石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

夢の中まで

2017-06-29 13:24:18 | Weblog



 昨日こんな話しもしていた。
夫婦って・・時には呉越同舟のようなもので、その長い年月を互いに忍耐も積み重ね、目を瞑っては許し合っているうちに、いつしか掛け替えのない人になるのねと・・。
彼女は、自分の苦労を細々話すことなど無いけれど、ご主人には忍耐が要ったろうことは容易に想像できる方であった。

昨夜夢の中で、主人と角砂糖一個のことで目が覚めるほどの喧嘩をしたことを話すと、死んでなを「夢にまで出て来て喧嘩をする相手となる」と爆笑した。

「キリスト教ではなんと・・」チラッと彼女に問われた。夫婦の信仰のことかな・・と思ったので教会へ行き初めた時、
「信仰の無い主人に対してどう接したらよいのですか」と青い眼の女性宣教師さんに質問したことを話した。

「『妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻も無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。』(ペテロ3:1)
はい。帰ったらこのみことばの通りにしてください。」

一言で教えられた時、私が思い込んでいたキリスト教とはずいぶん違うことに驚いたけれど、それからは主人の意志と思える言葉には、私の賢いと思う判断を捨てても従い、いつの間にかみことば通りに、イエスさまのものとされて天国に帰って行ったことなどを話していた。

人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。
草はしおれ、花は散る。
しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。(Ⅰペテロ1:24~25)

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ツーカーもつかの間

2017-06-28 23:56:32 | Weblog


 「ムベちゃん!近くまで来たから寄ったよ」玄関に飛び込んできた懐かしいお客さん。「上がって上がって・・」手を取るようにして招き入れ互いに気楽な寡婦さん同士。日が暮れるまでしゃべっていた。
「ツーカーで通じる人が欲しかった・・」と言われた。同じだけの年輪を重ねておればこそ何年も会っていなくても、昨日に続く今日のように通じ合える。

 彼女は嫁いだ村の婦人会などでご一緒した方、その後も尋ねてくださったことはあるけれど、私は村を離れて4~50年になる。「ちゃん」付けで呼んでもらえるのは、あの頃の知り合いだけである。
しかし・・最も親しくしていた友人は年下なのに先に逝ってしまわれて、村のことを思い出すと彼女のことがとても悲しいと話す。

名家と言われた家が彼女の亡き後、一気に没落してしまったことを聞くことになって、想像も出来なかった無残さに胸が塞ぐ。
華やかだった彼女を懐かしみ、ふたり一緒だから思い出に浸ることができた。一人で思い出すのは切な過ぎるから・・。

長生きをすることは、それだけ多くの悲しみを味わうことでもある。沢山の友人と行き来をすることは楽しいけれど、親しければなをさらに一転辛い目を見ることになる。
私はそれをとても恐れて、つい孤独に逃げ込んでしまう・・。

 「今は、ホームドラマとかないでしょ、そもそも昔のようなホームがないからね。あの頃よりも住まいも、着物も、食べ物も豊かになっているのに、なぜか余裕が無くなったね」
「まあ、昔は世間体という箍があったから、そこで忍耐もしたり頑張ったりしたけれど、今はてんでに生きているから、離婚でもなんでもありになってしまって・・」

「色々な意味で社会が貧しくなってしまったね。」
「貧困、貧困と言っている。昔はもっともっと貧しかったけれど、お互いさまでそんなことは言わなかった」
「子供の頃、たまに食べさせてもらったアンパンは嬉しかったわ。今の人はあの味は知らないから可哀想よ」
「そうそう、あのアンパンの味は知らないやろうね・・」
胸に溜まっている日頃の思いを・・まだまだ口は達者。世の移り変わりに老人はストレス感じていたのだ。

 暗くなって来た山道を運転する彼女に「気を付けてよ。夜走ったことはあるの。」
目も衰えているのだからと気がかりなのである。彼女は車の窓から
「今度はうちに来て。帰るのが面倒なら泊まったら良いよ」
「その手があったね」

再会を約束するようなしないような別れ方には、これっきりということも含まれている。
先立った友の時も・・、笑顔で賑やかに別れてそれっきりになってしまった。
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堅くて脆いアンチモニー

2017-06-27 17:47:42 | Weblog



 イザヤ54章による深い御交わり・・、
でも、あまりに個人的なことなので・・。
紫陽花をアップします。


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お姫様キャベツ貰ったぞ~

2017-06-22 15:20:28 | Weblog



 ウォーキングコースでいつも畑仕事しておられる方が、「キャベツ貰って・・」なんて素晴らしい言葉を掛けてくださった。此処の畑のキャベツは細かなネット覆って作られたお姫様キャベツ!
「いいんですか・・、ありがとうございます。」と飛びついた。

カンカン照りが続いて、昨日の雨に一気に大きくなろうとしたのだろう・・。良く巻いた葉の先から割れてきて、露を含んだ柔らかそうな葉が覗いている。
「雨で土がやわらこうなったから・・」と鍬を入れておられたので、「良い雨でしたね。」なんて言ったけれど・・複雑だったかもしれない。

「わしも一生懸命に作ったものやから・・、ちょっとはぜて来てるけど勿体のうて・・」「やわらかそうですね。ありがとうございます。」
心の中で「ええ、ええ、一生懸命に作られたことは良く知っています。」とつぶやいた。軽く抱えようとしてズシッと来た重さにちょっとたじろぎながら・・。

「此処は欲と二人連れ」と大きなキャベツを抱えて大喜びで帰ってからフッと気付いた。出かけに左腕が痛くて庇っていたこと・・。
腕も痛みを忘れたのか重いキャベツを抱えていたのに痛みは消えていた。

歳を取るとあちらが痛い、こちらがかゆいなんて毎度のことなので、一々取り合わないことにしていたけれど・・欲という薬を発見した。

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ピンクの紫陽花

2017-06-21 14:16:33 | Weblog


今朝は雨に濡れた紫陽花がご機嫌、花から葉っぱの先まで嬉しそう!
少し濃くなったピンクの頬で、ガラス越しに「うふっ」

現金な奴め・・
昨日も一昨日もぐったりして・・、少しの風に頼りなく揺れたろう・・
網戸越しに顔が合った時、「みず・・お水ちょうだい」と聞こえて、
急いでバケツ一杯バッシャッと気前よくあげたけど・・それほど元気が出なかった

今、あまりにご機嫌なので二本ばかり頂いて、雨を振るって部屋に挿す
窓の中にも外にも、やわらかなピンクの微笑み
自分のために花を挿す!
今まで気付かなかった幸せの朝
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花嫁衣装

2017-06-21 00:07:32 | Weblog



たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。(詩編23)

愛する方のムチと杖は私の慰め。
私よりも私をよく知っていてくださる方は、私の臆病なことも、痛みに弱いことも、脅すと怯えてしまうことも知っていてくださる。
主の愛のムチは私の安心。それがあるなら決して罠に嵌ることも、道を反れることもない。

霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。(ヘブル12:10)

みことばは世の闇を一歩一歩を導く白杖、それがあるから迷うことはない。朝毎のみことばは淋しい世の避け所
それは十字架で賜った花嫁衣装。みことばの衣を一枚一枚身に纏って、十二単のように整ったときお嫁に行くのだろう。

私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。(詩編23:5~6)
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今日のみことば 2017.6.19

2017-06-19 18:35:40 | Weblog



しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。(ヘブル3:6)

われわれの教会が、神のみことばに正当な位置を与えるときに、どんなに大きな力を得られるかを知ってさえいたら!(ヘンリー.H.ハーレイ)
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嘘を楽しむ

2017-06-18 18:12:30 | Weblog



 野際陽子さんの映画やテレビドラマなどの懐かしい話しを聞いていて、フッと思った。
小説や映画は殆どが作り物つまり嘘であり、それは人が嘘を楽しむ者であるということだ。

 嘘を吐くことは普通は辛くて悲しいことである。弱さから嘘を吐き、労りから嘘を吐くこともある。
楽しい嘘はエイプリールフールくらいで、心が歪んでしまっていない限り嘘が楽しいことなどない。それは心が痛むことである。痛み方はそれぞれかもしれないけれど・・。

嘘を楽しむのは人間くらいだと思う。道具を使う動物は時々テレビでも見るけれど、在りもしない餌を想像して遊ぶ動物はいないだろう。
嘘はサタンの道具なのに、人はサタンの道具を用いて安全に楽しむことができるのだ。これは発見だと思った。

 私は嘘を吐くことがとても苦手だから、しなくても良い苦労を繰り返し味わった。そこは生まれつきの性分で、たったひと言の嘘が言えずにフリーズしてしまうのだ。
その結果、息子達にも余計な苦労もさせてしまったけれど、強情でも後悔はしていない。代えられない大切があると思っている。

 私もテレビで淋しさを紛らわす。ご遺体に一礼して始まる警察ものなど、嘘ならこそ楽しめて、たいがい和やかに勧善懲悪で終わる。チラチラ見ながら他のことをしたり、ウトウトして初めと終わりだけで納得したり・・。
嘘を楽しんでいることに気付いて、なんかちょっと驚きだったのである。
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むちと杖

2017-06-17 13:56:08 | Weblog



 実は、昨日はもっと楽しいことを書きたかった。
でも、みことばを読むと言葉があふれてくる。それらはメモっておいて後日にと心に決めていたけれど・・。

昼食の準備をしているとき、ポットから噴き出している蒸気に小指が触れてしまった。すぐに水で冷やし、その時は大したことはないと思ったけれど、少しでも水から上げると激しく痛んだ。
保冷剤で冷やし続けても痛み、水ぶくれができて刺すような痛みはむしろ酷くなった。

たかが小指一本で・・と思った瞬間、朝の聖書箇所を思い出した。
ほむべきかな。わが岩である主。
主は、戦いのために私の手を、いくさのために私の指を、鍛えられる。(詩編144:1)


鍛えられるはずであったのだ。それが痛んで使いものにならなくなっている。私はやっと自分の失敗に気付いた。

その時、ステロイド軟膏があることを思い出して指に塗った。これで痛みは終わるだろう。
午後はみこころを行った。キーを打ち始めた時は痛みが残っていたけれど、何時かそれも忘れて水ぶくれも消えていた。

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カナンの葡萄

2017-06-16 19:37:59 | Weblog


 ついで神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。(創世記1:29)

神様が、エデンの園に食べ物として備えてくださったのは穀物や果実。その豊かさをカナンの地の記事に見ることができる。

彼らはエシュコルの谷まで来て、そこでぶどうが一ふさついた枝を切り取り、それをふたりが棒でかついだ。また、いくらかのざくろやいちじくも切り取った。(民数記13:23)

これらは神様から与えられたものであり、人が額に汗をして育てたものではない。アダムの働きは収穫の喜びを満喫するためにあった。

神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。(創世記2:9)

すべての木が見るからに好もしいく食べやすいものだった。それが神様が人のために備えてくださった地である。
その豊かさの中では、生きるために競争する必要も、飢えを恐れることも、病や死の不安さえもなかった。

 アダムがエデンを追放されたのは神様の唯一の命令に背いたからである。それは言葉にするとわずかなことである。
神様はアダムに「取って食べると必ず死ぬ」と言われていたが、

そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」(創世記3:4~5)

そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。(創世記3:6)


それは、自由に与えられている木の実とほとんど変わらなかったのだ。唯一違ったのは「神のように賢くする」ということだけであった。
しかし、人は充分賢く造られていた。

神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。(創世記2:19)

アダムは、初めて目にしたものに次から次へと名前を付けて行く。それほどの能力を持っていたのだ。神様が側で満足そうに見て居られる様子が浮かんでくる・・とても平和な世界。

しかし、サタンに誘惑された人は「神のように賢くなる」ことに堕ちた。
造り主との平和な関係にある「賢さ」に満足せず、サタンから手に入れた「賢さ」によって、今もあらゆる不幸や争いが生まれている。

 この実を食べた時から、人類は「神に逆らう罪」の血筋にあるものとなった。創造主を認めようと認めなかろうと、その罪の処理がなされない者は裁かれるのである。
それ故、罪の赦しのために神様は御子を、あがないのための十字架に付けなさったのである。

この世にも果物も木の実もあるが、それは御国のおこぼれ程度の貧弱なもの。どんなに人が知恵を絞ってもカナンの葡萄は作れない。人がもし巨大なものを作ったとしても、それは異常であって神様の祝福とはほど遠いものである。

 やがて御国に着いた時、祝福の葡萄を口いっぱいにほおばることを夢見ている。それはいったいどんな甘さだろう・・それはきっと神様の愛の味がするだろう。
でも・・一緒に食べたい人が沢山居るから、私は神様にそのことを哀願しているのだ。

御国ではその労苦も、貧しさも、飢えも、涙もない。永遠に神様の祝福を見てほめたたえているだろう。
しかし、今世にあっても御国の前味はあるはず・・、御旨に在って労苦ではない収穫の喜びがあるはずなのだ。未だ祈りの中にあることだけれど・・。
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