石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

歯の治療が終了!

2017-05-31 23:27:09 | Weblog



 76歳の手習いは歯磨き・・、きれいにしてくださった後で電動歯ブラシを使っていることを話すと、電動歯ブラシで磨いて前歯裏への歯ブラシの当て方を教えてくださった。ちゃんと磨いているつもりだったけれど、まったく当たっていなかったのだ・・。教わることのありがたさだった。

質問に丁寧に答えてくださったので、聞きたいことが聞ける雰囲気にすっかりリラックスして、優しい手は歯だけではなく心にまで届いた。
私は人に向かって「癒して」なんて言葉を口にすることは「卑しい」と思えて嫌いだけれど、老人に丁寧に接してくださることに癒されていた。

 医師は今後の治療の進め方と起こりうるリスクも分かるように説明してくださった。入れ歯にするかブリッジにするかの選択もさせてくださった。
自分で決めたことには治療にも積極的になれるので、朝のうがいの水が染みたときも、たまにチラッと痛みがあっても、「ああ、先生が言っておられたとおりだ。」と思うと不安はなく、「健康な歯を削りたくないのですが・・」って言っておられたことなどを思い返していた。入れ歯が嫌いということもあるけれど、信頼していたからブリッジを選んだのだ。

 亡くなった主人の癌治療で最も悲しかったことは、脅すような言葉だけでろくに検査結果の説明もなく、一方的に日時や方法を指定されて繰り返し、繰り返し検査を受け続けなければならないことだった。
弱った主人があちらに行ったりこちらに行かされたり・・、まるで命という人参をぶら下げられて、引き回されているようでたまらなかったのだ。
相談してほしかった。相談に応じて貰いたかったのだ。「どうしたいですか、どちらを選びますか」と・・。

 今日はすべての治療の最期で、部分入れ歯が出来上がって装着してもらった。
丁寧に合わせてくださって、「気持ちが悪くても必ず慣れます。でも、いろいろあると思うので、その時はどんなことでも電話してください」と懇々と言い聞かせられた。

入れ歯は「あらっ」という感じだった。なんかぴったりと治まって忘れている・・、口を閉じると自然に奥歯で噛みしめていた。この感覚は4~5年ぶり・・だと思う。
「あまり無理をしないで・・」と言われたことを思い出し、いきなり野菜バリバリは止めてカレーを炊いた。ブロッコリーの軸もカレーに炊き込んで、サラダはやわらかい蕾だけ。

せっかく丁寧に作ってくださったものだから、使い続けて慣れることができるように、自分も入れ歯も大切に扱おうと思った。
夕食はカレーをゆっくり食べた。トマトとブロッコリーは右で噛んだ。ジャガイモやご飯は入れ歯で噛んだ。
ゆっくりゆっくり・・・、神様と関わってくださる人に感謝しつつ美味しく食べた。
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「主は御民を喜びのうちに連れ出された。」詩編105編

2017-05-30 14:58:26 | Weblog


主は、雲を広げて仕切りの幕とし、

世のやり繰り、取り繕い、将来への不安などから主は雲を広げて仕切り、頼む者をかくまってくださる。私たちはただ主の中に身を避けている。

夜には火を与えて照らされた。

みことばの光に照らされる所では、闇や絶望が私たちを閉じ込めることはない。そこには永遠の望みがあり、その光のうちには慈しみの主の眼差しがある。

民が願い求めると、主はうずらをもたらし、

肉の望みさえ主は心に掛けていてくださる。私たちがちりに過ぎないことをご存じだから・・、満腹するまで与えて12籠あまる気前の良さ。

また、天からのパンで彼らを満ち足らわせた。

天からのパンはことばなるキリスト。我らの救い主、すべての罪をあがなってとこしえのいのちに満たしてくださった。



主が岩を開かれると、水がほとばしり出た。水は砂漠を川となって流れた。

冷たい岩のような心を開かせて、聖霊の水が流れ出るところとしてくださった。主に打たれてほとばしり出る聖霊の川、それは不毛の砂漠に流れ出て豊かに流れ、広々と流れて獣を養い、鳥は緑の木々に歌い、花々を咲かせて、神のかおりは野は満ちるようになる。
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生かされて

2017-05-27 18:38:31 | Weblog



 スーパーで買い物をすませ荷物を満載したバイクで国道を走っていた。すると、前の乗用車が指示器を出した直後に止まって右折した。私のバイクはぎりぎり追突することはなかったけれど、後ろの車の鋭いブレーキ音に驚いた。それっきり後ろの車はずっ~と離れてしまった。よほどびっくりしたのだろう。
私は、今朝のみことばが実現したのだと思っていた。「あなたのいのちを穴からあがない」朝からずっと心に在り、口にあって離れない言葉だったから・・。

家に着いて、玄関の戸に鍵を差し込むと戸は開いたが鍵が抜けなくなった。溶接でもしたようにがっちりとくっついて、引こうと押そうとビクともしない。ペンチを持って来て引っ張っても無反応。
「ああ、そうだ」と祈って、潤滑油を差すことに思い至った。

しかし・・抜けない。何かある・・主は身近なことを通して導かれる。まだ主に聴いていないと気付いて座ると、すぐに言葉が広がった。
「守られた命をどのように扱ったのか。神が与えた命の価値をどう見積もっているのか」
私の毎日は主の癒しと、執り成しと、満たしの中に在るのだ。すべてが神さまの恵みのであり、そのことがすっかり日常になっていた。
しかし残り少ないこの肉の命にさえ、主の備えてくださっているご計画はあり、私はそのことを軽んじていたのかもしれない。
生かされたのはなにゆえか、癒されるのはなにゆえか、若くされるのはなにゆえか・・そのことを尋ねていなかった。

主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、
あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、
あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。(詩編103:3~5)


 立ち上がった時、あることに気付いた。家の中から鍵をかけて外に回り、戸に差しまれたままの鍵を開ける方に回して引くと鍵はスッと抜けた。やはりこれは主の導きの道具に過ぎなかったのだ。
買い物を冷蔵庫に仕舞って詩編に戻った。

わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。
わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。(詩編103:1~2)
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緑色の雨

2017-05-25 13:52:03 | Weblog



シトシトと・・雨は止まずに降っている
芍薬が大きくしなって、葉っぱも蕾も重そうに・・

インゲンも傾いているよ
雨粒に押さえられて「参った・・参った」って言っている
「ちょっとがまんね」止んだら起こしてあげるから・・

アジサイの雨粒は緑色
葉っぱにたくさんの水たまりを乗せているから
「触れないように気を付けて」

椿の若枝に、ぎっしりぶら下がった雨粒は
キラキラとガラス細工みたいに光っているから
落ちたらチリンと鳴るよ


トマトはとても嬉しそう・・
思いっきり背伸びして、一夜に10㎝は大きくなっている
「喉が渇いていたのだね」

み~んな神様の作品
私たちへの今日のプレゼント
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花嫁修業

2017-05-22 15:52:09 | Weblog



 あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め。」と言うことばを聞く。(イザヤ30:21)
それは「動くな」をも含むのだと知った。今は、「待て」「座れ」「伏せ」であった。
「待て」は「静かにしていなさい」であり、「座れ」はマリヤのように「みことばに聞き続ける」であり、「伏せ」は「安息に入る」。

私は犬ではない。キリストのいのちという代価によって買い取られた花嫁。だから、王の花嫁は躾けを受けなければならない。的外れではなく、花婿の御旨を射貫くように、御声を聞きわける花嫁として整えられていなければならない。

 現実は体は愚鈍なものとなり、頭は打てども響かぬぼんやりとしたものだけれど・・、主の選ばれた花嫁ならば、主ご自身が相応しく整えてくださることを知っている。御声に聞き従うならば・・。
「来い」と呼ばれ、「行け」と命じられることは心弾むことだけれど、「伏せ」が完成しなければ呼ばれることはないだろう。

 旧約の祭司は決められた通りに行えば良かった。
今は絶えず聖霊に聴き続けなければならない。花婿に「来い」と呼ばれる日が何時かわからないからである。キリストの花嫁である教会のために祈っている。安息していますように。御声を聞き取ることができますようにと・・。

神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。
ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。(ヘブル4:10~11)
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ホトトギス鳴く

2017-05-15 12:03:09 | Weblog



 歯の治療から帰ってきて、今年初めてホトトギスの声を聞いた。
良く通る声で鳴き始めた。この声を聞くと夏が始まるのだと・・ワクワクするような、覚悟を決めるような気分になる。

昨日は地域のお掃除。若い人が高い梯子に登って石垣の草を取ってくださっていた。それは主人がよくしていたことで、私がいつもハラハラした作業だった。何の役にもたたないのに私は、終わるまで側を離れられなかった。

 ゴールデンウイークに「ライン」というものに入れてもらって、家族とチャットを楽しむことができるようになった。孫ともそれぞれ話せるし、楽しいスタンプなどを送ってくれる。

教わった当初に、やたら発信してウザがられた。そりゃ仕組みも程度も知らんし、何しろ暇だし、ブログのように勝手に書き散らしてコメントは自由で良い。そんなものだと判断していたから・・。

 目に見える母の日が私にもあった。息子にもらったカーネーションと、嫁さんにもらったハンカチのセット。ハンカチは飾っていると書いたら、嫁さんから「おかあちゃんたら、飾ってないで使ってちょーだいな」って返ってきた。いや・・でも・・。

次男からは買った新商品の写真が会話中に送られて来た。なるほど便利だ。
でも、私はスマホもっていないし、持ちたくないし・・携帯も何処かにいったし・・、pcを立ち上げたときに見るだけだからちっともダイレクトではないけれど。

 また、ホトトギスが鳴いた・・。窓の新緑が五月の陽光にギラリと光って風に揺れる度に眩しい・・。
麻酔が覚めてきて・・歯がちょっと痛む。
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五月雨

2017-05-13 22:41:04 | Weblog


クマガイ草の行列が、ふかふかの苔の上にやって来た。
年々に少しずつ歩いて とうとう此処までやって来た。

彼らは抜け目なくて 居心地の良い場所を見つけ出し
今年はみんなで集まって お祭りさわぎをやっている

私の大切な苔たちを 大きな葉っぱで覆ってしまい
大きな花で覆ってどんちゃん騒ぎをやっている

苔の端に手を置いて「もうしばらく我慢してね」と
どちらも大切だから「仲良くしてね」とささやいた

手のひらを受け止めて 苔はふんわりと沈んだ
五月雨の中で気持ちよく沈んだ
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ヨブの心に沈んでいた言葉

2017-05-12 10:42:30 | Weblog



 神様はヨブの心の底にある思いを知っておられた。平和な時には沈んでいる肉の思いも、何かあると吹き出してくる。それは本人さえも気付いていないけれど・・。
だから神様はヨブを義に導くために、すべての言葉を吐き出させてヨブ自身に見せなさった。清くあるためには、内に潜む汚いものを叩き出さなければならない。そうしてヨブの一番強いところに根ざしている、彼の正しさが砕かれたのだ。

ヨブがすべてを吐露し終えたときに、神様はヨブに向かって創造主なるご自身を語ってくださった。
だれがわたしにささげたのか、わたしが報いなければならないほどに。天の下にあるものはみな、わたしのものだ。(ヨブ記41:11)

無条件でわきまえるべき真理だ。しかしそのことを神様が直接語られたことにヨブへの愛の深さを思う。神の創造が語られる38章からの長い箇所は、まるで母が絵本を読み聞かせるようである。
天地創造の神が、近しくひとりの人に語ってくださったのだ。なんと光栄なことだろう・・と感動する。

 実は、このみ言葉は私にも信仰の大きな痛みの中で示された言葉だった。その時は何故に鞭打たれなければならないのか・・その理不尽さが分からなかったけれど、主権者としての神様を経験した時であった。

私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。(ヨブ記42:5)

この箇所を読むと「なんと幸いなことか」と思う。主の叱責は無視よりはるかに幸いだ。それは、守りの中で導かれていたことを知るからである。初めから主の御目が注がれていたことを知るからである。

 愛する子供たちが取り上げられたのは、ヨブが神様から子らを守ろうとしたからであり、それゆえ主は取り返されたのではないか・・と思った。主が取り返されたのなら、彼らは主の元に帰ったのだ。

ヨブの子たちは宴会を自分たちでできる大人なのだから、自ら主に捧げものをすることができるのだ。ヨブは彼らの信仰を主のお導きに委ねるべきであった。
神様に身代わりとして取りなすことができるのは御子イエスだけである。

しかし、私もつい息子の信仰を導こうなどと思って、主と息子の間に立って失敗することがある。息子に信仰の近道を教えたくなるのだ。愚かなことである。

ヨブに新しく素晴らしい子ども達が与えられたヨブ記42章13節を、私はすんなりと喜べなかった。
「亡くした子供の代わりに、もっと素晴らしい子供が与えられたからと言って嬉しいわけがない」と思ったからである。
しかしそれは傲慢なことであった。

「主は与え、主は取られる」のである。
「主の御名はほむべきかな」である。
自分自身の心を打ち砕いても、神様に賜るままに受けて喜ぶのが造られた者である。

ヨブの信仰告白を、主は最善に実現して返してくださったのだ。そうして、彼はすべてをそのままに受けたのである。主にお会いして、聖められた心の底からの喜びの中で・・。

今私たちは、十字架を通して神様の御愛を経験しており、聖霊の守りと導きがある。ヨブよりも遙かに主を知ることに置いて恵まれているのだ。

この後ヨブは百四十年生き、自分の子と、その子の子たちを四代目まで見た。
こうしてヨブは老年を迎え、長寿を全うして死んだ。(ヨブ記42:16~17)

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「ありがとうございます」だけ (ヨブ記1:1~10)

2017-05-09 19:11:51 | Weblog


 ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。

彼は自分自身のことで悩む必要はなかった。正しく生きることが出来ることは大きな祝福だ。清々しく生られることは何にも増して素晴らしい。それであって彼は大変な富豪であった。
7人の息子と3人の娘にも恵まれ、子供たちもそれぞれ豊かな環境で互いに行き来して仲良く暮らして居る様子が書かれている。

サタンが、「彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、(神様が)垣を巡らした」このように表現するほどの祝福であった。
しかし、ヨブはこれほどの祝福の中で思い煩っていた。

こうして祝宴の日が一巡すると、ヨブは彼らを呼び寄せ、聖別することにしていた。彼は翌朝早く、彼らひとりひとりのために、それぞれの全焼のいけにえをささげた。
ヨブは、「私の息子たちが、あるいは罪を犯し、心の中で神をのろったかもしれない。」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにしていた。


 家族は愛おしい。親にとって子供や孫は何にも増して愛おしい。久しぶりに見る孫の成長は眩しい。子供は数ヶ月で成長して変わって行くことを改めて認識。
今回、末っ子の我慢強い優しい振る舞いを何度か見て「成長したなぁ・・、決めつけてレッテル張りをしてはいけないなぁ・・」と思わされた。お姉ちゃんはずっと本の虫、側にいるだけで嬉しいけれど・・。
家族に労られその温かさの中に居ると、その関係をいつまでも抱きしめていたくなる。それは、不完全な自分の愛に苛立つことにもなり、せっかくの楽しい思い出を思い煩いによって曇らせてしまうことにもなる。

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。(マタイ10:37)

そんなことを考えている時みことばを思い出し、この言葉が神様の愛に満ちた言葉であることに気付いた。人の不完全な愛は愛を完成しないから、キリストの完全な愛を拠り所として愛するようにということだと。
すべてをあがなったよみがえりのイエスさまは「平安があなたがたにあるように」と何度も言われた。

不完全な愛は不安定で、その欠けを満たそうと頑張ったり思い煩ったりする。そうして愛を変質させてしまう・・。永遠のキリストの愛に頼って信頼して委ねることがなければ、人の愛は完全ではなくそこには真の平和はないのだ。


 ヨブは、子ども達をも愛しおられる神様の愛に安息するべきであった。そうして神様の守りの垣の中に繁栄して、子ども達と喜んでいるべきであった。
彼は子供たちを愛するあまり、神様から守ろうとしているよう感じられる。これは子供を神様から取り上げて自分のものとしていることだ。誰も神様の愛に勝る愛を持つことはないのに・・。

このことはゴールデンウィークが終わって、「もっとああして上げれば良かった。こうして上げようと思っていたのに・・」なんて、反省しきりの中でふっと気付かされたことであった。
せっかくの祝福の喜びをそのままに残せば良いのに。
受けたことをそのままに喜んで、何も付け加えず心に記念とすることは主へのお礼であり、気遣ってくれた子ども達へもお礼となるのに・・。

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さあ、いらっしゃい

2017-05-02 13:25:47 | Weblog



 先日、眩暈が激しくて・・とブログにアップした直後にめまいはピタリと治り、石を背負っているようだった体もスッと軽くなった。
不思議も、癒しも、細かな事まで織り込めば日常的なこと。その度にご真実な主に感謝して信頼を深めるのだけれど、今回のあまりに速やかな現れには「アラッ、何が起こった?」そんな感じだった。

ふっと「祈られているのかな・・」と思った。こう言うことがあるから、味を占めて弱さを書くのかも・・。このような時は「ひとりぼっちではない。神の家族なんだ」と感じて心まで癒されるのだ。
パウロはよく祈りを要請している。それは彼の素直さと謙遜なのかも知れない。



 明日は長男の家族が帰郷する。次男も帰宅しているので賑やかな数日を過ごすことになる。
何を食べさせようか・・と考え中だが、あまり変わったことをすると失敗するのだ。次男は私の変わった料理に激しく反対する。

孫は中学2年生、高校受験のために時間が無く夏休みは帰れないらしい。その分まで楽しもう・・。もう、完全に背は越されているだろうなあ・・。
末っ子はますますおしゃまになって、可愛い顔して鋭い言葉に磨きをかけているだろう・・楽しみだ。

 血圧の低めは変わらないけれど、眩暈がしなくなったので生活に不自由はなくなった。これで私は絶好調・・たぶん。
ラナンキュラスも色とりどりに咲き出して、「準備万態相整いました。」と言っている。
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