
種は暗闇の死を経て、光の中に新しい命を生え出す

種まきをする人は誰でも命の復活を知っている
主が創造の初めに備えられた命が何倍にもなって、
人をも生かしてくれることを・・

すべての緑、すべての花々
キリスト者のいのちも死を通ってきた

種蒔きは復活の喜び、それは新しい出会い、成長は日々の楽しみ
柔らかな緑の葉っぱはすでに心に広がっている

夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。
どのようにしてか、人は知りません。(マルコ4:27)
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今日のみことば(2017/09/06)

2017-09-06 10:50:14 | Weblog



「自分のために大きな事を求めるのか。求めるな。」(エレミヤ45:5)
旧約聖書から・・。

「ただあなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」(ルカ10:20)
新訳聖書から・・。

聖霊は常に私を見張って、朝毎にみことばをもって平安に導いてくださいます。
アーメン。感謝します。
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愛は応答する

2017-09-04 14:59:43 | Weblog



わたしは彼らを幸福にして、彼らをわたしの喜びとし、真実をもって、心を尽くし思いを尽くして、彼らをこの国に植えよう。(エレミヤ32:41)

全能の神が「真実をもって、心を尽くし、思いを尽くして・・」と、旧約聖書にあるのを見て驚いた。主なる神様の方から、心を尽くして愛してくださり、思いを尽くして愛してくださったのだと・・。
「幸福にして、わたしの喜びとし・・」とある。人の喜びは神の喜びだった!

イエスさまはそれゆえ、一番大切なこととして神の愛に応答せよとおっしゃったのだ。
そこで、イエスは彼に言われた。「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」(マタイ22:37)

初めに神が愛してくださった。愛は応答するもの、互いに「知りたい」と願うもの。
私たちが神の愛を知って幸福であるとき、主は喜んでくださっている。そのために十字架を通ってくださったのだから・・。
私たちはこの交わりに在って、すでに永遠の御国に住んで居る。
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ひまわり

2017-09-03 21:52:53 | Weblog



幼い日に 誰もが一度は描いている
お前は親しさにおいてNO1

お前は爆発する 花の命のNO1
お前には躊躇は無く 無邪気さにおいてNO1

おおらかに のびやかに 
雲を突き破って天まで届け
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初めに主に祈って

2017-09-01 19:23:39 | Weblog



「主よ。感謝します。今日はメッセージをよく理解することができました。愛する主がはっきりと語られていて、「アーメン、アーメン」と喜びの声を上げつつ聴かせて頂きました。

そのようにして、人々はもはや、「主を知れ」と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼がみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。(エレミヤ31:34)

語っておられる人の中に充満して居られる主が、言葉となってご自身を現してくださっているのだと知りました。」

「お前は、昨日わたしに怒った」

「申し訳ありません。私はまず初めにあなたに祈り求めるべきでした。どんなこともあなたを通さないことは貪りです。だから私は悟れずに疲れてしまったのです。
主を知ることにも、貪りとならないようにお守りください。」


神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。
ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜ったものを、私たちが知るためです。(Ⅰコリント2:11~12)

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